アイリーン
女神ぺぺが人々から“母樹”と“赤ん坊”の記憶を消してから、三日が経った。
ヒロトたちは、まだ今後の方針を決めかねていた。
ちなみに、祥子は記憶を消されていない。
ぺぺがヒロトたちの「家族」と判断してくれたのだろう。
リビングに集まったヒロト、祥子、ヴィクトリア――二人と一匹は、これからのことを話し合っていた。
「赤ん坊が生まれるまで、しばらく施術も信者の受け入れも止めようと思うんだが……どう思う?」
ヒロトが訊ねると、ソファの上で丸くなっていたヴィクトリアが欠伸を噛み殺しながら答えた。
「そうね。その方が安心だわ」
祥子も頷きながら口を開く。
「私も賛成です。……住み込みの信者さんたちも、しばらくは別の場所に移ってもらったほうがいいでしょうね」
ヒロトは腕を組み、しばらく考え込んだあと、静かに頷いた。
「そうだな。母樹のことも、赤ん坊のことも……もう誰にも知られちゃいけない。あいつらには“神の力が弱ってる”って説明して、別の拠点に移ってもらおう」
「ふふ、うまく誤魔化せるかしら?」
「祥子が言えば、誰も疑わねぇさ」
「……信じすぎですよ」
祥子は苦笑しつつも、ほんの少しだけ頬を赤らめた。
――それから二日後。
信者たちは順番に荷物をまとめ、静かに館を去っていった。
誰一人口を揃えて疑問を口にしない。
ぺぺの消した“記憶の空白”が、彼らの心の隙間を曖昧にしていたのだろう。
やがて館は、嘘のように静けさを取り戻した。
人の声も、足音も、祈りの歌も消え――代わりに、春の風が母樹の枝葉をやさしく揺らしていた。
住み込み信者がいなくなったことで、家事全般は再び祥子の担当に戻った。
「なんか久しぶりに私たちだけの生活って落ち着くわね」
「ああ。無駄に部屋が広く感じるけどな」
そんな他愛もない会話を交わしながら、二人と一匹の穏やかな日々が戻っていった。
――そして半年後。
母樹が子を宿して一年が経つ。
胎児はさらに成長し、今では羊膜がパンパンに膨れ上がっていた。
ヒロトたちは母樹に宿る命を見上げ、息を呑む。
「……そろそろだな」
その瞬間、母樹の胎動が一際強くなった。
幹の根元から震えが伝わり、枝の一本一本が鼓動のように揺れはじめる。
「――ヒロト様」
母樹の声が脳内に響いた。
「その子を、受け止めてあげてください」
ヒロトは深く息を吸い込み、両手を広げた。
「よしきた。――従枝、展開!」
彼の背後から無数の枝が伸び、絡み合い、受け皿のような形を作る。
その枝はゆっくりと母樹の上方へ伸び、羊膜のすぐ下で静止した。
母樹が低く唸るような音を発する。
羊膜と繋がる細い管が震え、やがて「ぷつん」と柔らかな音を立てて切れた。
――その瞬間。
閃光が爆ぜた。
館全体を包み込むほどの光。
空気が震え、壁の紋章が一斉に浮かび上がる。
「魔力暴走だわ!」
ヴィクトリアが叫ぶやいなや、光の筋となって消えた。
次に現れたとき、彼女はすでに受け皿の上――赤ん坊の傍らにいた。
羊膜はすでに消え、赤子は小さな体を光に包まれていた。
「落ち着きなさい、アイリーン」
ヴィクトリアは光の渦に前足を伸ばす。
毛並みが逆立ち、彼女の体からも淡い金色の魔力が溢れ出す。
赤ん坊の暴走する魔力と、ヴィクトリアのそれがぶつかり合い、空間が激しく震える。
だが、やがて――光は穏やかに収束し、風も静まった。
「大丈夫よ……アイリーン」
ヴィクトリアは、赤ん坊にそっと頬を寄せた。
ヒロトと祥子は、ただ息を呑み、その光景を見守るしかなかった。
やがてヒロトの作った枝の受け皿から「オギャーオギャー」と赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
「ヒロト、ゆっくり下ろしてちょうだい」
ヴィクトリアの声に従い、ヒロトは受け皿をゆっくり地面に下ろす。
赤ん坊は受け皿の中で元気に泣き続ける。
「女の子か」
ヒロトが呟くと、赤ん坊に寄り添っていたヴィクトリアが微笑む。
「ええ。アイリーンっていうの」
「アイリーン……いい名前だ」
ヒロトも思わず微笑む。
祥子も目を輝かせながら、「アイリーン様、素敵ですわ」と声をかけた。
その場には、満ち足りた幸福な空気が流れていた。
――一方、天界の巨城。
玉座の間では女神ぺぺが大きな鏡に、ヒロトたちの様子を映し出していた。
「ふう。一時はどうなることかと肝を冷やしましたが、無事に生まれたようですね。めでたしめでたし」
ぺぺは胸を撫で下ろした。
その時、背後から静かな声が響いた。
「お喜びのところ、失礼いたします、女神ぺぺ様」
振り向くと、銀の翼を持つ青年の天使が恭しく頭を垂れていた。
整った顔立ちだが、その瞳には冷静な光が宿る。
「スタークス。どうしたの?」
ぺぺが問いかける。
彼は真っすぐ鏡を見つめたまま口を開いた。
「報告です。下界の魔力変動はすでに収束しましたが、あの赤子――“アイリーン”と呼ばれた存在から発せられる魔力は、神に連なる方々に匹敵する可能性があります」
「まぁ……そんなに?」
ぺぺは少し眉を上げ、驚きを隠せなかった。
スタークスはわずかに目を細める。
「はい。放置すれば“神格”を持つまでに成長するかもしれません。下界の均衡が崩れる危険もあります。……いずれ、管理が必要になるかと」
ぺぺは鏡の中のヒロトたちを見つめ、そっと微笑んだ。
「放っておきなさい。あの子は“希望”よ。力は強くても、争いを生むために生まれたわけじゃない」
「しかし……」とスタークスが言いかけると、ぺぺは軽く指を立てて制した。
「あなたももう少し、“人の成長”を信じてみなさい。ね?」
スタークスは一瞬言葉を失い、やがて深く頭を下げた。
「……御意」
ぺぺは満足げに頷き、鏡に映る赤子の寝顔を見つめながら呟いた。
「さあ、アイリーン。あなたが見せてくれる“未来”を楽しみにしているわ」