坂の途中、春の香り
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春の風が、川をなぞるように吹いていた。
石畳の坂道を、澄乃はゆっくりと歩いていた。高校の入学式を終え、重たい制服の肩を少しだけ解放するように鞄を背中に背負い直す。
この町に新しい季節が来たと実感するのは、観光客のカメラが少しずつ増え始めるときだ。桜はすでに八分咲き。風に乗って散る花びらが、どこか時間を遅くする。
坂を上りきる少し手前の、古いベンチ。そこに、ひとりの少年が腰かけていた。
「……また、来てたんだね」
そう声をかけたのは、自然だった。
驚いたふうでもなく、少年は澄乃を見上げ、目だけで小さく笑った。
「ここの団子、やっぱりうまいんだ」
彼の手には、串団子。桜色の餅に黒いあんこが、ねっとりと絡んでいる。
澄乃は立ち止まり、目の前の景色と、目の前の蒼を交互に見る。
「入学式、だったの」
「ああ、その制服。似合ってるよ」
「ふふ、ありがとう。……ほんとに、また来たんだ」
「うん。また、来たよ」
変わらない声だった。穏やかで、乾いていなくて、でも深い水の底みたいに静かだった。
澄乃は、二年前の秋の記憶を思い出す。紅葉の坂の途中で出会った少年。たった一言の会話と、名前も聞かなかった存在。でも、ずっと忘れられなかった。
「あのさ、私、今バイト探してて。進学もあるから、お小遣い足りなくてさ」
「うん」
「で、話が急なんだけど……うちの旅館、空いてると思う。人手。『常夜』って、わかる?」
「知ってる。川沿いの、木の匂いのするとこ」
「そう、そこ。古くてね、でも空気がいいの。お客さん、春から増えるから……」
「じゃあ、働こうかな。……俺も、ちょっと、落ち着こうと思ってたところだし」
そう言って、蒼は立ち上がる。背は少し高いけれど、どこか年齢が曖昧な雰囲気。澄乃よりも、年上のようで、年下のようでもある。
「本名、聞いてなかったよね。わたし、澄乃。三浦 澄乃」
「蒼。青いって書いて、蒼。……苗字は、忘れたな」
「ふふ、変な人」
「そう言われるの、慣れてる」
風がまた、団子の香りをさらっていった。
坂の途中、時間がふと立ち止まったような感覚。
けれど、それは止まっていたものが、またゆっくりと動き出す予兆にも思えた。
「じゃあ、明日からでも来て。制服じゃなくて、作務衣ね。動きやすいやつ」
「了解。団子は持って行ってもいい?」
「ダメ。食べながら掃除したら怒られるよ」
「残念だ」
ふたりは並んで坂を下りる。日が傾く温泉街に、遠く湯けむりの白が溶け込んでいた。
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