第5話:緑の風、白い蒸気
「あ、橘さん、どちらへ?」「え?」「そっちは区役所ですよ」「ああ、すいません。土地勘がないので」「ああ、ほら、建物にプレートがあるでしょう。お渡しした通信機器のカメラで撮って、地図を立ち上げると、ほら」「あ、すごい」
街中、それこそ全ての建物に張り巡らされた血管のように見える外配管を触るとほんのり温かい。俳優として、多くの作品の中に入ってきたが、物語の世界を描いたセットと違い、本物の生きた建物に感嘆を禁じ得ない。
外壁を伝う陶器に似た滑らかで艶のある配管を透過するように、柔らかな緑色のエーテル光が内側から溢れ、建物、周りの景色は蒸気とエーテルが織りなす独特の雰囲気を醸し出している。
「まったく、驚きの連続だね」
観光広場を抜け、そのまま旧市街だという道を東に向かって散策を続けながら、私が思わず漏らした言葉に、リリーが優しく微笑みながら頷いた。
「はい。蒸気機関とエーテルとの組み合わせはこの国が得意とする技術で、クロックタウンのような山の中でも世界中と繋がっています」
「頂いた本でこの街は盆地だと読みましたが、しかし、こうしてこの街はぐるりと山に囲まれていますが、飛行船や自動車で他の街に繋がっていることが感じられますね」
「まだお連れしてませんが、鉄道もありますよ。昨日お渡しした本に簡単な国や世界の地図が入っていたのですが、ご覧になりましたか?」
「はい。はは、まあ、ただ、今、我々がこの街のどの辺りにいるのかは、さっぱり」
「ああ、ええ、あれはマクロの地図ですからね。今は広場を出て、ざっくりと東に向かっています。目安として昼間は山の形を覚えると迷いにくいですよ。我々は市庁舎など中央区までの道を歩いています。」
『ポー』
空から汽笛が聞こえてきた。
優雅に空を泳ぐ船が、私たちを影に包んでいく。
軌跡がないのに規則正しく高さ制限やビルの上にある信号機に従って運行されていく外輪船の腹を水底から見上げて。
私は改めて本に書かれていたこの世界の「エーテル工学」という技術体系の説明を思い出す。
この、夢のような世界。太陽が明るく照らす地上には人の営みを示すように高層ビルと煉瓦道が敷き詰められ、我々だけでなく、犬耳や花で着飾った人まで見える。自転車に自動車、船に鉄道。そして色とりどりの花壇に街路樹、淡い緑色の光。
概念的に近いのは、自然エネルギーから取り出された電気だろうか。わかっていることとして、私自身からも取り出せるのが面白いと思う。
地球でいえば、熱エネルギーでタービンを回して電気を取り出し、機械を動かす代わりに、例えば人の体温というごく僅かな熱エネルギーで機械を動かすエネルギーを満たしたようなことだと感じている。
外燃機関をベースに、エネルギー源としてエーテルが使用されているのだろう。熱による破壊的なエネルギーを作り出すのではなく、植物や生命のエネルギーを少し借りる。そんなふうに「エーテル」を捉えていた。
マクロにもミクロにも視線を動かしながらあれこれ考えるが、周りを見渡せば、そこかしこに淡く光るエーテルギアが、それこそ街灯や日用品、小型の装置にまで広く設置、利用されているように感じる。
「橘さん、真っ直ぐ歩けませんか?」
「あ、いえ。面白そうで、つい」「にゃ?」「すいません、また」
壁際で寝転がっている猫のふわふわな腹に吸い寄せられるのを少し惜しみながら立ち上がる。
そして差し出された彼女の左手は、他とは違う青い輝きで、透明な青い光で揺らめいていた。
そのどこか神秘的で、吸い寄せられるような強い意志が宿る光は、リリーという存在をより一層引き立て、私は美しいと感じている。
「青いエーテルギアは、簡単にいえば周囲のエーテルを吸収して、必要に応じて増幅することができます」
私が立ち上がったまま、手を見つめたことを「逡巡した」と捉えられてしまったのか、彼女は淡々と青いエーテルギアについて補足してきた。
「なるほど、動力源が限られたエーテルギアよりもずっと強力ということですね。すいません、見るもの全部が珍しくて、ぼうっとしていました」
その言葉はどこか事務的で、彼女への「触れ方」に失敗したとわかった。だからこそ、私は息を吸って、笑顔で差し出されたその手を力強く握り返した。
彼女はいくらか瞬きをし、僅かに微笑みながら小さく頷き「そうですね」と言いながらも、また、少し表情を引き締め、少し苦い声を出す。
「ただ、それだけに制御も難しくて。エーテルの増幅を必要なだけに抑えながら、安定した出力を引き出すには高度な調整とメンテナンスが必要なんです」
冷たくも温かい、このリリーの青いエーテルギアは、街で広く用いられている緑色のエーテルギアとは異なり、ずっと複雑な機構を持っているらしい。
私はよほど興味が顔に出ていたのだろう。「もしご興味があるのなら、明日、研究所にご案内しますね。今見えてる技術の基礎はお見せできるかと思います」と彼女に気を使わせてしまった。
「それは楽しみです」
まだわからないが、私は新しいこと、知らないことが大好きだった。機械も演じることも。
「他の誰でもない誰か」になれることに、そして何より私が「人の心の何か」になれること、あらゆる場所で千差万別な用途に使われる半導体を進化させることで「人の役にたつ」幸せを感じていた。
その気持ちは、まだ私の心に残っている。明日この街の心臓ともいえる技術の一端を知ることに、胸が高鳴っているのを感じている。
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「今日は必要なものを少し揃えましょう。タオルや着替えなど、入院生活に役立つものを少しだけ」
「いや、もう十分に元気なんですが」と少しばかり強調するように腕をまくってみせると、リリーはくすりと笑った。
その笑顔につられて私も思わず笑顔になったが、その時、私の腹の奥から控えめな音が鳴り響く。
「まずはブランチにしましょうか。とりあえずパンケーキ屋に向かってましたが、橘さん、何か食べたいものはありますか?他にも飲食店はいっぱいあるので遠慮なく」
「いえ、まずはおすすめのパンケーキで」
彼女に笑い返しながら、エーテルと蒸気に満ちた街の流れの中に、自分が少しずつ溶け込んでいくような、そんな気がした。