60話『紅蓮の果てに』
爆煙の中、俺とクルールの剣が交差した。
紅蓮の炎と黒い影が絡みあう。
──勝利の女神はどちらに微笑むのか。
そんな大仰な言葉が一瞬、脳裏をよぎった。
だが頭に浮かんだのは、決して女神の微笑みなんかじゃない。無邪気に笑う、かつてのクレアの顔だけだった。
「……っ、はは……」
血と焦げた鉄の匂いが入り混じる中で、クルールが笑った。
その笑いは勝ち誇りでも自嘲でもなく──ただ、諦めの混ざった笑み。
「結局、お前には勝てねぇのか」
彼の紅炎はすでに細り、黒い靄が剥がれるように散っていく。
「そんな状態のお前に、負けるわけねーだろ」
俺は昂った気持ちを押し殺し、できるだけ冷静に返した。
だが喉は震えていた。わかってる。俺はこいつを殺す気なんか最初からなかったんだ。
──互いの奥義のぶつかり合い。その末に残ったのは、俺の勝利だった。
「ああ……全部、逃げてくなァ……これ」
満身創痍のクルールが呟く。
魔力が漏れ出し、風船がしぼむみたいに彼の体が弱っていく。
魔王軍の呪いが、解けかけているのだと悟った。
俺は反射的に彼の体を抱きかかえた。炎の熱も、焦げた匂いも、今だけはどうでもよかった。
「……少しは、正気に戻ったかよ」
「……正気……?」
クルールがかすれた声で笑う。
「そんなもん、とっくになくしてたさ。お前に会う、もっと前にな」
その表情は、戦場の狂犬でも盗賊団の頭領でもなかった。
ただの──俺の“家族”だった頃のクルールに戻っていた。
俺は息を吸い込み、真正面からぶつけた。
「なあ、やり直そうぜ」
「……は?」
クルールはぽかんと口を開けた。
「どうしたんだよ。鳩が豆鉄砲食った顔して」
「い、いや……お前、だって。俺はお前を殺そうと──」
「してなかったよ」
「──ッ」
クルールの目が揺れる。
俺は視線を逸らさずに続けた。
「俺にはお前を殺せなかった。戦ってて気づいたんだ。だからきっと、お前もそうなんだろ」
「……っ、バカか……そんなわけ──」
「あるんだよ。俺には聞こえた。剣の音に混ざって、お前の痛みも、叫びも、全部」
クルールは一瞬、言葉を失い──そして、不器用に鼻で笑った。
「はっ……適当なこと言いやがって」
だがその顔は、どうしようもなく穏やかだった。
「クレアの望んだ世界を作ろう。お前と俺なら──できるだろ?」
俺の声に、クルールの目が揺れた。
頑丈な壁が、ほんの少しだけ、軋んで崩れるように。
「……ああ……それも……悪くねぇな」
かすれた声に、安堵の色がにじんでいた。
その瞬間、俺は確かに信じた。
これからを一緒に歩けるのだと。
──だからこそ、次の瞬間は、あまりに残酷すぎた。
戦いの熱も、紅炎の残り火も、すべてを無意味にする一撃。
「……ぅ、あ……?」
クルールの口から、あまりに間抜けな声が漏れた。
その声音が耳に届いた瞬間、俺の頬を打ったのは、生ぬるく、鉄の味を孕んだ液体。
……血。
視界が、赤で塗りつぶされる。
さっきまで剣をぶつけ合っていた友の体から迸った赤。いや、紅炎よりも鮮烈で、世界を汚す色だった。
「ク、ルール……?」
信じたくなくて名前を呼ぶ。
だが目に映ったのは、彼の胸を真正面から貫く、黒曜石のように禍々しい魔力の槍だった。
異様に艶めき、赤黒く濡れて、獲物の命を啜るかのように脈打っていた。
「がっ……ごほ……ッ、あ……ッ!」
クルールの口から血が噴き出す。
咳き込み、肺へと逆流した血で呼吸は濁音に変わり、喉奥で水泡の弾けるような音が続く。
その顔は苦悶に歪みながらも、どこか諦めを受け入れているかのようで──俺は無性に怖くなった。
「おい……冗談だろ……やめろよ、そんな、くだらねぇ冗談……いらねぇぞッ!」
必死に言葉を投げる。
だが、返ってきたのは乾いた声だった。
「……天罰……だ……な」
「違ぇよバカ! そんなもん、あるか! お前はまだ助かる! 俺がなんとかする! だから踏ん張れ、クルール! 死ぬな!」
俺は震える手でポーチを探り、ポーションの瓶を掴む。
慌てて蓋を外し、彼の口へ流し込む。
だが──意味なんてなかった。
傷はあまりに深く、致命の一線を踏み越えていた。ポーションの液体はただ喉を濡らし、血と混ざり、口端から零れるだけ。
「……は、はは……やっぱり……お前は……ずるい……」
「何が……だよ」
「……全部……手に入れて……全部……守って……俺には……何もなかった……のに……」
血に濡れた唇が震えながら、それでも懸命に言葉を紡いでいた。
その眼差しに、憎悪はもうなかった。
嫉妬の残滓すら消え去り、ただ淡く、穏やかな光だけが揺れていた。
「……お前が……羨ましかった……んだ」
「……馬鹿野郎……」
俺は腰のポーチに手を突っ込み、焦げて硬くなったパンを取り出す。
片手で必死に千切り、彼の口元へ押し当てる。
「ほら……食え。昔みたいにな」
クルールは驚いたように目を見開き、次の瞬間、ふっと力の抜けた笑みを浮かべた。
「……はは……こんな時に……バカか、お前は……」
それでもゆっくりと咀嚼し、喉を通した。
「バカ……こんな時だからだよ」
思い出して欲しかった。
あの頃を思い出せばきっと、クルールだって生きて進めるはずだと、俺は理由もなくそう思ったから。
涙のような吐息で、ぽつりと零す。
「……ああ……懐かしい……味……」
その手が、ふらりと腰の短剣を探り、抜き取ると、俺の胸へ押し付けてきた。
「……アッシュ……この剣……持ってけ……」
「やめろ! そんなもん、いらねぇ! 武器なんかより、お前が生きてりゃいいんだ! 生きろよ、クルール!」
俺は叫ぶ。声が裏返っていた。
だが、彼は遠くを見つめたまま、もう俺を見てはいなかった。
「……クレア……ごめんな……」
その声は、もう弱々しくて──。
「ちょっと待て、やめろよ! なに勝手に幕引きしてんだよ! 俺たちでクレアも過去もこれからも、全部背負うんだろ! それが約束だっただろ!!」
俺が叫んでも、クルールは俺を通り抜けるように、ずっと遠くを見ていた。
その瞳は、炎でも血でもない、もっと柔らかな何かを追いかけているようで。
「……今、行くよ……」
その瞬間、彼の体は俺の腕の中で、力なく崩れ落ちた。
「クルールッ!! やめろ、目ぇ開けろ! 生きろ! 生きて、俺の隣で笑えよ! だから……っ!」
「……は……はは……悪ぃな……最期まで……俺って……」
掠れた声。最後の笑い声。
その直後、すべてが途切れた。
「クルール……?」
呼びかける。
返事は、もう返ってこない。
「なぁ、クルール。おい、クルール! ふざけんなよ、起きろって! 頼むから……」
必死に揺さぶる。
けれど、体は動かない。
瞳はもう閉じられ、二度と開くことはなかった。
「クルールゥゥゥゥゥ!!!」
嗚咽と絶叫が、焼けただれた空の下に響き渡った。
俺の絶叫を、まるで蜜でも吸うかのように嘲笑う声が、焼け焦げた戦場にこだました。
「あっはははははははっ♡ お疲れさまでしたぁっ! クルール♡」
甲高く、耳障りで、けれど艶を帯びた笑い声。
振り向いた先にいたのは、炎を易々と裂いて現れた黒い影。
長く艶やかな黒髪を靡かせ、狂気を宿した瞳で俺を舐めるように見下ろす女。
ミレイ。
「ふふっ……ご苦労さまぁ。──あなたの役目は、もう終わりです」
吐き捨てられたその言葉は、氷より冷たく、毒より甘く、胸の奥を抉った。
クルールの死体が腕の中でまだ温もりを残しているというのに、その温もりを踏み躙るような声だった。
「あはははは♡ アッシュ様……その顔っ! あぁ、いい……! 絶望で染まったその表情♡ 最高です♡ あぁ、私とお揃いですねぇ♡」
愉悦に蕩けた顔。
狂気を隠そうともしない声音。
俺の怒りと悲しみを、飢えた獣のように貪り、舐め尽くそうとする。
「……黙れ……!」
喉が裂ける。
怒りも、悲しみも、絶望も、全部まとめて声にならなかった。
熱が胸を灼き、声帯を焼き切る。
それでも必死に、言葉をひねり出す。
「てめぇに……クルールを語る資格なんざ、一欠片もねぇ……!」
ミレイは片手で口元を隠しながら、わざとらしく肩を震わせた。
「もー♡ 怖い顔! でも、そんなに怒って……どうするの? 殺す? ねぇ、殺してくれるんですかぁ♡? 大切な人を、私が壊したから♡」
挑発。いや、誘導だった。
分かっている。
こいつは俺を煽って、俺を壊そうとしている。
それでも……止まらなかった。
「お前ぇ……ッ!」
怒鳴った瞬間、肺の奥にまで溜め込んだ熱が爆ぜた。
理性が、音を立てて崩れ落ちる。
頭の中で警鐘が鳴り響くのに、もう聞こえない。
聞こえちゃいけない。
俺は、今、聞きたくなかった。
アッシュという皮を剥ぎ取った、ただの獣が姿を現す。
「クルールはな……っ! 誰かに操られて死ぬために生きてたんじゃねぇ! てめぇのオモチャにされるために戦ったんじゃねぇんだよ!」
喉から噛み殺したような声が漏れ出す。
俺の怒りは言葉に収まりきらず、全身の魔力が勝手に噴き出した。
灼熱が弾け、炎が荒れ狂い、周囲の瓦礫を一瞬で蒸発させる。
「ふふふふ……♡ いい……! いいですよぉ♡ もっと、もっと怒って! もっとその顔を見せて! あぁ、私の王子様ぁ♡ やっぱりその顔がいちばん素敵……!」
ミレイは頬を紅潮させ、うっとりと見惚れている。
人を嘲るのではない。人を壊す瞬間を悦ぶ、真性の狂人。
「……ミレイィィィィ!!」
叫びが爆音となり、瓦礫が吹き飛ぶ。
足が勝手に地を蹴り、拳に魔力が纏わりつく。
冷静さも、計算も、自己制御も全部かなぐり捨てて──ただ、「殺す」ために突き進んでいた。




