38話『わたくしの心を盗んだのは、やはりあの人でした』
わたくし──アメリアは、今、たいそう丁寧に笑っております。
けれどその実、胸の中は空っぽで、心なんてものは──とっくにこの場に置き去りにしてまいりました。
「……ふふ、それは光栄ですわ、第二王子殿下。お褒めいただけるなんて」
花が綻ぶように笑いかければ、殿下は顔を真っ赤にして、のけぞるほど身を乗り出してきます。
その瞬間、リシェルが無言でわたくしの脇腹を肘でツンと突き、わたくしは慌てて姿勢を正しました。
──いけません、いけません。
わたくしはアルヴィエーレ公領の姫。この場は単なるお茶会ではございません。“お見合い”という名の舞台でございます。
この場を設けたのは、我が敬愛なる執事──じぃや。彼の悲願は、わたくしの幸福。つまりは、正しい結婚相手を見つけること。
「そなたには……そなたには、幸せになっていただきとうございます……!」
そう言って潤んだ目をしていたじぃやの顔が、ふっと脳裏をよぎります。たぶん今も、柱の影からわたくしの様子を監視……いえ、見守ってくれていることでしょう。
「……姫様、やはりお気持ちが晴れませんか?」
小声でささやいたのは、幼い頃からの友、リシェル。心を見透かすようなまなざしの、少しだけ手厳しいシスター。
「晴れているつもりですわ。今朝の紅茶も香り高くございましたし」
「それならいいのですけれど……」
「うふふ、そうですわね」
そう──ですのに。
どうしても、視線が泳いでしまいます。
このような“縁談”の場に臨んでいるというのに、わたくしの心は、つい期待をしてしまうのです。
──来るはずのない男。
──来るわけがない。
──来たら、困る。
──本当に困る。
──わりとガチで困る。
──けれど──。
「……あら?」
そのとき、扉が──バァン! と音を立てて、ものすごく無遠慮に開かれました。
「遊びにきたよー……ひめさまー……って、あれ? なんか……シリアスな雰囲気?」
空気も、空間も、タイミングも、全部無視して。
そこに立っていたのは──アッシュ様、でございました。
そして、そのお召し物はというと……ええ、なんと申し上げましょうか。
ゴテゴテと金の飾りに、やたら袖の長いシャツ。マントすらなく、髪は跳ねていて、地方の民間演劇の道化役、もしくは夜会に迷い込んだ間違った芸人のようで──。
「……姫様、どちら様でしょうか? あの不審者は」
柱の影からしゅばばっと飛び出してきたじぃやが、眼光鋭く尋ねました。その瞬間です。
わたくしの口が、何かにとり憑かれたように、勝手に動いていたのです。
「こ、恋人です!!」
「は?」
「え?」
「…………は???」
時が止まりました。
第二王子殿下の手が、空中でぷるぷる震えておられます。
「こ、こい……え? 俺?」
アッシュ様が目をぱちぱちさせて、ゆっくりとこちらに顔を向けられ──
「ええと、恋人……恋人のアッシュ様ですの!!!」
「え、え、ええ?」
つい、つい口に出してしまいました。
絶対に言ってはならぬ言葉を。
──ああ、今すぐ床が抜けて、異世界でもどこでも落ちてしまいたくございます!
「……うむ。姫様がお選びになった方ならば、拙者、信じぬわけにはまいりませぬ……。申し訳ございませぬな、第二王子殿下、一度お帰りをば……」
「聞いてた話と違うじゃないか!?」
第二王子殿下は、何かを叫びながら逃げるように退出なさいました。
……ほんとうに、申し訳ございません。
じぃやは目を閉じて、何やら天を仰ぎつつブツブツとつぶやいております。リシェルは紅茶を盛大に吹いて、せき込みながらハンカチで口を押さえています。
「なんて素晴らしき巡り合わせ……! ささ、殿方よ、名を名乗られよ!」
「え? あー……俺? アッシュ。肩書きとか特にないけど……その、まあ、貴族的な?」
「ほ、ほう……! お優しげ(?)な風貌、謎に包まれた男性……!」
じぃやの目が、ぐるぐると螺旋を描いておりました。まるで恋愛劇の新刊を手にした文学少女のように。
アッシュ様は面倒くさそうに頭をかきながら、わたくしの隣に歩み寄って、小声で──
「なんか……すげえ場に放り込まれた気がするんだけど」
「申し訳ございません……ほんの少し、話を合わせていただけますか?」
「え、えぇ……」
「さ、さあ、お茶の続きを!」
強引に笑って、アッシュ様の手を取って、隣の席にお招きいたします。
──もう、どうにでもなってしまえ。
心の中ではそう思っておりました。
けれど、けれどそのくせ。
あの方が──アッシュ様が、現れたという事実が。
わたくしの胸の奥で、そっと、小さな灯をともしていたのです。
……ほんの少しだけ、嬉しかったのです。
「では、アッシュ様。姫様とのご関係につきまして──馴れ初めなどを、ひとつ」
その瞬間、空気が凍った。音がした。いや、音はしていないが、私の血の気が引いていく音が聞こえた気がする。ごう、と。
──じぃや、お控えあそばせ。
その顔でそんな目を輝かせて質問攻めなさっては、恋人の“フリ”をしてくださっているアッシュ様が混乱してしまいます。
「えっと、馴れ初め? ああ、そうそう。こいつが俺のこと見つけてさ」
「こいつ!?」
即座に叫んでいた。心の中ではなく、喉を通して、声帯で震わせて。気づいたら叫んでいた。
「あ、悪ぃ。姫様が俺にひと目惚れしたんだよな?」
「違いますわ!」
「えー? じゃあ俺が一目惚れしたって設定だっけ?」
「“設定”って言わないでくださいまし!!」
滑稽なやり取り。なのに、じぃやはいつものように、自分に都合のいい解釈を粉砂糖のようにふりかけてきた。
「……ふむ。つまり、一目惚れではなく──時を重ねて、互いを知り、信頼を深め、愛が芽生えた、と。そう理解してよろしいのですな?」
優しい声。だがその裏には、父上直送の圧力がみっしりと詰まっている。
“この場でヘマをすれば、お覚悟を”という類の、いっそスパイ小説的な空気。
「そ、そうですの。最近出会った──ごく普通の、いえ、誠実で素敵な殿方ですわ!」
「褒めすぎじゃね?」
「黙っていてくださいまし!!」
三度目の噴出。リシェルの紅茶アタックが止まりません。テーブルクロスがそろそろ水没しそうです。
「で、ございますな……では、お二人の将来設計について、何かお考えなど?」
「お、おう……。うーん。とりあえず、平屋がいいよな」
「……はい?」
「いや、俺さ、高いとこ飽きたんだよ。色々と登ることが多いからさ。で、子どもは三人くらい?」
「ちょ、ちょっと待ってくださいまし!?!?!?」
「ん、違った?」
「そもそも、そもそもそんな話、一度もしておりませんわ!」
「なるほど……そこは、これから詰めていくと。では、初めてのキスはいつ頃?」
「ぶふっ!?!?!?!?」
今度は私が吹きました。十六年、大切に育てられた姫が、まさかのティータイム・スプラッシュ。
「えーっと、三日前……いや一昨日だったっけ?」
「ちょっ……え、ええ──そうですわ♡」
……だ、だめです。
想像してしまったせいで、語尾にハートがついてしまいました。言葉が、たわけた装飾で飾られてしまうなんて。
リシェルはとうとうカップを手放し、魂ごと撃沈。
カップと魂が割れる音がぱりんと響きました。
──私は、なにをやっているのでしょう。
アルヴィエーレ公領の姫。いつも政務と舞踏と、気の進まない縁談に囲まれてきた私が。
なのに今、隣には。
「……おもしれぇ」
アッシュ様はぽつりと呟いて、笑った。
それは皮肉のようでいて、どこか子どもっぽい悪戯心に満ちた表情だった。
(……普通さ、こういう面倒な場って関わりたくないんだけどさ。姫の顔見たら、なんか、やってみたくなっちまった)
そう小声で言って、彼は少し身を寄せてくる。
……ち、近い。至近距離であります。頬が熱を持ち始めています。
(や、やめてください! 私の将来がかかっているのですから!)
(いいじゃん。演技って、案外面白いな。次はどんな設定にする? 許されざる身分差? 幼い頃に交わした運命の約束系?)
(もうっ!!)
アッシュ様は悪びれもせず、くすくす笑う。
(……よろしいのですか?)
(なにが?)
(こんな風に、わたくしに付き合ってくださって……嘘をついて、困った立場に巻き込まれて)
(別に困ってねーし。退屈な人生には、ちょっとくらいスパイスが必要だろ? ──それに、お前、目が言ってたぜ)
(目……?)
(『今だけは、私を盗んで』ってな)
顔が、熱い。
きっと、真っ赤になっている。
でも、否定は──できなかった。
もしかすると本当に。
私の心が、無意識にそう叫んでいたのかもしれない。
「アッシュ様……」
その時、運命の審判──じぃやの杖が、床に一閃。
「内緒話が、少々すぎますぞ。……ひとまず、報告はお父上に上げさせていただきます。お覚悟を」
「えっ」
「ええっ!?」
「「ええええええっ!?!?」」
お茶会は、政略などとうに忘れ去られた混沌のうちに、幕を閉じた。
でも──
……こんなにも、心が自由だったのは。
いったい、いつ以来だったかしら。
●
お茶会という名の政略品評会が幕を下ろしたサロンは、見違えるほど静まり返っていた。
じぃやは、あの疑念と好奇心のコンボ技みたいな目をしまい込み、重たげな足音を残して退室。リシェルも、「あっ、わたくし急用が……!」と猫のようにそそくさと立ち去っていった。
そして、扉が音もなく閉じられ、気づけば私とアッシュ様だけがぽつんと残されていた。
──やってしまいましたわ。
姫としては前代未聞、規律違反、懲罰モノの大失態。政略お見合いの席で「恋人です」なんて口走るとは、自分でも思いませんでした。いやもうほんと、どの口が言ったんでしょうね、これ。
でも、不思議とそこに残ったのは気まずさでも後悔でもなく、なぜか……ふんわり甘い静けさでした。
「──いやぁ、面白かったな。まさか即興で恋人芝居やるとは思ってなかったけど」
ソファにだらしなく腰を下ろし、紅茶を啜るアッシュ様。その声は呑気そのもので、何やら愉快そうに笑いを噛み殺しておいでです。
「……本当に、勝手に巻き込んでしまってごめんなさい」
膝の上で指をもじもじと絡めながら謝ると、彼は紅茶のカップを置いて、ぽりぽりと頬をかきました。
「まあ、一度助けたからには、最後まで面倒は見るよ」
その言葉が、あまりにも何気なくて。
私は思わず呟いてしまいました。
「……アッシュ様って、ほんとうに変な方ですのね」
自分の頬が、熟れた果実みたいに赤くなっているのが、なんとなく分かりました。
「否定はしねーよ」
まったく当然の顔でそう返されて、つい口元が緩んでしまいます。困った方。でも、そんなところが少し──
「……思っていたより、“あの役”は悪くありませんでしたわ」
紅茶を一口含んで、カップの縁を指でなぞりながら呟くと、アッシュ様は眉を上げました。
「“恋人役”ってやつか?」
「ええ。“姫”ではなく、“私”として誰かと並べる気がしました」
その瞬間、アッシュ様は何も言わず、ただじっと私を見つめていました。
その視線に耐えきれず、私は再び紅茶に逃げました。やめてください、そんな目で見られると、心がくすぐったくて仕方ありません。
「……嘘を本当にしてしまえば、楽なのかもしれませんわね」
そう口にした瞬間、自分でも少し驚きました。思った以上に──それは本音でしたから。
アッシュ様は呆けたような顔をして、それから──
「ははっ、そりゃ面白いな。姫様と結婚とか、俺の人生最大のミラクルだぜ。孤児から怪盗、そんでもって王族の婿って……どんなジョブツリーだよ」
ふざけたように笑いながら、肘を肘掛けに引っかけてのけぞる彼は、やっぱりこの部屋には似合いません。でも、だからこそ──私は目を離せなくなるのです。
「……でもまあ、俺みたいな胡散臭い男に、そんな大役は荷が重いな」
そのひとことだけ、少しだけ。
ほんの少しだけ、彼の声が寂しそうに聞こえました。気のせいかもしれませんけれど。
「……もし、本当に誰かを好きになってしまったら」
気づけば、私は続けていました。驚くほど自然に、するすると。
「“姫”であることを……やめたくなってしまうかもしれません」
沈黙。
アッシュ様は何も言わず、ただ、紅茶のカップを見つめていました。まるでその中に、答えが沈んでいるとでも言うように。
サロンの窓辺。ほんのり熱を失った風が、カーテンをゆるやかに揺らしていきます。
揺れて、揺れて、心のどこかが──ほどけていく音がしました。
◆
アメリア様の声が──遠く、響いてくる。
そのあとに続いたのは、アッシュ様の声だった。
優しくて、どこか、無防備な響き。
わたくし──リシェルは、なぜだかその場にいられなくなって、気づけば扉の外に出ていた。
でも、そこから先には進めずに、ただ──立ち尽くしていた。
「まあ、一度助けたからには、最後まで面倒は見るよ」
冗談めかしていた。でも。
その声が胸の奥で、ぐずぐずと音を立てた。
……聞かなければよかった。
けれど、置き去りにされたのは、きっとわたくしの方だった。
扉の向こうに。二人の時間に。
扉一枚。たったそれだけの距離。
それだけの、遠さ。
なのに、その薄い隔たりの向こうには──
もう、わたくしの入れない世界が、ひっそりと出来上がっていた。
「……嘘を本当にしてしまえば、楽なのかもしれませんわね」
アメリア様……。
あなたは、そういう方ですわね。
気高くて、まっすぐで。
そして、時々──ほんの少しだけ、ずるい。
──その言葉を、口にしてはいけないと。
そう、わたくしも分かっていたのに。
アッシュ様の笑い声が聞こえた。
軽くて、乾いていて。
それが、どうしようもなく、胸に重かった。
「……でもまあ、俺みたいな胡散臭い男に、そんな大役は荷が重いな」
冗談。それくらい、わかっている。
本気じゃないのも、ちゃんとわかっている。
でも──ほんの少しだけ、本気でいてほしかった。
誰に対してかなんて。そんなこと。
……アメリア様に?
それとも──
「……もし、本当に誰かを好きになってしまったら──“姫”であることを……やめたくなってしまうかもしれません」
その声に、ふと。
唇を、噛んでいた。
アメリア様。
あなたには、敵いません。
幼い頃から、ずっと傍にいて。
一緒に笑って、泣いて、背中を支えて。
だからこそ、わかってしまう。
あなたの強さも、弱さも、眩しさも。
そして──その優しさが、誰かを惹きつける理由も。
「……っ」
音を立てずに、背を向ける。
聞かれないように。
見つからないように。
でも。
胸に、ひとつだけ──
どうしても消えなかった言葉が、残ってしまった。
誰にも知られてはならない、
ひどく静かで、名前のない、
──“好き”の告白。
◆
どれほどの時間が経っただろうか。あっという間に過ぎていってしまう、そう感じたのは気のせいでは無いのでしょうか。サロンには、わたくしとアッシュ様──ふたりきり。
すうっと空気が抜けていくように、緊張がほどけて。椅子に身を沈めたその瞬間、ぬるくなった紅茶の存在に気づく。……今さらですわよ。
「じゃ、そろそろ帰るわ」
あっさりと、アッシュ様が立ち上がった。
え、もう? みたいな。今の今まで、あんなに“恋人ごっこ”しておいて、それっぽい余韻とか、ないんですの?
……と思ってしまった時点で、もう、駄目なのかもしれない。
「待って、ください」
気がつけば、わたくしの手が、彼の袖を掴んでいた。
──なんて、ベタな展開でしょう。まるで三流恋愛劇のヒロイン。
けれど、それでも、止めずにはいられなかった。
アッシュ様が、少しだけ驚いたように振り返る。
目が合った瞬間、なぜか息が浅くなって、喉が乾いた。
でも、逃げない。逃げたら負けですわ。
「……あの時間、本当に“嘘”だったのかしら」
ひどく静かに、けれど確かに、そう問いかけると──
彼は頭をかいて、微妙な顔で目を逸らした。ああ、なんというか、誤魔化すときの十八番ですわね。
「……まあ、その。楽しかった時間なのは本当じゃねーの?」
……それだけ?
もっと、こう……ほら、気の利いた返しとか、ありませんの?
──なんて思ったのに、不思議とそれで十分だった。
「ふふっ……」
笑ってしまいましたわ。たぶん、ちょっとだけ泣きそうな顔で。
でも、笑えた。それが、自分でも意外なくらいに。
「私も、楽しかったですわ」
本当。
信じられないくらい、楽しかった。
政略も立場も、全部一旦どこかに放り投げて。
嘘だらけの関係なのに、どうしてこんなに心が温かいのか、不思議なくらいに。
彼の背中が扉の向こうに消えていく。
足音が小さくなるたび、胸の中のざわめきも、少しずつ静まっていく気がした。
そして、ひと口。
ぬるくなった紅茶は──甘かった。妙に。
「……あの人に恋をしても、よろしいですよね」
ぽつりと漏れた声。
誰にも届かない、わたくしだけの、秘密。
けれど、いちばん忘れられないのは、たぶん──わたくし自身。
嘘とほんとうの境界線は、思っているよりずっと曖昧で。
だから、せめて今日だけは。
夢を見させてくれたあの人に。
……ありがとうと。
心の中だけで、そっと告げるのです。
という事で、ラブコメメインの幕間終了です!
三章はシリアスムードがかなり強いのですがお付き合いください!
開幕は7/25(金)20:00!
土日は複数投稿予定予定!
三章突入前にぜひ褒め称えるような感想と最高の評価の嵐を!
よろしくな!!!!!




