13.異変
「……あれ、ヒロト。見て」
ヴィクトリアの尻尾がピンと立つ。
リビングの大きな窓から外をのぞくと、庭の母樹の根元に小さな人影――アイリーンの姿があった。
風にそよぐ銀髪。彼女は母樹に何かを話しかけている。
「また母樹に相談か?」
ヒロトが呟いた瞬間、母樹の幹が淡く光り始めた。
「……ん? なんだ?」
光がひときわ強くなり、その中から――
ひとりの“若い女性”がゆっくりと姿を現した。
祥子が驚きの声をあげる。
「ひ、人が出てきた……!? 母樹から……!」
ヴィクトリアの耳がピクリと動く。
「ちょっと、あれ……分身体よ!?」
ヒロトは無言のまま窓の前に立ち尽くした。
アイリーンはその女性と何か話している。
だが次の瞬間、ふたりの身体が淡い光に包まれ――そのまま“吸い込まれるように”母樹の中へ消えていった。
「……今の、見間違いじゃないな?」
「間違いなく、母樹の中に……!」
ヒロトは息をのむと、
「ヴィクトリア、祥子! 来い!」と叫び、
リビングの扉を開けて外へ飛び出した。
***
庭は、夕方の光で黄金色に染まっていた。
だがその中で立つ母樹だけが、どこか異様な静けさをまとっている。
「母樹。……さっきのは何だ?」
ヒロトの声に、母樹の幹がかすかに揺れる。
『ヒロト様。……申し訳ありません。
アイリーン様は、私の分身体と共にドイツの山の母樹へ転移されました』
「ドイツ? ……勝手に?」
ヒロトの眉がぴくりと動く。
『はい。しかし、心配には及びません。
二時間ほどで戻ると申し上げておりました』
ヴィクトリアが肩をすくめる。
「二時間くらいなら……まぁ、いいんじゃない?」
ヒロトもため息をついて頷いた。
「仕方ない。あいつ、じっとしてるのが苦手だからな」
そう言って館へ戻る――だが、時はゆっくりと過ぎていった。
***
やがて、日が沈み、館の照明が灯る。
時計の針は二時間をとっくに過ぎていた。
「……遅いな」
ヒロトが腕時計を見つめながら呟く。
ヴィクトリアも落ち着かない様子で、しっぽをぱたぱたと揺らす。
「まさか、迷子とか……?」
「いや、母樹の転移は正確なはずだ。
何か……別の要因があったのかもしれない」
そのとき、外から低い声が響いた。
――母樹の声だ。
ん
『ヒロト様。報告がございます』
三人が駆け出し、庭へ出る。
母樹の枝が、風もないのにざわめいていた。
『……分身体との繋がりが、絶たれました』
「……なに?」
ヒロトの顔が一瞬で強張る。
「母樹、ドイツの母樹に直接繋げることはできるか?」
母樹はしばし沈黙し、そして頷いた。
「はい。可能です。ただし転移はかなりの魔力を消費します。ヒロト様、ヴィクトリア様、祥子様のお力をお借りします」
ヒロトたちは母樹の根元に手を添える。
周囲が青白い光に包まれ、空間がわずかに歪んだ。
「行くぞ……アイリーンを迎えに」
ヒロトの声と共に、光が弾けた。
***
空気が冷たい。針葉樹の森と岩山が広がり、ドイツ特有の澄んだ風が肌を刺す。
「ここが……ドイツの母樹か」
ヒロトは巨大な樹を見上げた。日本の母樹と瓜二つの姿だ。
「魔力の流れは正常。でも……」
ヴィクトリアは地面に手をかざすと、目を細めた。
「街の中で強力な転移魔法が使われてるわ」
「街の中?」
「ええ。魔法の座標は――おそらく観光地区。方向は南西、数キロ先」
ヒロトは頷き、立ち上がる。
「行くぞ。何があったか確かめよう」
そして、三人は冷たい山道を駆け下りていった。