51話『不器用な彼の優しさ』
風が、静かに吹いていた。
王都の街角にぽつんとある、小さな広場。
その中心には、白い大理石でできた噴水がある。
水は静かに弧を描きながら舞い、陽の光を受けて、きらきらと、まるで何かの夢の断片みたいに揺れていた。
その前に立つ私は、言葉もなく、そのゆらめきを見つめていた。
思考はまるで水底の藻のように絡まり、はっきりとした形にはならない。
ただ、胸の奥で、何かが引っかかっている。それが痛みなのか、後悔なのか、あるいは迷いそのものなのかも、私にはまだよくわからない。
とにかく、何かがざらざらと残っていて、それを撫でるように、私はただ静かな時間に身を預けていた。
貴族の屋敷を守りきったのは、昨日のことだった。
戦った。守った。──けれど、心は少しも晴れなかった。
それは、きっと。私が心から「守れた」と言い切れなかったから。あるいは、自分の戦う理由が、どこかで揺らいでしまったから。
私は、いったい何のために剣を振るったのだろう?
命を懸けてまで私が戦う理由は? 私が“勇者”として選ばれたことに、果たしてどれほどの意味があったというの?
そんな堂々巡りの問いを胸の中で繰り返していると、不意に、誰かの足音が近づいてくるのを感じた。
「グリ──」
その名前を、反射的に呼んでしまってから気づく。そこにいたのは、あの人じゃなかった。
「……アッシュ?」
「……おう」
気まずそうに片手を挙げたアッシュは、昨日よりも少しだけ疲れた顔をしていた。目の下にうっすらと影が差していて、それがどうしようもなく“現実”だった。
「昨日は……悪かったな。言いすぎた」
意外だな、と私は思った。
その声に、いつもの皮肉交じりの調子はなかった。
ただ、真っ直ぐで、静かで──少しだけ痛そうな響きがあった。
私は、首を横に振った。
「ううん。アッシュの言う通りだった。今の私に、勇者の資格なんてないよ」
「そうじゃねーよ」
アッシュはため息まじりにそう言って、噴水の縁に腰を下ろした。私のすぐ隣に。噴水の水音が、二人の間に流れる沈黙を、優しく埋めていく。
「フィリアは昨日、よくやったよ。ハインリヒ──あいつは、簡単にどうにかできる相手じゃなかった。それに、屋敷も、ちゃんと守っただろ?」
「それでも……私は、自分の弱さに負けた。逃げたかった。あなたが来なければ、私は……」
私は唇をかんだ。あのとき、手が震えていたのを、彼は気づいていたのだろうか。
私は勇者なんかじゃない。ただ、兄の代わりになりたかっただけ。──誰かの役に立ちたかっただけ。
「……アッシュ。やっぱりね、私、あなたに聞きたい」
「なんだ」
「昨日は“聞くな”って言われたけど……あなた、本当に、紅蓮の盗賊団と繋がってるの?」
一拍、静かな沈黙。そして──
「繋がってねぇよ」
短いけれど、迷いのない否定だった。私の中で、ぴんと張りつめていた糸のような何かが、ふっと緩むのを感じた。
「……そっか。よかった」
「信じるのか?」
「うん……信じる。いや、違う。きっと私は“信じたい”だけ、かも」
アッシュは、特に何も言わなかった。ただ、そっと隣で空を見上げた。その横顔は、少し眩しそうだった。
「ねえ、アッシュ」
「どうして、いつも私を助けてくれるの?」
──初めて会った時は敵だった。
今も決して仲間と呼べる関係ではない。
彼は怪盗で、私は勇者。
魔物という共通の敵がいなければ、今も敵対するはずの関係性だ。
その問いには、少し間が空いた。アッシュは頭をぼりぼりと掻き、しばらく逡巡したあと、ぽつりと呟いた。
「……魔王を倒すのは、お前だと思ってるから」
「……え?」
私は思わず彼を見た。
驚いたから。
私より強いはずの彼が、どうしてそんなことを言うのか。全くわからなかったから。
「でも、それも結局、押し付けなんだよな」
アッシュは、どこか寂しげな目をしていた。
「お前に“勇者”って役割を押し付けてるだけだ。俺の勝手な希望だよ」
「……それでも、ありがとう。あなたみたいな強い人に、そうやって期待してもらえるのは、素直に嬉しいな」
「礼なんかいらねぇよ。俺のエゴだ」
その声が、ほんの少しだけ上擦っているように聞こえた。
「……フィリアはさ、悩んでるよな」
「……うん」
「その答えは、お前自身が見つけなきゃいけない。……だから昨日、あんな言い方をした。今も、その考えは変わらない」
「……わかってる」
私はそう答えた。でも、本当は、少しだけ──彼の優しさに、甘えたかった。
「だから、これは参考程度にな」
アッシュは、前を見据えて語りはじめた。
「俺は、俺のために生きてるし、俺のために戦っている」
「……そうなの?」
「──昔、大切な人を失った」
その言葉に、私は思わず彼の横顔を見た。
「その人を助けるには、何かに囚われてちゃダメだった。正義とか悪とか、立場とか、肩書きとか。そんなのに縛られてたら、本当に助けたい人すら救えねぇ。そう思った──いや、今も思っている」
その横顔には、強い意志が宿っていた。
その強さは、私には無くて──似ていると感じていた私の兄である先代勇者のものとも異なっていた。
「俺は……俺はさ、ただ、俺にとって大切な人に、笑っていてほしいんだ」
「……」
「だから、俺は盗む。誰かの笑顔を盗む人から。そして、大切な人を助けられるような、そんな自分であるために。自分がそうありたいと思ったから。──そういう自分でいられたら、俺は、少しだけ報われる気がするんだよ」
「……アッシュ」
「俺は、俺のやりたいことのために、今を生きてる。それが──戦う理由だ」
アッシュの瞳は、私の瞳を捉えて離さなかった。
「誰かの正義で動いてるうちは、本当に守りたいものなんて、きっと守れない。だから俺は、俺の“わがまま”で、エゴの正義で生きると決めたんだ」
私は、気づけば呟いていた。
「……優しいんだね、アッシュ」
「あ? どこがだよ。自分のためって言ってんじゃねぇか」
「ううん。その“自分のため”の根っこに、ちゃんと“誰かのため”がある」
「……そんなことねぇよ」
アッシュは顔を背けた。でもその耳が、少し赤くなっていた。
「それに、これは俺の話だ。お前は、真似する必要なんてない。……ただ、こういうヤツもいるんだって、知ってくれたら、それでいい」
「アッシュ……」
「お前は、お前自身のやりたいように、生きてくれ」
「でも、私には魔王を倒して欲しいんでしょ?」
からかうようにそう言いかけた私の言葉を、アッシュの声が遮った。
「……いや。君はもう、なんというか、俺にとって大切な人……になってるよ。だから──笑っていてほしい。無理に戦わなくていい。傷ついて欲しくない」
私は、心臓が跳ねるのを感じた。
「……あ、ありがとう……」
なんとかそう言ったけれど、顔が熱くて仕方がなかった。目の前の怪盗は相変わらず涼しい顔をしているように見てたが、やっぱり、耳は真っ赤だった。
「でも、それは君が決めることだ」
アッシュは、ゆっくりと立ち上がる。
「君は、君自身の足で、君の道を見つけろ」
「……うん」
「昨日は悪かったな。んじゃ」
そう言って、彼は背を向けた。
その背中に、私は言葉をかけなかった。
その姿は、ずっと似ていると思っていた、私の兄さんの姿とは似ても似つかなくて──だけど、憧憬を懐くには十分な背中だった。
彼は、まっすぐに夕日の中を歩いていった。
「……優しいのね、怪盗さんは。モノクローム怪盗団は」
私は、小さく、独りごとのように呟いた。




