54話『街も、人も、全部燃えて』
夜の空気は、まるで嵐の前のように──いや、違う。嵐の前の“よう”では済まされない。
それは、やがて訪れる破滅の予兆。焼けた灰と血のにおいが、まだ姿を見せぬ破局を密かに告げていた。
王都ミルディアは、深い夜闇に沈んでいた。
石畳の通りにはオイルランタンの灯が揺らめき、まばらな人影がその光の中を足早に通り過ぎていく。
誰もが、今日という一日が静かに終わると信じていた。けれど──。
突如として、それは始まった。
最初の爆音は、遠くの広場から響いた。まるで悲劇の舞台の幕が上がるように、鈍く重い振動が地を揺らし、空気を切り裂いた。
火柱が上がる。建屋が、爆ぜた。
夜空を赤く裂いたのは、爆発ではない。
炎だった。憎しみの炎だ。
焼けた木材の匂いが風に乗って街を包み込み、人々は何が起きたのか理解する間もなく、炎に包まれていく。
「か、火事だ……!」
「逃げろ! 盗賊だ、奴らが来た!」
どこから現れたのか。どこから入り込んだのか。
紅蓮の盗賊団。名を聞くだけで子どもが泣き、大人が背を向ける狂気の一団が、王都の心臓部にまで手を伸ばしていた。
次々と火が放たれ、悲鳴と怒号が入り混じり、通りはたちまちのうちに地獄と化していく。
「くそっ、裏門からの侵入だ! 迎撃しろ!」
城壁の外縁、各門から出動した王国兵たちが盾と槍を構え、赤い火の向こうに立ちふさがる盗賊たちと対峙する。
火を消そうと走った消防隊には、灰と炎の入り混じった煙が立ち込め、視界は濁り、呼吸は奪われていく。
灰は舞い、瓦礫は崩れ、街が、焦げた音を立てて崩壊していった。
城壁近く、中央区の広場。
そこでは、貴族の家柄を持つ騎士たちが銀の鎧をまとい、整然と盾を構えていた。
彼らの前には、鋭い刃と狂気に満ちた視線を携えた紅蓮の盗賊たちが、飢えた獣のように迫っていた。
交差するのは理性なき刃と、正義という名の暴力。
雨の様に槍を突き立てられる兵士、一刀にして断末魔をあげる盗賊、唇を噛みながら崩れる体──そこにはただ、命の奪い合いだけが存在していた。
「前へ! 前に出ろ!」
指揮官の怒号が飛ぶが、その声も炎と煙にかき消される。
騎士たちは必死に前へ進み、誇りを掲げながらも、混沌の渦へと飲み込まれていった。
だが。
混乱は、兵士や盗賊だけのものではなかった。
市民たちの中に──異変が起きていた。
「なぜ、なぜ貴族は動かない!」
「こんな時に逃げるのか!? 俺たちの税金は何に使われてたんだ!」
誰かが叫んだ。
怒りに満ちた声が、波紋のように広がっていく。
家が燃えている。商店が破壊されている。
だが、誰も助けてくれない。兵士は盗賊と戦い、多くの貴族は高台の邸宅に閉じこもったままだ。
市民たちの間に、怒りが芽生える。
それは一人から始まり、十人に、百人に伝播し、やがて街全体を染め上げていく。
──けれど、その怒りは何かがおかしかった。
普通の怒りとは違う。
抑えきれない、制御の利かない暴力的な感情。
まるで誰かに操られているかのような──
魔力。
それは、感情を煽り、思考を狂わせる“何か”。
怒りと憎しみを増幅し、人間を獣へと変えていく異質な力。
「貴族の家だ! 燃やせ、焼き尽くせ!」
「この家は俺が造ったんだ! 壊さないでくれぇぇぇ!」
群衆の声が次々とあがり、金属の柵が蹴破られ、石畳にガラスが砕ける音が重なった。
老婆が鍋を振り回し、少年が投石し、娘が刃物を握って涙を流す。
「どうして、どうしてこんなことに……」
嗚咽混じりの呟きは、暴動の熱気にかき消される。
次の瞬間、誰かが斧を振り上げ、その斧が誰かの身体を裂いた。
もはや、それは抗議ではない。
救いでも、嘆きでもない。
ただ、混沌だった。
炎と煙と、叫びと嗤いの渦の中に、一つの影が静かに立ち上がった。
髪は二束に分かれ、夜風に揺れる。
漆黒の髪の内側から除く桃と紫に染まった色が、月明かりに揺れ、派手な服が赤い炎を反射していた。
彼女は、瓦礫の中に立っていた。
唇だけが、意味深に歪んでいる。
「……あはっ、馬鹿みたい。本当に」
魔王軍幹部──ミレイ。
狂気の瞳が、ゆっくりと暴徒たちを見渡していく。
小さく、何かを呟く。
声は風に消えたが、その言葉が魔力を持って王都に浸透していく。
「さあ、もっと騒ぎなさい。──燃えるがいい」
その瞬間。
空気が変わった。
風が渦を巻き、目に見えない圧力が周囲に広がる。
ミレイの周囲を満たすのは、“幻惑魔法”。
視覚、聴覚、感情、記憶。
あらゆる感性に介入する魔力が、市民の心の奥底に眠る不満を暴き、怒りと憎しみで塗り潰していく。
理性が焦げ、正気が剥がれ落ち、残ったのは激情だけ。
地鳴りのような怒声、喚声、そして笑い。
暴動は、もはや誰にも止められなかった。
王城の中では、幾人かの貴族たちが声を荒げていた。
「話が違うぞ! 奴らはただの野盗ではなかったのか!」
「なぜ、ここまでの魔力干渉が──」
「勇者は、勇者は何をしている!」
「すでに交戦しているとの報告が!!」
「くそっ、敵の数が多すぎる!!」
だが、その叫びも、焦げついた風の中にかき消されていく。
この夜、王都に降りかかるのは単なる炎ではない。
理性を焼く、激情の炎だった。
誰もが気づき始めていた。
この混乱が、単なる偶発的な暴動では終わらないことを。
ミレイの幻惑が引き起こした“怒りの感染”が、王都そのものを覆い尽くそうとしていた。
◾️
夜の空を背景に──ミルディア城の重厚な門が、炎で赤黒く照らされている。
地響きにも似た兵士たちの怒号が、石畳の城前広場にこだました。
その中心に、ひとりの影。
いや、影ではない。──炎の中を赤いマントが翻り、短刀を携えた男が、不気味なシルエットを描いていた。
その男は、誰よりも冷静に、誰よりも情熱的に炎と剣を操う存在──クルール。
怒りと憎しみを元に、全てを燃やし灰にする男。
彼が歩み出すごとに、空気がねじれた。兵士はその存在を感じ取り、身動きを止める。恐怖か、あるいは怒りか──それとも絶望か。
城門の扉は高音の炎ですでに歪み、焼け崩れそうな鉄格子が揺れている。クルールはゆっくりとマントを左右に揺らしながら、その瞳で門扉を見据えた。
「この腐った秩序を──燃やし尽くす」
その声は遠くまで届いた。紅色に煌めくその瞳には、狂気と悲しみ、そして何よりも「決意」があった。
足元から火が這い出す。
彼が踏みしめた一歩ごとに、細かな亀裂が広がり、炎の端が石の隙間を這い上がっていく。まるで大地が叫んでいるようだった──だが、クルールの表情には、迷いも躊躇もない。
──腰にかける短刀、「紅焔」。
刀身は夜にも消えぬ黒鉄だが、柄から先端まで血のように赤い焔を宿す。まるで呼吸をし、鼓動を刻んでいるかのように。
彼は柄を軽く握る。指先に伝わるのは、炎の熱だけではない。過去の記憶、友情の残響、愛する人の思い出、そして──憎しみ。
突然、男はひらりと左右に飛び、軍勢に斬り込んだ。炎が弾け、兵士の盾が焼ける。がっ、と嘶く声が飛び、数名の兵士が悲鳴とともに後退する。
短刀──しかし、その斬撃は単なる金属の刃物ではなかった。刀身から放たれた魔力の刃が、兵の肉体と魔力を同時に薙ぎ払う。炎が暴れるように踊り散り、石畳の上に黒く焦げた痕が残る。
兵士側が群れを成して攻撃をしかけようとする。それと同時に城門の裏で弓が放たれる。
しかし、それらはすべて灰になる。燃えて、燃えて、そしてそれらは散る。夜空に舞う雪のようだった。
クルールは短刀を振りかぶりながら、指先で赤蓮の焔を操る。まるで提灯の炎を吹き消すように、兵士たちを焼き払い続ける一撃必殺の連環。
無差別に、視界に入るモノを灰にする。
そして、目指すは秩序の象徴──ミルディア城そのもの。
兵士たちはただの灰にすぎない。だけれども、その中にも、かつての自分の姿を重ねていたのかもしれない。
瞬間、戦場は恐怖と火焔の虹で満たされた。雄叫びと悲鳴が混ざり合い、城前は熾烈な「地獄」へと変貌する。
──そして彼は、城門に歩み寄った。
焦熱に歪む鉄格子に手を置く。指が火に包まれ、金属の熱さと魔力の痺れが伝わる。そして、ある言葉を呟いた。
「この国の“正義”に、俺からの憎しみと怒りを──見せてやる」
言い放つと共に、短刀を振り下ろした。刃は──赤黒く、強く輝く閃光とともに、鉄格子を貫いた。
金属が裂け、刃が届いた。
兵士たちは再び向かう。
盾が溶ける。
剣が溶ける。
火花が舞い、灰が舞う。
暗闇と炎と灰が渦巻く嵐の中心で、クルールは高らかに笑った。
だがその瞳には──まだ、かつての暖かな情感が僅かに残っていた。ほんの一瞬だが。
「燃えろ……燃え盛れ……全てを灰にしてやる」
彼の唇から零れたその呟きは、自らに──あるいは誰かに語りかけるようだった。
城門は、裂けた。鉄格子が傾き、門前には大きな隙間が生まれた──それを、赤いマントがひらりとくぐる。
振り返ることはない。その視線は、城壁の奥深く、夜の支配者の間へと続いていた。彼が去った後に残るのは──燃える城門と、ひび割れた石畳、そして燃え滾る紅い焔だけだった。
その一撃は、王都の運命を刷り替える──声なき宣戦布告となった。




