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歴史あるリベルタス公爵家には、魔法に関する貴重な書物を集めた魔法棟がある。その質、量、希少性は王城の書庫をはるかに上回る。
勢いよく魔法棟の扉を開けると、伸び放題のもじゃもじゃした赤毛に、分厚い眼鏡をかけた『ヌシ』がいた。アルマジロみたいに丸まって、人が入ってきた事にも気が付かず、一心不乱に本を読んでいる。
「ヴォルフラムっ!!」
名前を呼ぶと、彼は不思議そうに……そして若干嫌そうにわたくしを見た。勉強を中断させられて、眼鏡の奥できっと彼は顔をしかめているだろう。
「どうしましたか、シュシュリアお嬢様」
ひさしぶりにヴォルフラムに様付けで呼ばれて、鳥肌が立った。
「……なによその言い方、慇懃無礼で気持ち悪ぅ……」
「……ご自分でそう呼べとおっしゃったのでは? 分家の、しかももらわれっ子のどこの馬の骨ともわからない身分で従兄弟を名乗るな、と」
そう言えばそうだったわね。戦場では上官風を吹かせて『シュシュリア』と呼び捨てにされていたけれど、この時期のヴォルフラムはわたくしよりはるか格下だったのだわ。今の彼はわが国筆頭の魔導士ではない。父の弟である騎士団長が、戦場で拾って来た才能がある馬の骨……それがヴォルフラム。
「そうだったかもしれないけど、これからはシュシュリアでいいのよ。親しみを込めてね」
ちょうどよく吹いてきた風に艶やかな銀髪をなびかせながら言うと、ヴォルフラムはとてつもなく恐ろしいものを見てしまった。と言わんばかりに身震いをした。子供の頃から失礼な男だこと。
「なにか公爵様に注意されたのですか」
ヴォルフラムは分厚い眼鏡をはずして、レンズを拭いて、かけなおした。彼は生まれつき視力が弱くて、その上どんどんと視野が欠けていく病に侵されている。……治しても、治しても、また同じ病にかかる。国一番の医者でも、強大な癒しの力を持つ聖女ステラでも、ヴォルフラムの目を治す事は出来なかった。
「えー……そうねぇ、ヴォルフラムはとても才能があるから、大事にしなさいと」
子供の頃から天才だ、神童だ、と家柄も相まってちやほやされてきたわたくしにとって、平民の出でありながら類い希なる才能を持つヴォルフラムは目の上のたんこぶだった。彼に挑んではそのたびにやり込められて、ヴォルフラムのくせに生意気だと怒り、手を抜かれれば侮辱だと怒り。ヴォルフラムはいつも表面上はおとなしくしていたけれど、わたくしの事が好きではなかったと思う。
王太子に大けがをさせて、それを救った聖女ステラへの暴言、その他やってもいないもろもろの罪をおしつけられて、わたくしは極東から我が国に攻め入ってくる魔物を倒すための討伐軍に送られた。
美貌の公爵令嬢だなんて、どんな扱いを受けるのかと戦々恐々としていたけれど、先に戦地に赴任していたヴォルフラムがわたくしの身元引受人になってくれた。
『討伐軍への赴任が死罪と同等の罰だなんて、皆に失礼です。今日からあなたは、何者でもないただのシュシュリアだ』
『……分かっているわよ。ええ、もう、どうでもいいわ。わたくしを好きにするといいわ。なにもかもを失って、もうすべて終わりよ』
なげやりに身を投げ出したわたくしを、ヴォルフラムは笑った。
『本当に、好きにしてよろしいのですか?』
『な……何よ。女に二言はないわ』
わたくしに何かしようとした奴は氷魔法で倒して、そのあとわたくしも自害してやる、そのくらいの気持ちでここにやってきた。けれど、ヴォルフラムには──勝てない。これまでの恨みとばかりに、何をされてもおかしくはないと思っていた。
けれど、ヴォルフラムはもう一度笑った。
『あなたらしくもない。記憶喪失にでもなったのですか? あなたは何も失ってなんていない』
『何を言って──』
『あなたはには才能がある。王国最高の魔導士だなんて持ち上げられている僕の事も恐れない──今からでも、その身ひとつで何者にだってなれますよ』
「……あなたにも、いいところが沢山あるしね」
ひとしきり過去を思い返してから感慨深げに頷いたわたくしを、ヴォルフラムは訝しげに見つめた。
「……へぇ……」
ヴォルフラムの子供とは思えぬ強い眼光に思わずたじろぐ。あからさまにわたくしを疑っているわ。
「何よ……」
あら、思った以上に嫌われていた? 仕方ないわ、今夜は賄賂を使って夕食をヴォルフラムの好きな鹿肉のシチューに……王都に捌きたての新鮮な鹿肉って流通しているのかしら?
「シュシュリア。あなた「時渡り」でもしましたか」
「どっきーん」って音がするとしたら、まさにこういう時に使うべきかしら。時渡りをしてきた事を誰にも知られてはいけないと決意したばかりなのに、このままではお父様に折檻されてしまうわ。
「な……なん……ななな、なんでそ……」
「なんて。そんな事、あるはずないか」
ヴォルフラムは勝手に自己完結して、わたくしから目を逸らした。
「あなた、ヴォルフラムのくせにわたくしにカマをかけたの?」
「普段はヒステリーなのに今日は随分と落ち着いてらっしゃるから、別の何かに取り憑かれているのかと」
ヴォルフラムは軽口を叩きながら、手に持っていた本を、すっと積み重なった本の一番下に隠した。それを見過ごすわたくしではない。
「ヴォルフラム。今、何の本を隠したの?」
「いえ、特に何も」
「わたくしに見せなさい。隠しても無駄よ」
ヴォルフラムがしぶしぶ差し出してきたのは、禁呪「時渡り」に関連する書物だ。
「あなたね……。この類の本は奥に封印されているのよ。勝手に出してはいけないわ」
「子供に解ける封印を施しているのがいけないと思います」
相変わらず口の減らない男だわ。ヴォルフラムは平然と『そこにある本を読んで何が悪いんだ、悪用するわけじゃなし』みたいな顔をしている。呆れて次の言葉が出てこないわ。
「……まあいいわ。この本を返すついでに、奥から回復魔法の本を持ってきて。蘇生魔法も、全部よ」
わたくしの発言にヴォルフラムは首をかしげた。かしげすぎて、首がそのまま落ちてしまうのかと思うくらい。
「氷の魔法を誇りとするリベルタス家のご令嬢が回復魔法を?」
「なによ、文句があるの?」
「回復魔法は非常に使用者が少ない上に、その中でも最上位とされる蘇生魔法は術者の生命力をむしばむ。だから禁呪なんですよ」
「そのくらい知っているわよ。いいから持ってきなさい。さもないとお父様と伯父さまに言いつけるわよ」
脅迫が効いたのか、ヴォルフラムはしぶしぶ蘇生魔法の本を取るために奥へと向かっていった。封印の扉の魔力のせいでヴォルフラムの姿が曖昧に揺らめいて、あの時を思い出して、苦しくなった。
ヴォルフラムは病を抱えたまま討伐軍の最前線にいて、そして……私をかばって、死んだ。