12話『誰にも届かぬ祈りの名は』
静寂。
それは、支配者であるこの私──レオニス・バルナスにとって何より心地よい調べだ。
執務室の窓辺に立ち、私は王都の喧噪を見下ろしていた。バルナス帝国の中枢──その鼓動は、祝祭を前に熱を帯び、絢爛と笑顔と歓声に彩られている。だが、そんな浮ついた賑わいは、距離を置いて眺めるに限る。近づけば、喧しく、耳障りで、そして何より、余計な“感情”を呼び込む。
私は静かに報告書へと視線を戻す。紙面の上段──記された名に、眉をひそめた。
「……勇者、フィリア=ルミナリア」
件の少女は先ほど、執務室にまで押しかけてきて、こう言い放った。
「アメリア姫が“望んでいるように見えなかった”と」
あれは直感などではない。もっと質の悪いもの──人の痛みを嗅ぎつけてしまう“目”だ。
臣下たちがぞろぞろと下がり、室内には再び静寂が戻る。ただ一人、影のように控える男がいた。
「……あの少女、細やかな変化を嗅ぎ分けますな。まるで、動物的な“勘”」
低く、耳にまとわりつくような声。
男の名は──ヴァルグ・ネファリウス。
魔王軍の参謀にして、私の「裏の手足」である。
「勇者など、大義の前では些末にすぎぬ。だが、あまりうろつかれては困る」
私はゆっくりと椅子から立ち上がった。
靴音を響かせながら、日差しの届かぬ回廊を歩き出す。
「アメリア姫は何をされようと、“姫”としてふるまうだろう。──心の中に、どれほどの悲鳴を押し込めていようと」
「忠義と矜持、ですか。公領の令嬢らしい、実に理想的な気高さ」
ヴァルグの声には皮肉が滲んでいた。
だが、それが厄介なのだ。
“黙して語らぬ者”こそ、最も危うい。
「フィリアは──気づきかけている。あの娘の瞳の奥に宿る、救いを求める微かな光に」
「……となれば、いっそ、幽閉を?」
「その言葉を使うな。これは“静養”だ」
口角をわずかに吊り上げた。だが、それは笑みではない。
ただ鉄で鋳造された仮面のような、“形”に過ぎなかった。
「表向きには、体調不良。式典を控えた姫の静養とあらば、誰も疑問など抱かぬ」
「それを決められたのは、勇者の言葉を受けて、ですか?」
「……違う。最初から決まっていた。あの娘が、この地に足を踏み入れたその瞬間から」
私は足を止めた。
窓越しに、遠く尖塔の影が見える──アメリアの居室。塔の最上階。孤高の檻。
「……彼女に“自由”など、初めから用意されていなかった」
その声には、怒りでも悲哀でもない、ただ冷たい事実だけが宿っていた。
姫は美しい。従順で、無垢で、完璧な器。
──そして、ただの“資産”だ。
「“祝福の因子”。帝国と魔王軍、両方の未来を決定づける力。あの娘は、生きた触媒だ」
兵器としての価値。
そこに、情も、愛も、必要ない。
「……誰かが、彼女を“盗もう”とするかもしれんな」
私は独り言のように呟いた。
「勇者か。あるいは、別の“怪盗”か……」
ヴァルグが意味深に笑む。だが、私はそれに応えない。
ただ、塔へ向かって歩を進める。
石の階段を上りながら、ふと脳裏をかすめた光景がある。
──あの日、アメリアの瞳に浮かんだ微かな“憐れみ”。
それは、帝国の王たる私に向けられた、たった一度きりの感情だった。
(憐れむな。私はこの帝国を背負う者だ。お前の価値を、使い切る。それが、存在の意味だ)
◆
重厚な扉が静かに開いた。
部屋の中は、どこまでも美しかった。
緋のカーテン。銀の細工。宙に漂う微かな香。
中央の椅子に、少女は端然と座っていた。
──アメリア・アルヴィエーレ。
「……お目覚めのようだね」
「……はい、殿下」
完璧な礼。微笑。どこにも隙はない。
だが私は、見逃さなかった。
膝の上の手が、ほんの僅かに震えていたことを。
「式まで数日だ。君は“体調不良”として、この部屋で静養してもらう」
「……かしこまりました」
静かな声。命令には逆らわない。
だが、心は折れてなどいない。
この娘は、誇りのために従っている。
「君は帝国にとって、宝石のような存在だ。少しの瑕疵も許されない」
「……ええ、殿下」
その微笑みが、僅かに──本当に僅かに、歪んだ。
「……誰か、来たのですね?」
「なぜ、そう思う?」
「……空気が、少し変わったような気がしました」
やはり、只者ではない。
私は内心で舌を巻いた。
すぐさまヴァルグの術式を使って扉を封印する。
空間遮断。出入りは制限され、監視は常時。
この部屋は、天空の監獄となった。
「……読書室を整えた。気分転換に使うといい」
「……ご配慮、感謝します」
その声に、怒りも悲しみもない。
ただ、底知れぬ静寂があった。
◆
塔を下りた私は、ヴァルグに低く言い残す。
「……あの娘の“表情”を崩すものがあるとすれば、それは“情”だ」
「……誰かが、彼女の心に触れることですな」
「……その通りだ」
私は、仮面のような笑みを浮かべる。
「だから、封じる。心ごと、空の上に」
──“自由”という毒に、決して触れさせぬように。
その裏で、魔王軍との“儀”の準備は進んでいた。
生贄。
アメリア・アルヴィエーレの「祝福の因子」を、帝国兵と魔族へ永続的に転写するための、禁断の儀式。
それは、すでに後戻りのできない段階にまで来ていた。
私は再び政務室へと戻っていく。
笑みを貼りつけたまま。
“王子”という仮面をかぶったまま。
だが、その奥では。
全てを掌中に収める者として──
この帝国を、完璧に完成させる者として、歩みを止めるつもりなど微塵もなかった。
(──この帝国は、私の手で完成する)
◆
緋のカーテンが風に揺れている。
外の光が、差し込んではすぐに掻き消える。
まるで、自由の影法師のよう。
ここに来てから、何年が過ぎたのか。
季節の巡りも、太陽の高さも、誰も教えてくれない。
けれど、わたくしには分かる。
春の香りが変わり、夏の蝉声が遠のき、秋の静けさが深くなり、冬の冷たさが染み入るようになったから。
バルナス帝国。
誇り高き我が家、アルヴィエーレ公の姫として、
この地に「迎え入れられた」あの日。
あの瞬間から、わたくしの“役割”は始まっていた。
政略。
それは、家族を守るためにわたくしが背負った鎖。
父上も、母上も、弟たちも──そして民も。
彼らの命が、人質として差し出されているという現実。
わたくしが一つ、拒めば、
アルヴィエーレの街は燃える。
兵士の軍靴が石畳を叩き、罪なき者たちが倒れる。
それを想像するだけで、息が詰まりそうになる。
なのに、どうして……。
先ほど、殿下──レオニス様は、さらに“静養”を命じられた。
式を目前に控えた今、わたくしの行動はこれまで以上に制限されると言うこと。
読書室を整える。
そのご配慮に、わたくしは微笑みを浮かべました。
だってそれが、姫君という役割の“正しい”ふるまいですから。
でも、その指先は──止まらず、震えていた。
怖いのではありません。
哀しいのでもありません。
ただ、心の中の“静けさ”が、もう限界なのです。
何も言えず、何もできず、ただ“微笑むだけ”の存在に成り下がることが……。
レオニス様は、言いましたね。
わたくしを「宝石」と。
誰にも傷つけられぬよう、この部屋に閉じ込めるべきだと。
けれど、“宝石”は、
光の中でこそ美しいのではありませんか。
箱の中に閉じ込めてしまえば、ただの冷たい鉱石にすぎないのに。
神よ……。
この国に来て、わたくしは祈ることを覚えました。
誰かに助けを求めてはいけないと教わり、
言葉を飲み込み、涙を隠し、日々を繋ぐ中で、
わたくしに残された最後の“声”は、天に向けるものでした。
──神よ、私は、どうすればよろしいのでしょうか。
父の民を救うために、わたくしはここにいます。
そのことに後悔はございません。
でも、もし……もしも、ほんの少しだけ、許されるのなら。
誰かに、わたくしの“本当の声”を、届けることは罪なのでしょうか。
誰かに、心を傾けることは、許されないことでしょうか。
自由を求めてはいけないのでしょうか。
外の空は、晴れていました。
でも、心の中は、降り続く雨のようでした。
どうか、誰にも聞こえぬこの祈りが、
いつか──誰かに届きますように。