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61話『救いなき殺意』


「……ミレイィィィィ!!!」


 肺が裂け、喉の奥が焼け切れるほどの絶叫。


 気づけば、もう足は勝手に走り出していた。冷静さも、計算も、自己制御も──全部置き去りに。


 胸を灼き焦がし、骨の奥から突き上げてくるのは、ただひとつ。

「殺意」──その単純でどうしようもない衝動だけ。


 クルールが俺に託した短剣が、掌の中で熱を持つ。

 刃が鳴動し、紅炎を吐き出す。

 迸った炎はもはや武器ではなかった。俺の腕を溶かす勢いで荒れ狂い、怒りの形そのものに変じていた。

 皮膚が焼ける痛覚すら、遠い。

 止まれなかった。止まれるはずがなかった。


「あは……♡」


 耳を掠める、耳障りで──けれど妙に甘く、皮膚の内側を舐めるような声。

 俺の怒りを吸って、育てて、花を咲かせるみたいに。

 ミレイは恍惚の色を頬にさし、うっとりとした笑みを浮かべていた。


「やっぱり、アッシュ様ぁ♡ かっこいいよ、その顔♡ 怒りに歪んで、涙と血で汚れて……ああ、最高♡ 私の王子様♡」


「黙れッ!!!」


 短剣を振り抜く。空気が砕け、炎の竜巻が地を裂き、空そのものを焼き焦がす。

 術式なんて存在しない。形も意味も持たない。

 暴発寸前の魔力を、ただ剥き出しに叩きつけるだけ。


 理性を失った刃は、もはや剣ですらなかった。

 それは獣の牙。

 燃え盛る飢えの象徴だった。

 そのままミレイを飲み込む──はずだった。


「ふふ……そう、それでいいの♡」


 黒い靄が広がった。

 俺の攻撃は何かに吸い取られるように空を切り、そのまますり抜けた。

 ミレイの輪郭が液体みたいに揺らぎ、溶けていく。

 幻惑。


「ッ……!」


 分かっていた。ミレイが好んで用いる術だと。

 だが、冷静さを欠いた俺の脳からは、その記憶すら零れ落ちていた。


 視界がぐにゃりと歪む。

 赤黒い戦場が、突如として別の色を帯びていく。


 そこにいたのは──クルール。

 俺の腕の中で冷たくなったはずの、俺の“家族”だった男。


「……アッシュ」


 幻影のクルールが、血で濡れた顔で笑っていた。

 責めるわけでもなく、ただ、哀しい色を瞳に宿して。


「……やめろ」


 声が震えた。

 やめろ。そんな顔をするな。


 けれど幻は、容赦なく続ける。


「お前が……憎いよ」


 胸の奥で、軋むように何かが砕けた。

 幻惑だ。分かってる。分かってるのに──歯を食いしばるしかなかった。


「やめろォォォォッ!!!」


 短剣を振りかぶり、炎を叩きつける。

 紅蓮が奔流となり、幻のクルールを焼き尽くす。

 だが次の瞬間、焼け跡に立っていたのは──また別の幻影。


 幼い少女。

 クレア。


「アッシュ……」


「や、めてくれ……」


 無邪気な声。血に濡れ、泣きながら、それでも笑顔を浮かべる少女。

 その笑顔は、あの頃と同じで──それなのに、まるで別物のように歪んで見えた。


「どうして……守ってくれなかったの?」


 呼吸が止まった。

 視界がぐらつく。脳が悲鳴を上げる。


 ──違う。そんなこと、言うはずがない。

 クレアは、そんなこと言う子じゃない。


 でも、声は甘く、脳に直接触れるように絡みつく。


 短剣を振り上げる。

 その刃先に、涙に濡れた瞳が映る。


 泣きそうな顔で、幻影のクレアが囁いた。


「またわたしを見捨てるの?」


「……やめろ……やめろ……やめろッッッ!!!」


 絶叫と共に、炎を叩きつけた。

 紅蓮の奔流が視界を埋め、音も形も焼き払い、残ったのは赤黒い灰だけ。


 その灰の向こうで。


 ミレイが、手を叩いて笑っていた。


「あははははは♡ いい……! もっと見せて! もっと狂ってぇ♡ あなたの理性が壊れる音、私の全身に響いてくる♡ ねぇ、もっと壊してよ♡」


「黙れぇぇぇぇッ!!!」


 理性が遠ざかる。

 熱が全身を蝕み、血管を灼き切っていく。


 ただひとつだけ、理解した。


 ──俺は、もう自分を止められない。


 ミレイの幻惑は俺を狂わせる。

 その仕組みも、過去に煽られて暴徒となった街の人々を思い出せば、理解できたはずだった。

 でも、もう冷静ではいられない。理解する余裕なんてどこにもない。


 頭の奥の奥で、誰かの声がかすかに響いた気がした。

 シロの声だ。冷静になれ、と。分析しろ、と。

 クロの声だ。怖い顔してないで、笑って、と。


 ──全部、遠い。

 霧の向こうの残響みたいに、手が届かない。


 俺はもう、戻れなかった。


「……お前だけは……殺す」


 呟いた瞬間、足が勝手に地を蹴った。

 炎が翼を広げるみたいに背中から噴き出し、俺を押し出す。


 ミレイが両手を広げる。

 まるで、恋人を迎え入れるみたいに。


「そう♡ それでいいの♡ もっと殺意を見せて♡ もっともっと、私を求めて♡」


 紅蓮と黒靄が正面からぶつかり合い、戦場そのものが息を呑んで震えた。


 衝突。


 紅蓮の熱波と、黒靄の幻影が正面から噛み合い、爆ぜるように弾け飛んだ。

 光と闇の衝突が、戦場の空気そのものを焼き切る。


 灰が巻き上がる。視界が塗りつぶされる。

 耳鳴り。脳を殴打されるような衝撃音。


 だが、俺は止まらない。

 止まれるわけがない。


「──はあッ!!」


 短剣を握り直す。二刀をクロスさせ、爆風を切り裂いて飛び込む。

 炎が尾を引き、夜空を真昼のように照らした。


 そこに──いた。


 黒靄に包まれ、ゆらりと揺れるミレイの影。

 顔は恍惚、頬は赤らみ、目は爛々と輝いている。


「ふふふ……♡ あーもうほんとアッシュ様素敵♡最高♡」


「黙れッ!」


 二刀が閃く。

 舞うように斬撃を繰り出す。

 軌跡が炎に変わり、交差するたびに空気を裂いた。


 ミレイは針のような短剣で受け流す。

 刃と刃がぶつかり、火花と幻光が乱舞する。

 斬撃の一つひとつに幻惑の残像が混じり、彼女の輪郭が二重に増幅して見えた。


「どれが本物だ……!」


 迷いを生む。

 だが、それすら承知で踏み込む。


「《トリック・アーツ:陽動幻影》!」


 俺の影が六つに分かれる。幻影と幻惑が交錯し、戦場は百鬼夜行のように乱れる。

 本物と幻が入り乱れ、刹那ごとに形を変える。


 だが──俺は見失わない。


 短剣を逆手に握り直し、《双影斬舞ダブル・シャドウ・ストライク》を発動。

 一刀の影にもう一刀を重ねる。

 幻惑を切り裂き、実体へと斬撃を叩き込む。


 赤黒い閃光が走る。

 ミレイの肩口に浅く傷が刻まれた。


「くっ……あははははは♡ いい……! 痛い……もっとちょうだい♡」


 血を流しながら、彼女は笑った。

 狂気に満ちた歓喜の笑顔。

 その表情が、俺の理性をさらに削っていく。


「《灰燼烈風ダスク・バースト》!」


 叫ぶと同時に、地を蹴り、魔力を短剣に叩き込む。

 灰と炎が竜巻を描き、渦巻きながらミレイを閉じ込めた。

 防御も回避も許さない高温の檻。


 だが──その中心で、ミレイの声が響く。


「あぁ……♡ 素敵……この熱、この痛み……アッシュ様の全部が私を焦がす♡」


 竜巻が弾けた。

 黒靄が爆ぜ、灰を押し返す。

 幻惑が渦を飲み込み、逆に俺の頭を締め上げる。


 視界に映るのは、過去の亡霊たち。

 クルール、クレア、仲間たち。

 みんなが血まみれで俺を睨みつける。


「アッシュ……どうして……」


「お前が……殺したんだろ……」


「わたしを……また見捨てるの?」


 声が、耳の奥で絡みつく。

 喉が裂けそうなほどの痛みが広がる。


「う、ぐ……ッ!!!」


 幻影を斬る。

 炎で焼く。

 だが、次から次へと増殖していく。


「もっと……もっと狂って……♡」


 甘ったるい囁きが、耳の奥に絡みつく。

 皮膚の下にまで染み込んでくるような声。血よりも濃く、毒よりも甘い。

 その響きは、心臓を掴んで離さない。怒りと殺意を膨らませ、余計な理性を削り落としていく。


 だが──それでも。


 俺は、こいつを殺す。


 もはや技でも策でもない。

 研ぎ澄まされた構えもなければ、冷静な狙いもない。

 ただ本能のまま、怒りを燃料にした無策の一撃。


「あああぁぁぁ──ッ!!!」


 咆哮とともに突き出した刃は、赤黒い残光を引きながら戦場を裂いた。

 炎が尾を引く。地が震える。俺自身の血管が悲鳴を上げる。

 このまま叩き潰す。それだけしか考えていなかった。


 だから──気づけなかった。


 戦場の底を這うように、別の気配が忍び寄っていたことに。


「このような形での決着は……残念なのだが」


 低い声が、耳を撃ち抜いた。


 次の瞬間、後頭部に重く鈍い衝撃。

 世界がぐらりと揺れ、視界の端が黒に塗りつぶされる。

 思考が途切れそうになる。


 この声──まさか……。


「……はいん、りひ?」


 掠れた声で名前を呼ぶのが精一杯だった。


 体内を駆け巡っていた炎が、急速に冷めていく。

 行き場を失った魔力が、俺を嘲笑うみたいに霧散していった。

 膝が砕ける。うつ伏せに地へ叩きつけられる。


 どさり、と。


 砂埃が舞った。

 動かない。いや、動かせない。

 四肢に絡みつく重圧──見れば、魔力の鎖が縫いつけるように俺を地面へ固定していた。


 視線だけを動かす。

 血の味を舌に感じながら、ミレイを見やると──奴は、両手を打ち合わせながら笑っていた。


「あはっ♡ 強気なアッシュ様が縛られてるのって……なんか、すごく興奮するかも♡」


 狂気じみた声。頬を紅潮させた表情。

 こいつの魔法だ。幻惑と呪具による拘束。


 最早、これまでなのか──? 


 胸にそんな言葉が浮かびかける。

 だが同時に、別の声も頭をかすめた。


 クルール。クレア。

 このまま死んだら、二人は許してくれるのか。


 ……いや。


 きっと許すだろう。そういう奴らだった。

 優しくて、どこまでも甘いやつらだったから。

 けれど、問題はそこじゃない。


 ──俺自身が、俺を許せない。


 奥歯を噛み砕く勢いで力を込める。

 四肢に、軋むほどの負荷をかける。


「許さねぇ……!」


 喉が裂ける声で吠える。

 血の味が濃くなる。


「ぶっ倒す……絶対に……!!」


 全身の筋肉が悲鳴を上げる。

 腱が裂けそうな嫌な音がした。

 それでも、力を込める。意志だけで、拘束を粉砕しようとする。


 けれど──世界は甘くない。

 気合や根性でどうにかなるなら、とっくに誰も死んじゃいない。


 ハインリヒの足音が、重く響く。

 巨躯が影を落とす。


「怪盗アッシュ……」


 斧を握りしめ、ゆっくりと口を開く。

 その声音は、怒りでも侮蔑でもなく、ただ戦士としての冷徹な響き。


「貴様とは正面で切り結び、決着をつけたかったが……ここは戦場だ。好きに恨め」


 鈍色の大斧が振り上げられる。

 落ちてきたら、確実に終わる。

 骨も肉も粉々にされる。


 ──ここまでか。


 シロ。クロ。ごめんな。最後まで一緒に居てやれなくて。

 クルール、クレア。許すな。俺を。こんな不甲斐ない俺を。


 そして……フィリア。


 君ならできる。

 俺なんていなくても、君はきっと魔王を倒す。

 だって、君はもう──立派な勇者なんだから。


「さらばだ──怪盗アッシュよ」


 その一言を合図に、大斧が唸りを上げた。

 空気を裂き、世界を断ち切るような衝撃が迫る。


 時間が止まったかのように遅く見える。

 振り下ろされる刃が、確実に俺を終わらせようとしていた。

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