44話『お手合わせは、狂愛の踊り場で』
最悪の出会いだった。
それが、俺とミレイの第一印象であり、最終的には関係者全員が「あれはもう逃げ一択だったよね」と口を揃えて証言する羽目になるのだが──あいにく、まだその未来は知らない。
知っていたら。
せめて、半歩でも引いていたら。
たぶんこの後の面倒は、いくらか減っていたのかもしれない。
……いや、うん。無理か。何が起ころうと、こいつはこっちに来た気がする。
今の俺は、ただ、目の前の“女”を見ていた。
「ふざけてる?」
低く問いかけた俺の声に、ミレイはまるで恋文を囁かれたかのように、うっとりと目を細めた。あの甘ったるい香水の匂いが、風に乗って鼻を突く。
薔薇と死体を一緒に煮詰めたような──そう、ゴシックな棺の中で一年熟成させた感情みたいな匂いだった。
「きゃ──っ♡♡ その真剣な顔っ♡ ゾクゾクしちゃうぅ♡ やっぱアッシュ様って、最高ですっ♡♡♡」
空気が、音もなく凍った。
言葉でも、声でもない。
ただ、空間そのものが濁るような感覚。
濃密な“気”──狂気、暴力、執着、それに微量のエロスと大量の破滅臭──が、どろりと世界に溶け込んでくる。
誰かが「おやつに焼き菓子を作ってきたよー」って言いながら、人間の指をトッピングして持ってきたような。そんな“異常の気配”。
だが俺は、ためらいなく一歩、前に出た。
その瞬間。
地面が爆ぜた。
紫色の魔力が、地中から吹き上がる。罠だ。幻覚系の魔術。視界がぐにゃりと歪み、ミレイの姿が七人に増える。おい、ふざけてんのか。
「わぁ♡ちゃんと反応してくれたぁ♡やっぱり優しい♡さすがアッシュ様ぁ♡」
七人のミレイが一斉に微笑み、同じ声で語りかけてくる。
その音が、じわりと脳に食い込んでくる。音としてではなく、感情の塊として。ずるりと滑り込んでくるような、不快ななで声。
やめてくれ。
メンヘラが七倍になるとか、それはもはや災害だ。
「じゃ、アッシュ様ぁ♡ ちょっとだけ、お手合わせ♡」
幻覚の中に、確かに一つだけ、本物の“殺気”が混じっていた。
俺はそれを見極める。幻覚、分身は俺の十八番でもある。慣れてる。こういうのは、理屈じゃない。経験値で見抜くんだ。
構えも取らず、俺は言った。
「──そういう技なら、相手を選ぶべきじゃねーのっ!」
次の瞬間、地を蹴る。
踏み込み。斬撃。横薙ぎの剣閃──狙いは幻の中に潜む本物の“それ”。
手応えあり。斬った。髪の先が宙を舞い、分身の中から一人が僅かに後退した。
正解だ。あれが本体だ。
「きゃっ♡ひどーい♡でもちょっとゾクゾクする♡」
その反応よ。
本物に当てられたっていうのに、なぜ悦んでる。
刹那、彼女の髪の先が数本、宙に舞った。
たぶん、ギリギリで回避したつもりなんだろうが──甘い。ほんの少しでも触れれば、それはもう斬られてるってことだ。
次の瞬間、彼女の頬から血が垂れる。
「ちょっとぉ♡髪切ったばっかなんだからぁ♡あ"! 待って! 血でメイク崩れるぅ!」
……うん、知らね。
知らんし、知らんままでいたい。
一息も置かず、追いかける。
剣を振る。踏み込む。さらに斬る。斬って、斬って、斬りまくる。
分身が消えていく。残像が消えていく。そのたびに、ミレイの呼吸が乱れていくのがわかる。
──次の一撃、いける。
剣の切っ先が、彼女の肩に掠る。布が裂け、紅が飛び散る。
「あぅ……ふふっ♡痛い♡」
その声が、なぜか妙に嬉しそうだった。
「さすがアッシュ様……♡でもねっ、わたしも遊びじゃないのっ!」
指を鳴らす。パチン、という音とともに、地面から黒い手が、わらわらと湧き上がった。
影を、魔力で実体化させたもの。召喚術の応用だ。
だが。
「──残念! 怪盗からするとちょっと遅いね!」
旋回とともに、一閃。
風を巻き込む剣閃が、まとめて影を薙ぎ払う。音すら置き去りにして、空気ごと切り裂く。
黒い手は、紙くずのように四散した。
「……うわぁ♡やっぱ生で見ると、アッシュ様やばい♡戦闘動画、何回見返しても飽きなかったけど♡」
どこで入手した、その動画。
ミレイは血を流しながら、なおも愉悦に染まっていた。
頬を紅潮させ、目を輝かせ、狂気と熱情をあたかも香水のように纏って。
──狂ってる。
いや、こういう女こそ“正しく”狂ってるのかもしれない。
戦うこと。
傷つけること。
傷つけられること。
それらすべてを、まるで詩の一節みたいに甘受して、悦びに変えて。
とんでもない存在だった。
終わらせる。
こんなものに付き合ってる暇はない。
「じゃあさ、じゃあさ♡そろそろ本気出しても──」
「だったら、こっちは本邦初公開。《灰燼烈風》」
告げると同時に、俺は魔法を展開した。
つい最近習得したばかりの複合属性魔術。灰と風と炎を織り交ぜた、俺の名──アッシュにふさわしい、混沌と破壊の象徴だ。
見えない罠として地面に仕込んでおいた術式に、ミレイがちょうど踏み込んだその刹那。
地面が、爆ぜる。
足元から灰が吹き上がり、烈風が渦巻き、瞬時に炎がそれに乗る。彼女を中心に、赤と黒の竜巻が形作られる。
音が、風が、空気がすべて呑み込まれ、数秒の間、あたりの世界が灼熱に染まった。
「……っ!」
ミレイは即座に反応し、魔力のバリアを張る。だが、ダスクバーストは、ただの火柱じゃない。
まとわりつくような灰が熱を含み、あらゆる魔術障壁の隙間を狙って侵食してくる。
服が焼ける。肌が焦げる。視界が熱で揺れる。
「いっ、いったああ♡♡あっついっ♡でもなにこれ、めちゃくちゃアツい♡新技!? 初見!? サイコー♡」
焼かれながらテンション上げてるやつを俺は初めて見た。いや、いっそ尊敬の域だわ、もう。
「……“あつい”のダブルミーニングってか? 座布団一枚あげようかね」
懐から短刀を抜く。魔力を込める。殺しはしない。けど、痛みはくれてやる。
「《トリック・アーツ》“道具強化”“投擲”」
短刀にスナップを効かせ、真っ直ぐ──狙うのは左肩。
「ファンに痛い思いさせるのは本意じゃないんだけど……まあ、ストーカーは除外でいいよな?」
投擲された短刀は、彼女のバリアを貫通し、正確に肩へ突き刺さる。深く、派手に。
「きゃああぁあっ!! さ、刺さってるぅぅ♡しかも的確ぅぅ♡でも肩ってさあ♡なんかちょっと……エモくない!? ♡」
ミレイは《ダスクバースト》の中心から、魔力の爆発を起こして脱出する。
熱と煙をまとったその姿──服は焦げ、体は傷だらけ。それでもメイクは崩れてないあたり、むしろ戦慄すら覚える。
「ふふふっ……ほんとに、ほんっとに……最高ぉ♡」
その顔は、誰よりも恍惚で、誰よりも真剣だった。
瞳はぶれず、頬には熱と狂気が混じって紅潮している。涙と笑いと血の区別がつかない。
「アッシュ様ぁ……♡強い、かっこいい、えっちぃ、ああ──ほんとしゅき♡♡♡」
「…………もう、帰っていい?」
リアルに精神力を削られる。やっぱこのタイプが一番タチ悪い。狂ってて、戦えて、無駄に愛が重い。
正直、こういう奴らに付き合う勇者とかマジで報われねぇなって思った。
でも、まあ。冗談は、ここまでだ。
「じゃ、終わらせる。生け捕りだ。逃がさない」
俺は短刀を引き抜き、再度走る。彼女の間合いへ、最短で。
殺さず、だが確実に“折る”。
「やぁん♡ちょっと待って、ほんとそれ以上は危ないからぁ♡」
その直後。
爆発。
黒とピンクの混色魔力が柱のように炸裂し、俺を──包んだかに見えた。
「アッシュ様ぁ♡でも死なないよねぇ? ねぇねぇ、大丈夫だよねぇ?? ♡♡」
にやけた顔で確認してくるその瞬間、俺は──そこに、いなかった。
「せーかいっ。死なねーよ! よく俺のこと分かってるじゃんストーカーちゃんっっ!!」
俺は彼女の背後にいた。
《ファントム・レイヤー》。俺の得意とする幻影魔法。その“残像”に向かって攻撃させたその一瞬。
俺はすでに回り込んでいた。魔力を足にこめて、流れるような一歩で間合いを詰める。
伝家の宝刀、《トリック・アーツ》の足技──
「喰らえっ! ライダーキィィィィックッ!!」
──渾身の蹴りが叩き込まれる。その一瞬前だった。
「よっと」
耳障りな金属音が、空間の緊張を断ち切った。
衝撃。空気が歪む。
俺の蹴りは、寸でのところで逸れ、まるで目に見えない手で押し戻されたかのように、体勢が崩れる。
──攻撃の“間”を狙った、一点突破の割り込み。
ただの反射じゃない。読まれてた。完全に。
風が巻き起こり、視界が揺らぐ。
火と灰が入り混じった匂いが鼻を刺し、白煙がゆっくりと視界を侵してくる。
その中心に、赤い影が浮かび上がった。
「……なんで、お前が」
風にたなびくマント。
赤髪。そして、見慣れたはずの背格好。
数日前──あの廃工場で目にした、彼の“影”。
「言ったろ。俺はもう、“別の神様”に拾われたってさ」
現れたのは──クルールだった。
懐かしいような、しかし別人のような。
その顔にはかすかな笑みが浮かんでいたが、目だけは、まるで冷たい灰のように色を失っていた。昔は、俺にとって無限の可能性の色であったのに。
笑っていない。
その不器用な笑顔が、何よりも雄弁に語っていた。
──俺たちは、もう戻れない場所に来たんだと。
構えが自然すぎて、俺の中の時間が、ほんの一瞬止まる。
目の前の彼があまりに“昔のまま”で、でも“まったくの別人”で。
「アッシュ様のその、歪んだ顔! ちゅき! ちゅきちゅき!!」
「気色悪ぃ。やめろブス」
「……はぁ? おい、誰のおかげで魔王軍の支援受けてんのかわかってんのクルール? あんま調子に乗んなよ。それに私はかわいいよね! ね! アッシュ様♡」
ミレイが、明らかに不満げな声で口を尖らせる。
軽口を叩くようでいて、そこに込められた殺気は濃い。
クルールがミレイを“止めに入った”のではない。
彼は、明らかにミレイと“組んでいる”。
けれど──上下関係は対等じゃない。
むしろ、あの女に“利用されている”側だ。
「……なるほどな。そういうことか」
俺は思わず口にする。
昨晩、クルールから感じた異常な魔力。
ここ数年、“墓参り”に来なかったという事実。
紅蓮の盗賊団が、まるで何かに背を押されるように、急激に力をつけていった理由。
そして、ミレイという“狂気”の後ろ盾。
──そのすべてが、ようやく繋がった。
「なら──お前らの道と、俺の道は、もう完全に交わらない」
俺の声は、ただ静かだった。
宣言でも、断罪でもない。
ただ、境界線を引いた──それだけの言葉。
過去の仲間。
命を擦り減らしながら、でも笑って未来の話をしたあの日。
すべてが、遠い幻のように思えた。
「いいねぇ。その顔が見たかったんだよ」
クルールが笑う。歪な笑顔。
それは喜びでも、悲しみでもなかった。
まるで、“怒り”だけを頼りに生きる人間の顔だ。
「殺し合おうぜ、あの日の続き──って言いたいとこだけど」
指が上がる。
かつて、俺たちがよく使っていた合図。
それを、今は俺に向けて。
「……!」
ぱちん、と軽やかな音が響いた。
視界が、真っ白に染まる。
「煙幕──!」
思わず口をついて出たその言葉は、驚きと、少しの痛みが混ざっていた。
俺の十八番──と呼ばれる戦術魔法と、まったく同じ“型”。
……いや、違う。
あれは、“教わった”やり方だ。
まだガキだった俺が、盗賊団で必死に生きていた頃。
俺は戦闘じゃクルールに勝っていた。
でも──盗賊としての立ち回りは、全部彼から教わった。
《トリック・アーツ》
トラップの仕込み方、足音の消し方、退路の作り方、そしてこの煙幕。
盗賊として、盗みや戦闘に大きな恩恵を与えてくれる強力なスキル。
そして今、俺は──その教わった技術で逃げられる側になった。
「……クソッ!」
魔力を叩きつける。
空気を震わせ、周囲の煙を吹き飛ばす。
だが、すでにふたりの姿はどこにもなかった。
音も気配も、まるで最初から存在していなかったかのように消え去っていた。
その場に残されたのは、ちぎれた赤い布の切れ端と、微かに残る血の匂いだけ。
風が吹いた。
少し冷たい風だった。
だがその中に、俺は──確かに“過去”の匂いを嗅いだ。
追いついてきた。
封じたはずの過去が、今、この手のひらまで戻ってきた。
「……」
静寂があった。
誰もいない。誰も喋らない。
俺は、ゆっくりと拳を握る。
爪が、肉に食い込んだ。痛みは、もう感じなかった。
あの日の“呪い”が、また目の前に立っていた。
あの夜、俺の手からこぼれ落ちたモノ。
また、俺の手から、何かが零れた。
そしてきっと、これからも。
だけど──今度こそ。
「……終わらせてやるよ、クルール」
それは願いでも、怒りでもなく。
彼とはもう交わらない道を選ぶつもりだった。
だが、お前がそうするのなら俺がお前を止めなければならない。
──墓標の前で、魔王軍と組む姿を、クレアには見せたくなかった。
許せなかった。
──許してはいけないのだ。
◆
夜風が、丘をなでていた。
焼けた大地の余熱を少しだけ残しながらも、すでに季節の境界線を越えたような、冷たさを帯びた風だった。
その丘の上──影が、ふたつ。
ひとりは、静かに佇んでいた。
もうひとりは、崖の下に視線を落としていた。
その視線の先。
遠ざかる後ろ姿。
燃え尽きた闇の中を、なお前に進もうとするその背中。
ミレイは、その男の影を見つめていた。
暗がりの中、瞳だけが異様なほど輝いていた。狂気に濡れた光を湛えながら、彼女はぽつりと、呟いた。
「なるほど……ふふふ。やっぱりいい顔」
声に、笑いが混じる。
「壊したくなる顔って、そういう顔だよね♡」
冷たい丘の風を受けながら、ミレイは唇を噛むようにして、うっとりとした目でアッシュの背を見送った。
「あの怒り。あの痛み。あの悲鳴」
指先で唇をなぞりながら、ぽつぽつと続ける。
「アッシュ様につけられた傷……アッシュ様の心の傷……」
言葉の一つ一つが甘く、とろけるように熱を帯びていく。
「……おそろいってこと??? ♡♡♡♡♡♡」
ミレイは、その場にしゃがみこみ、地面の砂をすくい取って、まるで宝物を扱うように手のひらで転がした。
「いいのよ、アッシュ様。あなたは壊れても、また組み上がるの。壊すたびに、もっと素敵なあなたが現れる。だから──もっと見せてね? もっと私だけに見せてよ、その顔……♡」
その背後に立っていたもう一人の影──クルールが、低く息を吐いた。
「……俺は、利用されているだけ、って事だな」
その声は乾いていた。風と同じように、熱を持たない。
ミレイは顔を上げて、くすりと笑った。
「ふふっ。何を今さら?」
「最初から、あなたは“道具”だもの。戦うための、破壊するための……でも、それでいいんでしょう?」
クルールは答えなかった。
ただ、目を伏せたまま、しばらくの間、沈黙を貫いていた。
やがて、ぽつりと。
「……あぁ、それでいい。どうせ、燃え尽きた身だ」
声の奥には、深い諦念があった。
まるで、自分という存在がもう過去の残滓でしかないと、悟っているかのような声。
「俺の中の火は……もう、とっくに消えちまってる」
だが。
その言葉に、ミレイが異を唱えた。
「──違うわ」
その声には、珍しく確かな強さがあった。
クルールが目を細める。
「何がだ」
ミレイは、軽やかに立ち上がった。風になびく髪を押さえながら、彼の横顔を見上げる。
「あなたはまだ、“燃え尽きてない”」
「どういう意味だ」
「だって、あなたの目。……まだ、燃えてるもの」
クルールは黙ってミレイを見た。
その瞳には確かに、かつて失ったはずの“色”があった。
執着。怒り。未練。──そして、哀しみ。
それらすべてが、炎のように渦を巻いていた。
「あなたは、“まだ終わってない”。あなたの物語も、彼との物語も」
ミレイはくるりと背を向け、星空に向かって両手を広げた。
「終わりにしていいのよ。全てを灰にして。だってそれが、あなたの──」
その言葉の続きを、クルールの声が遮った。
「全てを、燃やし尽くす」
低い、地を這うような声だった。
クルールの視線は、丘の下──アッシュが去っていった方角を、ただ一直線に睨んでいた。
「アッシュ。お前ごとな」
ミレイが微笑む。
「……あなたはキライだけど……その顔をはスキよ……♡」
クルールは応えなかった。ただ、眼前にあるすべてを焼き払うような視線を夜に投げたまま、黙って立ち尽くしていた。
月が、雲の切れ間から顔を覗かせた。
二人の影を、白く照らす。
狂った女と、壊れた男。
その夜、丘の上には静寂だけが残されていた。
だがその静寂は、確かに──嵐の前のものだった。