第3話:街角と水仙の夢
「うん?あなたはどこから入り込んだので?」『ちゅう』「この翻訳機、なかなか素晴らしい」『ちゅ』「あ、こんなとこに!すいません、エリザベスがご迷惑を」「このハムスターさんはエリザベスさんですか」「はは、ハムスターではなく天竺鼠です。この病棟は怪我人の短期病棟なので、ペット持ち込み可なんですよ」『ちう!』「なるほど、かわいいですね」「でしょう?」
リリーはあのまま、私が落ち着くことを優先し、私に対する詮索もせずに病院の設備やこの部屋の機能を簡単に説明して、そのまま立ち去ってくれた。別れたとき、壁際にある時計は午前10時を少し回ったところであり、しっかりと寝ていたから体力もある。
朝を食べてもよかったが、私はもともと朝が弱く、人と一緒でなければ特に食べようとも思わない。それよりも、と広辞苑程度の分厚い本をめくり始めれば、もう止まらなかった。『ちう?』かわいい「ねずハラ」により、一次中断したときにはもう陽が傾いていた。
「これ、美味しいですね。トロトロのカブにジャガイモ、それとソーセージ。ボリュームもあるし、塩気が思ったよりなくて、パクチーとバジルの香りで食べやすい。いや、病院食だと思って期待してなかったのですが」
「ああ、アヒアコ?スープだとこれが一番病院食ぽくないっすか?ビュッフェでスープなら、俺は魚ですね」『チチ』「魚?」「これ、カルディラーダ。川魚の煮込み、腹一杯に魚を食べれるんで俺のおすすめ、コスパいいすっよ!」『チッ!』
天竺鼠のエリザベスさんの飼い主さん(17歳)と異世界での最初の夕飯を食べた。バイク事故により10日も入院していたとのことで病院食は飽き飽きしていたらしいが、若者らしく大変元気がいい。
異世界の食事とは一体、どんな食事かと思えば、確かに食べたことはないが美味しそうな料理が並ぶブュッフェだった。軽めのサラダに新鮮そうな香菜の匂いがするスープ、炊いた米を頂く。エリザベスさんは大人しく飼い主さんの膝に座っていた。
「明日俺、退院なんで。これ、連絡先です。落ち着いたらでいいんで連絡ください。病院食よりうまいもの、この街いっぱいあるんで、食べに行きましょう」『チー!』「ありがとうございます」
あのクリスマスからこの夕食まで、私の意識は地続きであり、もうダメだと覚悟を決めてからの食事は奇跡の味がした。当たり前のように食事を楽しめることがよほど嬉しかったのだろう。異世界人だと言うと、美味しそうに病院食を食べる私に、もっと美味しいものを紹介してくれるとエリザベスさんと一緒になって励ましてくれた。
ブュッフェはいつでも貰えるらしいが、数種類のチーズと軽いアルコールをもらって病室に戻る。いろいろとこの世界、この街について聞いたが改めて本で確認しようとベッドに座ったら、すでに先客。ぶち柄のうさぎが寝ていた。
異世界にきて新たに取得したスキルは「動物遭遇」。かわいい動物と仲良くなれるスキル。
「ふふ」つい、笑ってしまった。ふわふわなうさぎを撫でたら、うさぎはこちらを見返してきた。
『エーテルとは生命エネルギーであり、それをエネルギー源として動くエーテルギアです』――この部屋にもある淡く緑色に発光する機械への記述が目を引く。
『スピー』何も話さないうさぎだが、よくよく見れば表情があり、とても雄弁だった。リクライニングしたベッド、寝転がる私の腹の上に寝ているうさぎを起こさないように、静かに本を読む。あまりに現実離れした記載に夢のようだと思いながら、しかし、腹の上下に合わせて動く温かさが現実だと教えてくれる。
『ぷー、すぴー、ぷー、スピー』
うさぎのいびきをバックミュージックにして読み進める。新しい技術、新しい世界。初めてテレビに触れた日のように、唐突に世界が広がっていく感覚に身震いがする。
すでに夜。数歩離れたカーテンが開いたままの窓の外には月の光を浴びた青い天空の城が空に浮かぶ。窓枠が額縁となったその絵に、息を呑む。本を捲る手がいつ止まったのか、私には思い出せなかった。
『カリカリカリカリカリカリ』
迎えた翌朝、うさぎに首元をカリカリと擦られて目が覚めた。壁の時計は朝7時を指している。
「おはようございます」
そういうと、うさぎはベッドから飛び降りて、部屋から出て行ってしまった。
本によればこの世界は中天から次の中天までの時間を24分割した太陽時を60分割して「分」、さらにこれを60分割して「秒」としたらしい。体感的に、元の世界より少し1秒が長く感じられる気がするが、現代人らしく慌てていたからかもしれない。
朝ご飯を食べる気にはならないが、軽く飲み物を受け取りに行った食堂に、ぶち柄うさぎはいた。飼い主らしい小さな男の子にセロリのようなものを食べさせてもらっていた。
そっと、うさぎと目が合う。
まるで「後朝」ともいうような雰囲気を作り出すうさぎに合わせて、こちらも情緒たっぷりの顔を作って差し上げた。
「ぷっ」『フン!』
何事かという男の子をそっと流し見て、ヨーグルトをポカリで割ったような飲み物を受け取り、自室で軽い運動をしていたら、リリーがやってきた。
「おはようございます」
「おはようございます、早いですね」
「あら、そういえば、朝、としか申し上げていませんでしたね。出直しましょうか?」
「いえ、起きてますし、8時半です。丁度いいですよ」
リリーと今日の天気など、スモールトークをしていると、どうやら合格点なのだろう、ある提案を受けた。「お加減よければ、少し街を散策してみませんか?」と、紙袋を差し出された。
今の私にとって、情報こそが最優先だ。何より、この晴れた朝、窓から見える色とりどりに淡く発光する蒸気に包まれた街は本当に美しかった。
彼女の誘いに「ありがとう」と答える。
笑顔が抑えきれなかった。
「これは‥」
病院を一歩出れば石造りの建物が並び、そこかしこに歯車や蒸気管が組み込まれている。空には蒸気船が浮かび、異世界に来たことを強く感じさせる。
リリーが用意してくれた私の格好は、赤いTシャツとスコットランドスカートと、かなり奇抜な気がしたが、彼女の極普通だと言わんばかりな、全く動じていない目に応援され、黙って袖を通した。
「今日は中央街にいきましょうか。ここから歩いて30分ぐらいです。もし疲れてきたらバスやメトロにしましょう。ブランチのおすすめはパンケーキですが、橘さんは甘いものはお好きですか」
「ええ、嫌いではないです。」
花の香りがする歩道の脇を、車道から30cmほど宙に浮いている車が走っている。歩道の片側は商店や公園が続いている、そんな6車線ある並木道をリリーと会話しながら歩いていると、ふと、視線を感じた。
ショーウィンドウに映された私が、私を見つめ返してきた。それは随分と若い私だった。幾つぐらいだったか、おそらく、中学校卒業ぐらいで、急激に背が伸び始めた頃の気がする。
昔のこと、元の世界の家族や友人たちと顔を思い出す。もう、会えないことが急激に実感として襲ってきた。私は、俺は若返っている。それは、地球ならあり得ない。そう、わかっていたが、やはり、私はあの時、そのまま死んで、ここに何かしらの要因で転生したのだろう。
それは、本当に、寂しかった。
見上げた空には、ゆったりと浮かぶ蒸気船や機械仕掛けの鳥が飛び交い、私はどこか、途方にくれてしまった。ひとり、時間と世界に取り残され、私が私であることを誰も知らないと、ガラスに写った私に心で溢した。
「どうですか、クロックタウンは?」とリリーが誇らしげに問いかけてきた。
私がこの街に驚き、言葉がでないと思われたのだろう。事実、私はここまで、驚きのあまり口数が少なかった。
「見たことない景色に、声も出ませんよ」
「まだこちらにきたばかりです。無理もありません。少し刺激が強いですか?」
下っ腹に力を込めて、笑顔を作りリリーに相槌を返し、周囲を見渡す。この街は機械と人々、植物とが共存し、それがまるで社会と自然という二項ではなく、社会が自然に包摂され、調和している。リリーが誇らしげなのは当然だろう。
「いえ、本当に素晴らしいな、と。まるで街全体が生き物のようです」
「ありがとうございます。そうなんです。この街、クロックタウンはこの辺りでは特に生命エネルギーであるエーテルが豊かにあります。それは、近くに世界樹があるからなんですよ。都会と田舎の間ぐらいで規模もそこそこある住みやすい都市だと思っています」
リリーは歩きながら、この街が昨年、ヴィクトリア国住みやすいランキング総合9位になった、名物は干した牛肉、など「お国自慢」を披露してくれていたが、私の反応が薄かったのだろう、止まってしまう。
そのまま、話が途切れそうで、どうにか話を繋ごうと視線を彷徨わせると黄色い水仙の花が咲いているのが見えた。思わず「この花は水仙ですね?」と尋ねると、リリーは微笑んだ。
「ええ。水仙には『夢を追いかける』という意味があります。橘さんは、夢がありましたか?ここエルヴァニアの我が街クロックタウンで新しい夢が見つかることを願っています。」
その言葉が胸に響いた。もう、私は異世界にいる。新たな「夢」を私は、追いかけるのだろうか。
未知の世界での新しい日々が始まろうとしているのを、私は確かに感じていた。