19話『午後二時、仮面と勇者の交差点』
バルナス帝国の昼下がりは、騒がしかった。
明日から始まる“婚姻の祝祭”を控え、城下町は浮かれた空気で満ちていた。露店が軒を連ね、花飾りと紙吹雪がそこらじゅうで舞い、陽気な音楽が広場の端っこでここ数日間変わらずに奏でられている。
だが、その賑わいの裏で、一人の少女がカフェの隅で真顔になっていた。
「……これ、屋根って、こんなにするものですか?」
カフェのテラス席。フィリア・ルミナリアは小さく溜め息をついた。目の前には、見積書。屋根周りの補修関連。
こんなにするもの、と言うのはその書類に書かれていた金額の桁の数であった。
当然、それは昨晩の“怪盗団の仕業”である。あのアッシュとかいう奴との交戦中に市街地の屋根十数枚が派手に壊れ、派手に修理対象になっていた。
「うわ……なんで軒並み“爆風による破損”になってるの……?」
勇者としての名義で修繕書類にハンコを押すという、ある意味剣より重い任務。彼女は戦うより書類の方が苦手だった。
そんな彼女の苦悩に寄り添うように──いや、まったく寄り添わずに、ひょっこりと背後から聞こえてきた。
「やあ、お嬢さん。午後の苦行中に失礼」
「……え?」
振り返ると、そこには麦わら帽子にカーキの作業着、片手にソーダ水を持った男がいた。ゆるい笑みを浮かべた、どこにでもいそうな町の兄ちゃん──その正体を彼女は知らない。
「グリ……どうしてこの国に?」
「はい! 便利屋、今日も元気に屋台のお手伝いで帝都を縦横無尽に徘徊中!」
「また変な理由でここに……」
「えっ、変じゃないって!? 祝祭で人手不足なんだよ、ほら、綿菓子屋さんの綿が高速回転に耐えきれなくてさ。綿菓子屋さんが回転に巻き込まれて消える事件とか起きてるし」
「そんな命がけの屋台聞いたことありませんよ!」
勢いで返したものの、思わず笑ってしまう。
この人──グリと名乗る「ただの便利屋」は、なぜか時々現れては、まるで魔法のように彼女の気持ちを軽くしていく。昨日の戦いを経てなお、そんな彼がここにいることに、彼女はちょっとだけ安心した。
「てか、フィリアちゃんも働き者だね。この陽気なお祭り空気の中で、書類仕事とか、ある意味いちばん勇者してるよ」
「……笑えませんよ」
「俺は笑ってるけど?」
「それが問題なんです!」
二人分のソーダが追加され、テーブルの上に軽く乾いた風が通り過ぎた。陽射しは明るいのに、フィリアの目元には少しだけ翳りがある。
「……ねえ、グリ」
ぽつりと落ちたその声に、グリ──いや、仮面の下のアッシュは、目線を静かに向ける。
「ん、どうした?」
「昨日、ちょっと、戦った人がいて……。その人が言ってたんです。『ある人を盗みに来た』って」
「ああ、それは……大胆だね」
内心は冷や汗ものである。が、表面上はスプーンで氷をすくいながら、さも「初耳」っぽく演じる。
「で、その人が……妙に落ち着いてて、でもすごく強くて、なんだか──」
「かっこよかった?」
「ち、違いますっ!」
グリのからかうような声に、フィリアはわずかに赤面しながら慌てて否定する。
「でも……ずっと胸に残ってて」
彼女の目がテーブルの隅に落ちる。書類の隙間に視線を落としたまま、小さく囁いた。
「その……あまり、あなたに話すような事ではないのだけれど……」
フィリアはそう言うと、周りを軽く見回してから再び口を開いた。
「……えと、私、実は今回のバルナス帝国の婚姻の儀に疑いを持っているんです」
「疑い、かい?」
「はい。本当は……姫様があんなに無表情なの、前から気になってたんです。婚約って、本当に姫様の意思なのかなって……」
「うん」
「でも、勇者の私が、そんな疑問を持っていいのかも分からなくて」
真面目で、真っ直ぐで、不器用すぎる少女だった。
アッシュは「グリ」の仮面の下で、そっと息を整える。フィリアの問いには、アッシュとして答えたかったけれど、今はまだ“それ”を告げる時ではない。
だから、グリとして──彼は語る。
「ねえフィリア。この世界でいちばん高い建物って、なんだと思う?」
「え? えっと……私たちの住んでいる王都──ミルディア王国のお城、とか?」
「残念。──正解は“自分の正しさ”だよ」
「……なにそれ? 建物じゃないじゃないですか」
「ははは、上手い事言おうとしてるけど下手だったかな」
「いえ、別に……」
まあ、その問いは置いといて、とグリは続ける。
「人間、自分が正しいって信じた瞬間がいちばん背が高くなる。でも、高くなりすぎると、他の人が小さく見えてきてさ。それは誰かを見下ろす目線になっちゃう」
ソーダのストローを軽く回しながら、グリは続ける。
「でも君は、疑問を持った。それってさ、“同じ高さで何かを見る目”を持ってるってことだよ」
「……」
「勇者って肩書きはさ、“戦って勝つ人”じゃなくて、“正しい道を常に考えられる人”のことなんじゃないかな。俺は、そう思うけどね」
フィリアの手が、ストローの先で氷をかちりと弾いた。
心に刺さった何かが、音を立てて、ゆっくりほどけていく。そういう感覚だった。
「……グリさんって、本当に便利屋なんですか?」
「えっ、まだ疑われてる?」
「だって、たまにびっくりするくらい格好いいんです。ずるいくらいに」
「いやいや、格好よさはオプションです。ついてくるけど主機能じゃないので」
「何それ……じゃあ、主機能は?」
「手伝い、雑用、あと世間話で勇者を笑わせること、かな?」
「……バカみたい」
そう言って笑ったフィリアの目元は、今度こそ少しだけ晴れていた。
その笑顔があまりに綺麗で、アッシュ──グリは、つい目を逸らした。
この距離が、保たれているうちだけが安全だった。
けれど同時に──それ以上に踏み込みたくなる危うさもまた、彼の胸にあった。
「……ありがとう。少し、気持ちが楽になりました」
「よかった。じゃあ代金は、次会ったときに“また笑ってくれること”ってことで」
「え、それって──」
「ただの営業トーク。便利屋だし」
「もしかして、口だけは一流です?」
「いやいや、口は三流、腕も三流。でも気持ちだけは一流を目指してる」
フィリアは吹き出した。その横顔に、もう陰りはなかった。
やがて彼女は書類をまとめ、席を立つ。
「じゃあ、私はこれで……午後の訓練があるんです」
「がんばって。無理せず、でも自分のペースで」
「……うん、ありがとう」
少女は背を向け、通りへと歩き出す。柔らかな風が、彼女の髪を撫でて通り過ぎた。
そしてグリ──アッシュは、ひとりつぶやいた。
「……ほんと、育てがいがあるよ。君は」
仮面の下の笑みは、どこか切なさを孕んでいた。
祝祭のざわめきの中で、それでも二人だけの午後は、確かに存在していた。
仮面と仮面、真実と嘘のあわい──その中で、心だけは少しずつ、交差していくのだった。