子育て
「オギャー、オギャー!」
館に赤ん坊の泣き声が響き渡る。今は夜中の二時頃。
赤ん坊――アイリーンは、ヒロトの寝室に据えられたベビーベッドでけたたましく泣き声を上げていた。
ヒロトは寝ぼけ眼をこすりながらベッドを降り、慌ててアイリーンのもとへ駆け寄る。
ヴィクトリアもすでに起きており、ベビーベッドの隣にちょこんと座ってアイリーンを見つめていた。
「よーしよーし。どうしたアイリーン。お腹すいたのか?」
ヒロトが抱き上げてあやすと、すぐにヴィクトリアの声が飛んだ。
「ちょっとヒロト、もう少し首を支えて!」
「あ、ああ、わかった」
慌てて支え直すヒロト。その様子にヴィクトリアは尻尾をぱたぱたと揺らし、ため息をつく。
――トントン。
扉を叩く音とともに、祥子が駆け込んできた。
「ヒロト様、私が変わります」
そう言って、祥子は手際よくアイリーンを抱きかかえる。
抱いた瞬間、その泣き声が少しだけ弱まった。
「ほらほら、大丈夫ですよ……ねんねしましょうね」
穏やかな声が夜気に溶けていく。祥子は足を小さく揺らしながら、アイリーンを優しく撫でた。
「まったく……よく泣くわね、この子」
ヴィクトリアが欠伸をしながら尻尾を動かす。
「まあ、まだ生まれて間もないからな」
ヒロトが苦笑した。
「それにしても、祥子は慣れてるな」
「昔、妹の世話をしていたことがありますから」祥子は微笑む。
「それに……この子には、普通の赤ん坊とは違う“気配”を感じます」
「気配?」ヒロトが首をかしげる。
「ええ。母樹の息吹と同じ波を感じます。きっと母乳ではなく、“あれ”を求めて泣いているのでしょう」
祥子は静かに懐から銀色の小瓶を取り出した。中には淡く光を帯びた透明な液体が入っている。
「母樹様の樹液です。授けられた時、こう言われました。“この子が泣いた時は、これを与えなさい”と」
ヒロトは驚いたように目を見開く。
「まさか……ミルク代わりってことか?」
「ええ。人の乳ではなく、母樹の力で育つ子なのでしょう」
祥子は小瓶を開け、匙にほんの少し液体を垂らす。
淡い金色の光が指先を照らした。
「さあ、アイリーン様」
スプーンを唇に近づけると、泣き声がぴたりと止まり、アイリーンは静かに口を開けて飲み込んだ。
「……止まったな」ヒロトが息をのむ。
祥子の腕の中で、アイリーンは小さな手を動かしながら穏やかに目を閉じていった。
「ふう、やっと寝たわね」ヴィクトリアが肩をすくめる。
「母樹の樹液……赤ん坊の栄養にもなるなんて、さすがね」
「どうやら母親代わりは祥子になりそうだな」ヒロトが苦笑する。
祥子は顔を赤らめ、小さく首を振った。
「いえ……私など、とても」
「いいじゃない。あなた、抱き方も上手よ」
ヴィクトリアが尻尾で軽く祥子の腕を叩く。
その時、窓の外で風がそよぎ、木々がかすかに揺れた。
母樹の枝が静かに光を放ち、まるで母なる存在が遠くから子を見守っているかのようだった。
ヒロトはその光を見上げながら、ぽつりと呟く。
「……この子の未来は、俺たちが守らないとな」
それからの日々、ヒロトたちは慣れない子育てにてんてこ舞いになりながらも、
すくすくと育っていくアイリーンの成長を微笑ましく見守っていた。
そして――大きな転機が訪れたのは、七年後の、何気ない日の出来事だった。