14.異世界でハプニング
光がゆっくりと消えると、アイリーンと母樹の分身体はふわりと宙に浮かぶ感覚に包まれた。
次の瞬間、足元に冷たい湿った土と落ち葉の感触が伝わり、二人は静かに着地する。
あたりを見渡すと、空は厚い樹冠に覆われており、淡い緑の光がもやのように差し込んでいた。
枝葉の隙間から射す光は点々と揺れ、森の奥に潜む影がかすかに動く。湿った苔の香り、遠くで小さく滴る水音――まるで時間が止まったような静寂が支配していた。
「……ここ、どこなの?」
アイリーンの声は小さく震えていた。
母樹の分身体が目を細めて周囲を見渡す。
「魔力の気配が……強い。間違いなく、ここは元の世界とは違う場所です」
薄暗い森の中、二人の影は揺れる葉と一体化するように伸びた。
その時――枝が揺れる音が遠くから聞こえる。風ではない。確かな生の気配がある。
「……お気をつけください、アイリーン様」
母樹の分身体が低くつぶやく。森は静かだが、確かに何かが二人を見ていた。
やがて、川のせせらぎが耳に届く。二人はそこで休憩を取ることにした。
水は透き通るほど澄み、底の石まで見える。
アイリーンは靴を脱ぎ、川に足を入れてはしゃいでいた。
その時――
「きゃああっ!」
森の奥から、女性の悲鳴が響いた。
アイリーンは顔を上げ、すぐに駆け出した。
「アイリーン様、駄目です! 行ってはいけません!」
母樹の分身体の声も届かず、少女はどんどん森の奥へと走り抜けていく。
やがて、開けた場所に出た。
そこには、角を生やした三メートル近い怪物がいた。
巨大な剣を振るい、冒険者らしき男女を次々と斬り伏せている。
その背後には豪奢な馬車があり、怪物は今まさに馬車へと襲いかかろうとしていた。
「やめて……!」
アイリーンは震える手で足元の小石を拾い、思い切って投げつけた。
石は見事に怪物の頭に命中する。
怪物はぎろりとアイリーンを睨み、標的を切り替えた。
ゆっくりと、少女の方へ歩み寄る。
逃げようとしても体が動かない。
足が震え、呼吸が止まりそうになる。
剣が振り上げられた――その刹那。
地面がうねるように盛り上がり、怪物の足元から無数の枝が伸びた。
それらはまるで生きているように動き、怪物の剣をかわし、絡みつき、そして――貫いた。
鋭い木の枝が次々と突き刺さり、怪物は血を噴きながら崩れ落ちる。
「アイリーン様!」
母樹の分身体が駆け寄り、少女の体を抱きとめる。
「お怪我はありませんか?」
「うん……大丈夫。今の、母さんがやったの?」
「はい。従枝を使いました」
「すごい! パパみたい!」
母樹はクスッと笑みを浮かべる。
「ヒロト様には遠く及びません」
だが、周囲を見回したアイリーンの表情が曇る。
血を流して倒れている冒険者たちがいた。
「母さん、この人たち……助けられないの?」
母樹の分身体は一瞬、視線を逸らした。
「人間の治療など、私の務めでは……」
「お願い、母さん。放っておけないよ!」
アイリーンの真っ直ぐな瞳に、母樹はしばし沈黙した後、ため息をついた。
「……仕方ありません。アイリーン様のご命令とあらば」
母樹の枝が静かに伸び、倒れた冒険者たちの体を包み込む。
淡い緑の光が放たれ、血が止まり、裂けた傷がゆっくりと塞がっていく。
やがて彼らの呼吸が穏やかに戻り、命がつながれたことを感じ取った。
「よかった……ありがとう、母さん」
「お礼を言われるようなことではございません。……まったく、ヒロト様そっくりですね、あなたは」
母樹が苦笑すると、アイリーンは照れくさそうに笑った。
その時、馬車の扉が開き、一人の少女が姿を現した。
絹のドレスをまとった品のある美少女――彼女は何かを口にしたが、言葉が通じない。
お互いに困ったように見つめ合う。
そこへ、遠くから馬の蹄の音が響いた。
振り返ると、一台の馬車が物凄い勢いでこちらへ向かってくる。
手綱を握るのは修道服に身を包んだ女性だった。
彼女は近くに馬車を停めると、迷いのない足取りでアイリーンのもとに歩み寄る。
そして、静かに頭を下げた。
「――お待ちしておりました、アイリーン様」