第1話:もふもふと目覚め
「……ここは、どこだ?」
目を開けると、そこには見知らぬ天井と、もふもふな黒い塊があった。
「私は?」『にゃー』
ねこ、?猫か。
「猫?」ゆっくりと状況を把握しようとするが、記憶がかすんでつかめない。私はたちばな、みつき、橘瑞樹だ。
私の上で横を向いて座っている、黒い何かと目が合った。黒い猫は、よく見れば焦茶色に近い黒猫であり、その黒い目ん玉は、穏やかで理性ある生き物だと示している。
起き上がろうとしたが、急に動くと、この黒猫が落ちてしまう。身体に緊張が走る。そうだ、動ける?
『にゃ?』
「なぜ?ここは?俺は?」
指先に触れるシーツの感触がどこか新しいものだと気づく。あのベッドじゃない。黒猫が面倒そうにしっぽを振ってきて、頬を叩かれる。
もふもふな感触に、そうだ、あの時は呼吸器もつけていた。それなのに今は…?
静かに口元に手を当てると、呼吸器がない。
そうだ。俺は病院にいた。舞台の千秋楽を踏んで、そのまま、身体が動かなくなって。マネージャーさんが私に何か呼びかけている中『雨は夜更け過ぎに、雪へと変わるだろう』という歌だけが、妙にはっきりと聞こえていた。
うっすらと思い出してきた。最後に目が覚めたときは、身体から強烈な違和感を感じ、また声を出そうにも、うめき声すら出せず、歯に管が当たった感触と、全身を針で繋がれた痛みから逃れようとしても指ひとつまともに動かせず、唯一動いた視線の先には呼吸器をつけた私がモニターに反射して写っていた。
口元から猫に注意しながら、手を動かせば、首にチョーカーのようなものがあるのを感じ、反射的に触れてみた。
「一体、どうなっているんだ…」
『にゃ』
黒猫に悪いと思い、少し遠くから手で囲って、ゆっくりと上体を起こし、周囲を見渡す。
私が最後にみた景色とは違う、この白い部屋には見慣れない機械が並び、まるで森の中にいるような薄っすらと緑の光を放つ銅管が張り巡らされていた。
こっそりとそのもふもふに触れようとしたら、黒猫は私の手に頭を擦りつけたあと、ベッドからするりと降りて、伸びて、扉から出て行った。私の手のひらには、微かな温かさが残った。
-そう、私が初めて、この世界で目覚めたとき‥「転生」したと、思い込んでいた-
思わず、続いてベッドから降り、数歩、光が漏れているカーテンを引くと目に飛び込んできたのは、塔のような構造物と、空をゆったりと漂う蒸気船。異様でありながらも幻想的なその風景に、言葉を失う。
「ここは…一体どこなんだ」
窓だと思わしきモニタに映る外の景色から、ここは高層階だと思うが、映像という可能性も捨てきれない。この窓ガラスに反射した私の顔は、若返っている。どうしたことかと頬を抓るが、きちんと痛い。
テレビや映画の設定で出てくるスチームパンクの世界に首輪、軽くなっている身体。少なくとも日本どころか地球ではないだろう。
この部屋は暖かいし、外の日差しも単なる映像にはない温かみがある。窓の外をよく見れば、機械に交じり、植物の色鮮やかな緑が目立つ。
「これは、転移?いや、若返っているから、転生した‥か?」
先程、クリスマスに千秋楽を迎えた役は警察官だった。この歳、45になるまで様々な「役」になってきたが、こんなことは初めてだ。
ここは慎重に行動しないと、おそらく詰むのだと、私の理性はいうが、私の直感は「大丈夫」だと、すでに窓の外の景色に心を奪われている。
「ああ」
やり直せる。あの管に繋がれたモニターに写る私と目があった時、私の心には絶望が確かにあった。いよいよ、最後かと思ったこと、まだ身体中に針が刺されたかのように、皮膚が引き攣る感覚まで残っている。
心に温かな希望が差し込まれ、だが、どこだかわからない不安に負けるまいと丹田に力を入れたその時、不意に声が背後から響いた。
「お目覚めになられましたか?」
反射的に振り返ると、女性が立っていた。短めの金髪にスーツ姿で微笑んでいる。北川景子さんのような華やかさに目を奪われた。
一体、どこからと思ったが、先程黒猫が出て行ったように、この部屋の出入り口はカーテンで仕切られており、私が物音を立てれば、外が気がつくようになっていたと今更にわかる。
女性は静かにこちらを伺っている。私から声を掛けるしかないのだろうが、果たして言葉が通じるだろうか。
「…あなたは?」
思い切って、しかし、ゆっくりと問いかけると、彼女は名乗った。
「私はリリーです。ここ、クロックタウンでエーテル技術を研究しています」
「クロックタウン…?」
知らない地名。リリーと名乗る女性の左手は薄っすらと青く発光し輝いている。それは壁や窓の外に広がる街と同じように温かな煌めきを放っていた。
敵か、味方か。すぐに動けるように身構えると、リリーと名乗る彼女は、私の戸惑いを感じ取ったのか、説明を続けてくれた。
「ここは病院で、クロックタウンはヴィクトリア王国の山間部にあります。この街の近くには『世界樹』と呼ばれる木があります。あの、私の言葉はわかりますか?」
「エーテル…」
聞き慣れないその言葉を反芻しながら、私はやはり自分が異世界にいるのだと少しずつ理解し始めた。転移か転生か、夢かはわからない。ドッキリにしては大掛かりすぎるし、夢だと断じるには、実感があり過ぎた。
どうして自分がここにいるのか、その理由はわからない。ともかく、相手が友好的だと判断し、まずは会話をすることに決めた。
「すいません、まだよくわかってなくて。エーテルとは、なんですか?」
意識して明るく笑いかけると、リリーはほっとしたようだ。
「エーテルとはこの世界の生命エネルギーです。例えば、この部屋の照明や私の左手もエーテルで動いています」
「なるほど」
「状況を簡単にお伝えしますね。昨夜、この街の近くにある世界樹が観測予測外に大きく光り輝きました。そのため急ぎ我々が世界樹を確認したところ、その世界樹に寄りかかるようにあなたが倒れていました。あなたに声をかけても応答がなかったので、世界樹に近い街の中で、設備が整っていたクロックタウンの病院、つまりここで検査し、あなたの回復を待っていました」
「そうだったんですね…」
「検査結果として、特に意識を取り戻せないような異常は見受けられなかったのでご安心ください」
彼女の言葉は大変簡潔明瞭であり、私の認識や想定とはズレていない。また、身体に異常がないという言葉は、さっきまで死にかけていたはずの実感とは相違していた。
「あの」
彼女の言葉に少し安心し、やはり異世界に来てしまったという現実を受け入れざるを得ないのだと、感じ始めていた。