52話『王都に響く紅蓮の予告』
窓の外では、雨が静かに降り続けていた。
しとしと、と優しく。
リードルの小さな宿屋に差し込む雨音だけが、夜の闇を染めていく。
俺は雨粒を眺めながら、そっとひとつ息を吐いた。
雨の匂いは、嫌いじゃなかった。むしろ、落ち着く。
けれど、──今、この胸に込められたこの締めつけは、そんな安らぎとは違う。きっと、それは心の奥底に潜む、“焦り”のせいなのだ。
「……今度は、王都だって?」
背後からふわりとした声が降ってきた。
クロのそれは、怒りとも呆れともつかない。だがその中には、ほんの少し、震えすら含まれていた。
「情報は確か。今朝、王都の諜報網と、この街の連絡網──二つのルートで、同じ内容が確認された」
低く、沈着な声で答えたのはシロ。机に広げた大きな地図を指でなぞりながら、変わらぬ表情を保つ。
その姿はいつだって冷静だが、指の先が止まった瞬間、その場所だけが──まるで異彩を放っていた。
そこに書かれた地名は──ミルディア王国、そして王都ミルディア。
「……クルールは、何をしようとしてるんだ」
思わず口をついて出た問い。それは誰に向けたものでもなかった。だが、シロはゆっくりと顔を上げ、俺の瞳をじっと見据えた。
「“燃やすつもり”です。王都そのものを」
その一言が胸に突き刺さり、呼吸が止まりそうになった。
俺が知っているクルールは、こんな事をするような奴ではなかった。
だが今──彼は、血にすら飽きたように、すべてを灰に変えるためだけに、燃え広がる炎のように、変わってしまっていた。
「うっそ……まじで……? そんなでっかいとこ狙うとか、ブレーキ完全に壊れてるじゃん……」
クロは小声でつぶやいた。言葉の半分は、信じられない驚きと、残りの半分は恐怖と怒り。
「……いや、違うな」
俺は言葉を遮った。脳内にぐるぐると嵐が巻き起こるようだった。
「壊したんだよ、あいつは」
部屋の空気が、一瞬にして凍りつく。まるで時間が止まったかのようだった。
「それじゃあ……アッシュ、どうするの?」
クロの声には、怯えと問いが混ざっていた。その瞳は、俺の答えを待っていた。
「……まだ、わからない」
俺は唇をかんで答えた。気取った言い回しじゃない。正直な迷いだけ。それでも、それが、俺の今の全てだった。
「……でも、あの王都を、灰にはさせない。それに、クルールを止めなきゃいけない」
そう呟いた俺の声は、小さく、でも確かに震えていた。それは、願いにすぎなかったけれど、同時に信じるしかない、自分への誓いだった。
「シロ。襲撃はいつだ?」
「報告によれば、昨日、王都の警備隊に匿名の予告状が届いています。内容は──“明後日の日没、革命を開始する”とだけ」
「……予告、か」
俺は鼻を鳴らした。相変わらず、クルールは芝居がかった演出を好むらしい。わかりやすい挑発。でも、乗らないわけにはいかない。
「アッシュ」
クロが、立ち上がった。いつもの冗談めいた笑顔ではなく、瞳の奥に、強い覚悟が宿っていた。
「行くんだよね? あの街を守るために。アッシュの大切だった人を止めるために」
「ああ。もちろんだ」
ただ静かに頷いて返す。いつもの軽口もかけられなかった。だが、その頷きの重さだけはしっかり伝わったはずだ。
止めるために。時には──終わらせなければならないという覚悟をも胸に抱いて。
「このままじゃ、あの街は──」
「灰になる」
シロが短く言い切った。
「王族も、貴族たちも、今はまだ気づいていない。紅蓮の盗賊団が、“盗賊”を超えた存在だと」
俺はそれに重ねるようにして口を開く。
「クルールは──戦術も、計画も、ずっと前から練っていたんだ。しかも、魔王軍の後ろ盾まで手に入れた。王国はその異変に気づいてない」
「つまり、動くなら今しかないってことだー!」
クロが鞄をまとめた。その手つきは切迫していて、でも覚悟に満ちていた。
──そうだ。俺は再び剣を抜くしかない。かつて笑い合い、肩を並べた男と。本物の兄弟以上の絆で繋がっていたやつと。
「俺がやらなきゃ……な」
驚くほど静かな声だった。けれど俺には、その声が己に誓った“覚悟”に聞こえた。
「俺が行かなきゃならない。他の誰でもない、俺が」
クロが苦笑交じりに返す。
「アッシュって、そういうときだけ、すごく格好いいよね」
「……褒められてる気がしないが」
軽い返しをしたが、胸はしびれていた。少しだけ笑えた気がした。
「その通りだよ。シロも、そう思うでしょ?」
言葉を向けられたシロが、無表情のままに一言だけ。
「アッシュはたまに格好良くなる。普段は、ひねくれたポンコツなくせに」
まるで言い当てられたかのような軽い批判。でも、その声の端には確かな信頼が隠れているのが分かった。
「……お前らなぁ」
俺は頭をかきながら苦笑する。だが、そのやりとりが、ひどくありがたかった。
彼女らの存在が、俺にとってどれほど支えになっているか、言葉にできなくても気づいていたから。
「よし、やるか。まずは王都に戻ってて情報収集だ。それから──」
俺が言いかけると、クロがうんと大きく頷いた。
「了解。馬車手配してくるね」
「私は王都中を繋ぐ連絡網をもう一度チェックしておきます」
二人が部屋を離れていく。背中を見送りながら、俺は最後に一度だけ、窓の外を見た。
落ちる雨粒は光を帯び、街を包んでいる。だけど、その優しさは──俺の胸の奥にある“燃えるような焦燥”をかき消せなかった。
クルール。
本当に、王都を燃やすつもりなのか。
いや。違う。お前は燃やすつもり、じゃなくて燃やしたいんだ。その先にある──炎の中で何かを確かめたくて、もう戻れない場所まで進んでしまったんだ。
だが、俺も止まらない。
お前を止める理由が、ここにあるから。
「──お前がどうなっていようと、俺は」
その先は詰まって、呑み込んでしまった。けれど、何を言いかけたかは、自分で分かっていた。
まだだ。すべては終わっていない。
窓の向こう、濡れた街並みに消えていく雨音が、そう囁いているようだった。
●
ミルディア王国の王都ミルディア。
それはまるで、時を止めた絵画のように静かだった。
穏やかな陽光が石畳を照らし、鳩が穏やかに空を舞い、街の喧騒すら、どこか上品に整っている。
だが、静けさとは往々にして、嵐の前にだけ許される贅沢でもある。
そして、その都の中心にあるミルディア城。
その奥、象徴たる円卓の間には、緊張感という名の冷たい霧が漂っていた。
広々とした天井高の部屋には、装飾過剰な椅子が十二脚、まるで演者の揃った舞台装置のように並んでいる。
その椅子には、王国を代表する重鎮たち──貴族と高官たちが静かに、あるいは傲慢に座っていた。
議題はただ一つ。
“紅蓮の盗賊団”から届いた、襲撃予告状について。
沈黙。重々しい、質量をもった沈黙が円卓の間を支配していた。
時間だけが容赦なく流れていく中、一人の男が唐突に喉を鳴らし、小さく咳払いをした。
「……さて、陛下のご到着までに、先に話を進めておきましょうか」
それは、銀髪を几帳面に撫でつけ、赤紫のブローチでマントを留めたフォルディス公爵。歳は六十を越えているが、その目には権力の炎が未だくすぶっていた。
「くだらぬ脅威に、いちいち時間を割いてなどいられませんのでな」
「“くだらぬ”脅威、か」
応じたのは、部屋の隅に座る丸っこい体型の──猫好きで偏屈な男、エルセラ卿。
過去にモノクローム怪盗団に記憶水晶を盗まれた貴族。
貴族社会の中でもとびきり“濃い”血筋をもち、政商として、魔術部門への投資による政治と軍事の中枢として、両輪を支配する男。
──実は、そんな結構偉い立場の人だったのだ。
ただし、モノクローム怪盗団の襲撃を受けて以降、近頃は悪事を働いていないと噂されている。
「その“くだらぬ”連中に、我が王国は既に五つの都市を襲撃されておる。調査によると被害は、死者百二十名以上、略奪された食糧は数ヶ月分に及ぶ。それに我が国にまつわる宝まで奪われている、だとか。……確か、貴公の領も焼かれたと記憶しておりますが?」
「うむ、それは遺憾なことではありますが……」
フォルディスは鼻を鳴らし、優雅に顎を撫でた。まるで誰かがこぼしたワインの染みでも見ているような、他人事の顔だ。
「現場の兵どもが無能だった、それだけのことです。勇者殿さえいれば、瞬く間に掃討できる相手でしょう」
「ふん……」
エルセラ卿が眉をひそめる。その視線を受けた他の貴族たちは、くすくすと子供のように笑い始めた。威厳と品位を兼ね備えた笑い、というよりは、学園の昼休みに繰り広げられる下品な噂話のようだった。
「まさか、エルセラ卿。あなた、盗賊団のことを恐れておいでか? いやはや、以前似たような“怪盗団”にでも、大切なモノを盗まれたのでしょうな?」
悪意のこもった冗談に、会議室がどっと笑いに包まれる。笑いの渦の中心にいるのは、グレゴール侯爵。政務官の筆頭にして、王政の実質的な運営を牛耳る“宰相”だ。
「ですが、まあ……問題はありません。盗賊風情、王都の兵と勇者殿が揃えば、殲滅可能です。むしろ、これは良い機会です。下民どもに、我が国の“威光”を示してやりましょう」
「……彼らが本当に、ただの“盗賊”であれば、の話だがな」
ぼそりと漏れたエルセラ卿の言葉に、グレゴール侯の眉が微かに動いた。
「ほう? どういう意味か、お伺いしても?」
「“紅蓮の盗賊団”。奴らの実態は、ほとんど不明だ。従来の野盗とは明確に異なる。襲撃の手口は緻密、組織的、そしてほぼ全戦全勝。その手腕は……極めて、異質だ」
「異質? まさか、脅威だとでも?」
グレゴールが鼻で笑う。だが、エルセラの目は静かに、それでも鋭く光っていた。
「奴らは、革命を狙っている」
その一言が落とされた瞬間、場の空気が一気に冷え込んだ。
「革命? 盗賊ごときが?」
「民衆を煽動し、王都の支配機構を撹乱し、一夜にして壊すだけの知略と戦力。それを可能にするだけの“理”を、奴らは持っている。──それに、魔王軍との関与も考えられよう」
魔王軍。その言葉にざわ、と誰かが息を飲む音が聞こえた。グレゴールはあからさまに顔をしかめ、椅子に深くもたれかかった。
「民衆が革命? 魔王軍と関与? あの愚かなる無知な連中に、そんなことができると思っているのか? はは、幻想だ。空想主義者の妄言だよ」
「……盗賊を舐めると、痛い目を見るぞ。グレゴール」
その声は、円卓の扉の向こうから響いた。全員が立ち上がる。
王──エルンスト七世の到着である。
白髪を整え、金糸の織られた王衣を纏った壮年の男は、静かに円卓の中心へ進み、椅子に腰を下ろす。
「予告状は本物だ。ゆえに、我々は手を打たねばならぬ」
「まさか……“勇者”を呼び戻されるのですか?」
堪えきれずに問うたのは、グレゴールだった。
「……そうだ。勇者、フィリア殿を王都へ呼び戻す。彼女は民にとっての“希望”だ。今なお、それは変わらない」
「まあ、勇者様がいれば、問題などないでしょうな」
誰かが呟いたか。広間にははっきりと響いた。
王は、その言葉すらも飲み込んだ上で、静かに頷いた。
「ならば、我々は火がつけられる前に、それを叩くのみ」
「……王よ。もし“革命”が本当に起こったら?」
誰かが、震えるように問いを投げた。
王は目を閉じ、そして静かに開いた。
「そのようなもの──この国には“起こらぬ”。我が王国に、革命の種など存在しない」
言葉の余韻が、深い井戸の底のような沈黙を残す。
それを破ったのは、グレゴールだった。王の言葉に深く一礼し、誇らしげに言った。
「……流石でございます、我が王」
エルンスト七世は席を立ち、背を向けながら告げる。
「勇者を──フィリア殿を呼び戻す。以上だ」
扉が閉じるまで、誰一人として口を開かなかった。
ただ、そこには確かに存在していたのだ。慢心という名の腐敗した匂いが、部屋に満ちていた。
そして、その背を見送りながら、エルセラ卿はひとり呟いた。
「燃えるのは、王都か……それとも、我々か」




