転移の光
館の応接間に、重厚な扉が静かに閉まる音が響いた。
深紅の絨毯が足音を吸い込み、微かな香木の香りが漂う。
ヒロトは中央のソファに腰を下ろし、向かいに座る二人の信者を見つめた。
「――ヒロト様、これが例のものです」
白髪混じりの男が恭しく封筒を差し出す。
地方議員であり、古参の信者でもある桐生だ。
ヒロトが受け取ると、隣に座っていた中年の男性――市役所市民課の課長、山城が静かに頷いた。
「市のデータベースには、正式に登録されました。
戸籍、住民票、マイナンバー、運転免許証、健康保険証……
すべて、他の国民と同じ手続きで通してあります」
ヒロトは封筒を開き、中の書類を一枚ずつ確かめた。
戸籍謄本の表紙に印字された自分の名を見た瞬間、思わず息を呑む。
――日下部ヒロト。出生地:東京都世田谷区。
その記載を見つめながら、胸の奥で何かが静かに震えた。
「……これで、誰の前でも胸を張って“正真正銘の日本人です”と言えるわけだな」
ヒロトの言葉に、桐生は穏やかに微笑む。
「ヒロト様の存在を世に認めさせること。それが、我ら信徒の務めです」
山城は小さく咳払いをしてから言葉を継いだ。
「ですが……ご注意を。正式な記録として残る以上、今後は“普通の国民”として生活する責任が生じます」
ヒロトは真剣な表情でうなずいた。
「わかっている。もう、裏で生きる時代じゃない。
俺も“ちゃんとした職”について、堂々と生きていく」
その言葉に、桐生は深く頭を下げた。
「……ヒロト様の決意、しかと承りました。必要とあらば、私の議席を通して職の口も探してみましょう」
「ありがたいが、それは自分の力でやるよ」
ヒロトは封筒を胸に抱きながら、柔らかく笑った。
その姿に、ヴィクトリアが尻尾を揺らす。
「ふふ、なんだか“社会人デビュー”って感じね、ヒロト」
「ま、そういうことだな」
ヒロトは少し照れくさそうに笑う。
その瞬間、館の外を風が渡り、カーテンがふわりと揺れた。
――その穏やかな午後、誰もまだ知らなかった。
次に訪れる“転移事件”が、この平穏を一変させることを。
***
ヒロトとヴィクトリアが応接間を出てリビングに向かう。
ヴィクトリアは即座にソファに飛び乗り、いつもの定位置で丸くなった。
リモコンを操作するが、韓国ドラマがやっていない。
「……仕方ないわね。ドイツの旅番組でも見るか」
ため息をつきながら画面を見つめていると、
七歳になったアイリーンが勢いよくリビングに飛び込んできた。
「ママ~!」
ドン、とソファにジャンプして飛び乗る。
「危ないでしょ!」ヴィクトリアが思わず注意する。
だが、アイリーンはまったく反省する様子もない。
「ママ、これ韓国ドラマじゃないじゃん! 何見てるの?」
「ドイツの旅番組よ」
そのとき、ヒロトがリビングに入ってきた。
「ドイツか……昔、一度行ったことがあるな。バッハの演奏会も見たぞ」
祥子が目を丸くする。
「本当ですか? すごいですね!」
ヒロトは小さくうなずいた。
「ああ。母樹をドイツの山の中に生やしたから、行こうと思えばいつでも行ける」
その言葉を聞いた瞬間――アイリーンは勢いよく立ち上がり、
何も言わずに駆け出していった。
リビングの窓から、彼女が母樹のもとへ走っていく姿が見えた。
「……なんか、余計なこと言ったんじゃない? ヒロト?」
ヴィクトリアがあきれ顔でつぶやく。
ヒロトは頭をかきながら苦笑した。
「……まぁ、嫌な予感はするな」
***
母樹の根元にたどり着いたアイリーンは、息を弾ませながら言った。
「ねぇ母さん、ドイツに行きたいの! 連れてってくれる?」
母樹の枝がゆっくりと揺れる。
「そうですね……確かにドイツの山に母樹を植えてあります。
その母樹を私と繋げれば転移は可能です。ですが――ヒロト様の許可が必要です」
「大丈夫だって。いいからドイツに行かせてよ!」
頬をふくらませて、アイリーンはしつこく頼み込む。
「困りましたね……では、分かりました。私の分身体も同行しましょう」
幹から淡い光が漏れ、そこから一人の若い女性が姿を現した。
――それは、かつてヴィクトリアの知識を取り込んだときに得た能力だった。
二人は光に包まれ、ドイツの山中へと転移する。
緑に包まれた山の風景、石畳の街並み。
観光地を巡り、アイリーンは目を輝かせた。
だが、2時間ほど経ったころ――
「そろそろ帰りましょう。アイリーン様」母樹がそう言うと、アイリーンは不満げに唇を尖らせた。
「え~、まだ見てないところいっぱいあるのに!」
そして、ふっと笑う。
「こんな感じかな」
次の瞬間、アイリーンの手のひらから光が放たれた。
「ま、待ちなさいアイリーン!」
母樹の分身体が慌てて抱きつく。
まばゆい光が二人を包み込み――
やがて、すべての光が消えたとき、そこにはもう誰の姿もなかった。