18話『敵か、味方か、それともただの怪盗か(見積書付き)』
俺は帽子のつばを軽く押さえ、夜明けが近づく空を見上げながら言った。
「今回ばかりは、俺たちが敵対することはないと思うぜ」
その一言が、場の空気を切り替えた。
まるで冷えたナイフの刃に指を添えたような緊張の中で、俺の声は静かに──だが確かに、その刃を鈍らせていく。
背後には、魔道符が弾けたあとに残る微かな燐光と、聖剣から立ちのぼる魔力の余熱。クロが爆破した屋根の割れた匂いが鼻を突き、まだ戦いの残滓はそこかしこに転がっていた。
だが、誰も追撃しようとはしない。誰一人、次の一手を繰り出す者はいなかった。
「……どうして」
フィリアの声が静寂を破る。だがその声音は、さっきまでの鋼のような意志とは違っていた。ほんの一瞬、その瞳が揺れている。
「それはな──フィリア。君が本当に正義感がある優しい奴だってことを、俺だって把握してるからだよ」
俺は柔らかく笑う。だが、目は外さない。この場で必要なのは、武力ではなく“言葉の駆け引き”だ。
「一体、何が目的なの?」
フィリアの問いは鋭い。しかし、それすらも俺は茶化すように受け流す。
そして、冗談のように──けれど真剣に、夜明け前の空に放つ。
「決まってるだろ。俺は怪盗だぜ。婚姻の儀なんてお祭り騒ぎとあれば──当然、姫を盗みに来たのさ」
──沈黙。
時間が止まったかのような静寂。風すら呼吸をやめ、夜の帳がそのまま世界を包み込むような錯覚。
ほんの一瞬で、全員の視線が俺に集中する。ダリオの肩がぴくりと動き、ノアは口を開いたまま詠唱を忘れて固まっている。クロに至っては、頬を染めてぴょんぴょん跳ねながら叫んだ。
「きゃー! 怪盗のプロポーズみたーい! アッシュかっこいー!」
「うるせぇよクロ、テンションが単独行動だぞ」
横目でツッコミを入れると、シロがくすりと笑う。
そんな様子を横目にダリオは口を開いた。
「……まあ、あれだけの爆発力を出しておいて、いきなり乙女脳を発動できるのは才能だな」
「でしょ? 脳筋でも脳天気でも乙女は乙女!」
「脳って言葉が二回出てるんだが……」
軽口の応酬とは裏腹に、場の核心に向かって空気は動いていく。
そりにしても、ダリオ。一番堅物で真面目そうな男に見えるが馴染みすぎじゃないか? 実は1番うちの団に向いているのでは?
「……笑わないお姫様、婚礼の不自然さ。バルナス帝国のよくない噂に、魔王軍の周辺地域における活発化。こんなにもエサがあれば、おたくらも、違和感くらいは感じてるんじゃないか」
言葉を重ねるたびに、空気がざわめいた。
“沈黙”は“疑念”に、“疑念”は“迷い”に変わっていく。
フィリアの手の中の剣が、かすかに揺れた。刃を握る手に汗がにじむ。彼女の目は俺から離れない──でもその奥で、何かが崩れていくのがわかる。
「……っ、それは……」
「“証拠”もある」
言葉に詰まる。フィリアらしくない、けれど、それが“本心”というやつだ。
「アッシュ、あなたは……敵なの? それとも──」
その問いは、問いであると同時に──彼女自身が自分に問うている。
俺は片目を閉じ、唇に皮肉めいた笑みを浮かべた。
「さあ、どっちだか。少なくとも今は──正面から戦うつもりはないぜ」
それだけの言葉が、フィリアの胸に何かを残した。
一瞬だけ、彼女の顔から強張りが解けかける。その表情は、確かに“安堵”だった。しかしすぐに、唇を引き結び、油断を叱責するようにその表情を消した。
彼女の心に生まれた、微かな揺らぎ。
「……バルナス皇太子は、きっと何か裏がある。そんな気がするの」
ぽつりと漏れたその言葉が、場の潮目を変える。
ノアがすっと前に出て、フィリアの隣に並んだ。
「……確かに。婚礼の準備、ちょっと不自然だとは思った。書類に整合性はあるけど、祝賀にしては妙に軍部の動きが速すぎるし、魔法契約の構造も普通と違ってて」
「ふーん、魔法契約の構造に違和感って、そうとうね。やるじゃない」
シロが感心したように言って、ノアの頭に手を伸ばす。
ノアは「子ども扱いしないで」とぴしゃりと払い除けた。が、頬はほんの少し赤い。
ダリオは腕を組み、唸るように言った。
「……俺たちも、婚姻の儀に呼ばれただけで深く考えてなかったが……帝国近衛兵の様子、少し不自然だとは思っていた。殺気が立ちすぎている」
「それ! 私も見思った!! 式典の前なのに、みんな怖い顔してるもんっ!」
クロが大きくうなずくと、ついでに地面をぺたぺたと歩いていた城兵の物真似まで披露し始めた。
「そりゃもう、歩きながら『俺の剣は処刑用』って目してたもん! おかしいって、絶対おかしいって!」
「クロ、うるさい」
シロがツッコむ中で、フィリアは剣をそっと下ろした。音もなく、刃が風に沈む。
そして、まっすぐ俺を見つめて──問う。
「アッシュ、貴方たちを信頼していいの?」
「……信頼するかどうかは、そっちが決めることだ。俺は──」
帽子を深くかぶり直す。覚悟と共に、怪盗の仮面を被る。
「俺は怪盗だけど……ただの盗っ人じゃねえ。モノクローム怪盗団の団長アッシュ」
時にポンコツで、時にキザで、でもやる時はやる男(自称)。
「こう見えても義賊を名乗ってるんだぜ。姫を連れ出し、この式の陰に隠された真実を──あばくだけだ」
それが、俺の言える全てだった。
風が流れ、空が明るくなる。
魔力の余韻すら、過去に変わる瞬間だった。
「行こう、シロ、クロ」
「了解。撤退ルート、確保済み。三つ先の通路を左、あとは地下道を通ってアジト(仮)に向かう」
「ほいほーい♪ 逃げ足は怪盗の基本だもんね〜!」
いつも通りの調子で、でもその足取りは的確に。クロが飛び、シロが踵を返す。俺も屋根の端に立ち、振り向かずに背を向けた。
誰も追ってこない。
無言のまま、勇者たちはそこに立ち尽くしていた。
その沈黙の中で、唯一確かなのは──背後から感じる、フィリアの視線の熱だった。
その視線が、俺の背中に確かに何かを刻みつけていた。
剣を鞘に収める音が響く。
その音に込められたのは、決意か、迷いか、あるいは──まだ名前のない感情。
──俺たちは敵か、味方か。
その答えは、まだ宙ぶらりんのまま、夜空に残されている。
「……信じてもいいのかしら」
フィリアは呟いた。誰にともなく。
手に残る聖剣の重さ。
胸に残る、アッシュの言葉。
ふと振り返ると、東の空が白んでいた。
夜明けの光が城下町を包み、世界がゆっくりと動き出す。
──そのとき、風に乗って一枚の紙がひらひらと舞い降りる。
「これ……」
しゃがんで拾い上げたフィリアは、眉をひそめる。そして、額に青筋が浮かんだ。
それは──印字済みの【見積もり依頼書】だった。
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内容:屋根の破損修繕における見積もり依頼
理由:戦闘による破損(瓦42枚、煙突1基、装飾瓦23枚)
責任者:勇者フィリア=ルミナリア
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「……いつの間にこんなもん準備してたのよ!!」
しかも印字済みで名前入り。手書きじゃない。どう考えても、事前に用意してたとしか思えない。
怒りと呆れが渦巻く中、フィリアは声を上げた。
ノアとダリオも顔を見合わせると、肩をすくめて笑った。
「……あいつら、絶対に信じてやらないんだからぁぁぁぁ!!」
その叫びに、近くの屋根の上で鶏が「コケコッコー!」と元気に鳴いた。
空は完全に明るくなり、王都の一日が始まろうとしていた。
勇者たちはまだその場に立ち尽くし、そして物語は、次の夜へと続いていく──。