62話『絶望の淵に』
──終わる。
刃が振り下ろされる。
赤黒く濁った空を真っ二つに裂いて、破れた天幕みたいに雲がほつれる。
呼吸が追いつかない。肺は小魚みたいにぱくぱくして、吸った空気は焦げの匂いと鉄の味で満ちている。
心臓は拳で殴られているみたいに縮み、鼓動はひとつごとに世界から音を奪っていく。
ああ、これで全部が潰える。
怒りも、後悔も、約束も。
俺という存在も、ここでただの屍になる。
クルールの体温も、クレアの笑顔も、土砂の下に押し潰されるみたいに遠ざかっていく。
だが、その瞬間。
轟音が、戦場を震わせた。
耳をつんざく甲高い金属音。刃が刃を噛む、理不尽を逆算でねじ伏せるような音。
火花がはじけ、視界が一拍だけ真昼みたいに明るくなる。
衝撃が土煙を巻き上げ、砂と灰と血の混ざった粒子が頬に当たって、ちくりと痛い。
焼けた鉄と血の臭いに、乾いた風の匂いが、ほんの少し太陽のような光の匂いが混ざる。
そんなものがあるのか、と頭の隅で冷静な自分が呟き、すぐに消える。
視界の先。
俺の頭上に迫っていた大斧は──
一本の聖剣に受け止められていた。
絶望の軌道を、光を纏った刃が押し返している。
まるで、誰かが「まだ終わらせない」と言って、世界の巻き戻しボタンを親指でぐい、と押したみたいに。
「……マジ?」
喉の奥から漏れたのは、間の抜けた声。
戦場の真ん中で、信じられないものを見せられた子供みたいに、言葉が勝手に口から出た。
聖剣を握るその手の主は──
「フィリア……?」
振り返った横顔。
息を荒げている。肩が上下して、鎧の継ぎ目がわずかに軋む。
それでも瞳だけは真っ直ぐで、ひと筆書きで引いた線みたいに迷いがない。
紅に染まった戦場で、ひとりだけ光を背負って立つ。
それは紛れもない──勇者フィリア。
けれど俺の知る、あの不器用で、泣き虫で、でも誰かの傷にすぐ手を伸ばす、優しい少女でもあった。
歯を食いしばり、全身で大斧を押し返す。
小さな肩は震え、膝は折れそうに軋んでも、視線は一ミリも引かない。
彼女の剣には、教本には載っていない本物の勇気が宿っていた。
「……いつも……助けてもらってばかりだったから──」
掠れた声。肺の奥にまだ焦げた空気が残っているせいで、言葉が擦れている。
それでも、その一言に宿る決意は、刃よりも鋭く確かだ。
「──今度は、私が助ける番ッッ!!!」
瞬間、聖剣が爆ぜた。
黄金の閃光が奔流となって迸り、巨躯のハインリヒを正面からぶっ飛ばす。
鉄塊のような身体が地を揺らしながら転がり、地表の石が跳ねてはまた落ちる。
土煙が追いつけずに遅れて膨らみ、彼の輪郭を喰い隠した。
同時に、俺の四肢を縫い付けていた魔力の鎖が、乾いた音を立てて砕け散る。
痺れていた手足に雑音みたいな痛みが戻り、指先が自分のものだとやっと思い出す。
掌が地を掴む。砂の粒子が皮膚に食い込み、痛覚が「生きてる」を報告してくる。
理解は追いつかない。
理屈や段取りや勝算は、いまは後ろの席に押しやっておけ。
ひとつだけ、揺るぎない確信が胸に残る。
──彼女が、俺を救ってくれた。
フィリアがこちらを振り返る。
目尻に涙の跡がひっかかって、それでも意地っ張りみたいに口角を上げた。
泣き笑い。それが勇者の顔か、ただの女の子の顔か、俺にはもうどうでもよかった。
「立ってよ、アッシュ……! 一緒に戦おう!」
喉が詰まり、返事が音にならない。
呼吸がばらばらで、胸の奥に言葉にならない熱がたまる。
生きていたい、という欲と。生かされてしまった、という負い目と。
矛盾する二つの感情が胸骨の裏で喧嘩して、でも結論はひとつだ。
「どうしたの? いつもみたいに軽口のひとつくらい返してよ」
冗談めかした声音。
その軽さが、重たい憎悪の蓋を少しずつこじ開けていく。
俺を許せない俺を、それでも真っ直ぐに引き戻そうとする奴が、ここにいる。
──だから、彼女は勇者なのだろう。
気づけば、喉が勝手に動いた。
「ばか……もっと早く助けに来いよ──勇者様」
情けない声音になったのは、たぶん砂のせいだ。
それでも、言えた。言ってしまった。
フィリアは「うん」と短く頷く。その癖、目はちょっとだけ潤んでいる。
立ち上がる。
足は笑っていた。震えっぱなしで、体幹は信用ならない。
けれど、隣に差し出された視線──フィリアの瞳が、背中に見えない手を添えてくれる。
膝が鳴り、腰が軋む。人生でいちばん年寄りみたいな立ち上がり方で、それでも立った。
「……ったく、勇者様にここまで言わせるとか、男として恥ずかしいにもほどがあるな」
息を切らしながら、わざと軽口を叩く。
声は砂利の上を引きずる靴の音みたいに掠れていたけど、調子だけは崩さない。
フィリアはぐっと目を潤ませ、それでも涙を押し殺すみたいに笑う。
「その軽口……聞いたら、安心した。さっきまで、顔、怖かったよ」
「おいおい、せっかく本気モードだったのに」
「うん。でもね、アッシュはその調子でいてくれた方が、私、落ち着く」
「やめろ照れる」
口ではそう言いながら、胸の奥の結び目がひとつ解ける音がした。
土煙の向こうで、重い気配が立ち上がる。
巨体が起き上がる。
ハインリヒ──あの化け物は、まだ死んでいない。しぶといにもほどがある。
大斧を杖代わりに地へ突き立て、煙をかき分けて姿を現す。
全身に閃光の焼け跡。
それでも姿勢は揺るがない。
体重計が泣くレベルの質量が、ただ「討つため」に立っている。
「……ほう。これほどの短期間でここまで強くなるか」
低い声。
驚愕でも賞賛でもない、戦士としての淡々とした事実認定。
そして紅に煌めく眼が、ゆっくりとこちらへ焦点を合わせる。
「さすが勇者、と言うべきか」
まぶたがわずかに動き、口角が歪む。
次の一言が、土砂崩れの合図みたいに落ちてきた。
「だが──二人まとめて斬り潰すまでだ」
風が止まり、熱気が貼りつく。
世界の温度がひと度上がって、皮膚の上を刃の背で撫でられたみたいに総毛立つ。
フィリアが俺の隣に一歩進み出る。
聖剣を握り直す。その手の甲には細い傷が走り、そこにも光が宿っていた。
横顔はもう迷っていない。
勇者としての「役目」じゃない。ひとりの少女としての「選択」が、そこにあった。
「悩み、解決したのか?」
思わず訊いてしまう。
戦場のど真ん中で投げる会話としては緊張感がないが、俺たちの平常運転はだいたいこんなものだ。
「……ううん」
フィリアは首を振る。汗が顎先からぽたりと落ちた。
「多分、一生解決しないと思う。けどね……とりあえず、今の私が救える人がいるなら、少なくとも迷っちゃダメだと思うから」
声音には震えがなかった。
覚悟が声帯の裏で芯になっている。
俺なんかよりよっぽどまっすぐで、強い。
「かっこいいこと言うじゃん」
「でしょ? “私の気持ちの赴くままに”ってやつ」
「勇者がそれでいいのか?」
「勇者っていうより──私の戦う理由、ってことで」
「……良い理由だ」
気づけば、口の端が勝手に上がっていた。
人に見せるには品がない笑い方だが──
それが俺だ。
忘れちゃいけない。
それが、怪盗アッシュだ。
どこかから声がする。
「あの時の──クレアが殺された時の、俺みたいにならずに済んだみたいだな」
振り返る。
当然そこには誰もいない。
「……お前はそれで良いんだよ。そんなお前だから俺は、俺たちは──」
幻聴だ。
それは、ほんの前まで聞こえていたはずの一人の男の声。
今はもう聞くことのできない、かけがえのない家族だった者の声。
短刀を二本構える。
銀の刃が戦場の赤を拾って、細長い夕焼けみたいにきらめいた。
柄の感触が手に戻ってくる。指が、刃の重さを思い出す。
《二刀の極意》
これまで独りで背負ってきた。
誰にも頼らず、頼れず、ひとりでやるしかないと思ってた。
今度は隣の勇者と並んで使う。
方はあなたに握る短剣。そしてもう片方の手に握る短刀──紅焔は俺が独りじゃないと伝えてくれている気がした。
肩が軽くなる。呼吸が一本、長く吸える。
……なんだよ、結構悪くないじゃないか。
ハインリヒが大斧を振りかぶる。
大地ごと割り砕かんとする、質量と技量と呪いの複合。
あれをまともに食らえば、残るのは肉片と悔恨の残滓だけ。
フィリアと目が合った。
その一瞬で、十分だった。
過去の約束も、言葉の準備も、今は要らない。
言葉はいらない。
ただ頷き合って──
俺たちは、同時に飛び出した。
足裏が地を蹴る。
砂が弾け、空気が後ろへ流れる。
心臓はまだ忙しいが、鼓動はもう「恐怖」じゃなく「加速」を刻んでいた。
視界の端で、フィリアの光が並走する。
俺の刃は影を裂き、彼女の刃は影に光の筋を通す。
正面の巨影が迫る。
ハインリヒの眼が微かに細まった。
遅いよ、化け物。
ここからは──二人の番だ。




