22 赤ちゃん
9月の検診で病院に行くと、杏ちゃんのお兄さんは退院していた。看護士さんの話だと、杏ちゃんが俺の話をお兄さんにして、それで、お兄さんも病院にはもう、これ以上いたくないと、退院を決めたのだと言っていた。
俺たちといえば、今日は何日で、何曜日かっていう感覚がだんだんと消えていっていた。ただ、朝が来て、1日を生きる…その連続。
でも、ある時、瑞希がカレンダーをじっと見つめていたときがあった。8月、7月とめくり返して、なにやら、しかめっ面をしたり、数を数えている。
「どうしたの?」
「なんでもない」
瑞希は、よそよそしかった。
もしかしたら、俺が退院してからの日にちを、数えていたんだろうか?7月の終わりの時点で、余命3ヶ月と告知された。
9月も半ばを過ぎ、もうどのくらいの日がたち、残りはどのくらいかと数えていたんだろうか…。
その日の夕方、クロを連れて、散歩に行った。瑞希は、何かを隠していると、なんとなくわかる。目をあまり合わせないようにしたり、ぎこちない笑顔を作る。
散歩から帰ると、そのまま、瑞希の家にお邪魔をした。
「クロちゃん、最近は圭ちゃんにお散歩連れて行ってもらって、大喜びなのよ」
「俺も、すごく嬉しいです」
瑞希のお母さんと、そんな話や、修にいの結婚の話なんかをして、しばらく盛り上がっていた。
ふと、瑞希がなかなかリビングに来ないことが気になった。
「瑞希、どうしたのかな?」
「ああ、なんか2階に行ったみたいね。自分の部屋に用でもあったんじゃない?」
気になった。まさか、泣いてたりしてないよね…。
2階に上がって、瑞希の部屋に入った。
「どうしたの?なんで2階に来ているの?」
瑞希は、ベッドの前で座り込み、泣いていた。
あ…、やっぱり泣いてた!
「どうしたの?」
なんで俺に隠れて、泣いてるんだよ?
瑞希のそばに行くと、瑞希が手に何かを持っていた。
「何?…これ」
瑞希の手にあるものを見ながら、聞いてみた。
「これ、妊娠検査薬」
「え?」
妊娠…?
「この赤紫の線が出たってことは、陽性なの」
「よいせいって…何?」
何?どういうこと?
「妊娠してるってこと」
「……。赤ちゃん…、できたってこと?」
「うん…」
俺の、赤ちゃん…?
「まじで?」
「うん」
「すげえ…、すげえ瑞希…」
俺は嬉しさのあまり、泣いていた。
そして、瑞希を抱きしめようと引き寄せたけど、おなかに赤ちゃんがいるから、そっと抱きしめた。
「瑞希のおなかの中に、俺の赤ちゃんがいるんだ」
「うん…」
「すげえ、命が芽生えたってことだよね」
「うん…!」
赤ちゃん…。すげえ。命が宿ってるんだ。それも、俺と瑞希の…。涙が溢れた。
瑞希の顔を見ると、瑞希も泣いてて、ほっぺたに涙のあとがあった。それを俺の手で拭いた。
「命ってすごいね」
瑞希は、まだ目をうるませていた。
「すごいと思わない?瑞希。だって、こんなに人を感動させるんだよ」
「うん…」
瑞希の目からまた、涙がこぼれた…と、同時に俺の目からもこぼれてた。
「お母さんにも、報告に行こう」
そう言って、瑞希の手を引き、一階におりた。
「お母さん、私妊娠したよ」
瑞希が、俺の手をにぎったまま、お母さんにそう言った。お母さんは、一瞬びっくりした顔をして、
「本当に?瑞希。おめでとう…!」
と言って、涙を流した。
夜、瑞希のお父さんと修にいが帰ってきてから、二人にも報告をすると、二人とも喜んでくれた。
それから、家に帰って、親父とおふくろにも、電話で話をした。次の日、おふくろが早くからうちに来て、泣きながら、おめでとうと言って、俺たちを抱きしめてくれた。
おふくろは、変わった。俺の前でも泣いたり、感情を出すようになった。
その日に、瑞希とノートを買いに行った。そして、赤ちゃんにむけた日記をつけることにした。
綺麗な空や、木々や、花。それから瑞希の顔、そして、瑞希が俺の写真も撮って、それを毎日、日記にコメントつきで貼っていった。
瑞希と子供の名前も考えた。5月生まれだ。さわやかな季節だから、男の子なら「爽太」女の子なら、春だから、「春香」って瑞希と決めた。
ますます、毎日は感動の日々になった。
まだ、生まれてきていないとはいえ、おなかの中にはもう、命がいるんだって思うと、嬉しくてしょうがなかった。瑞希のおなかに向かって、話もした。
散歩に行くと、自分が感じている風のこと、光のこと、雲のこと、そんなことをいちいち、赤ちゃんにむかって話した。そんなとき、瑞希はすごく愛しそうに、おなかをさすった。ああ、もう、母親なんだって、実感した。
瑞希に、俺の子を残していける…。
それって、辛いことになるんじゃないのかって、何回か思ったりもしたけど、愛しそうにおなかを見ている瑞希の顔を見たら、瑞希なら、一人でもこの子を守って、生きていけるんじゃないかって、そんな気がした。
いや、一人じゃない。まだまだ生まれるのは先なのに、俺のおふくろは、赤ちゃんの産着を買ってきたり、瑞希のお母さんは、おもちゃまで、買ってくる。
俺たちのアパートは、あっという間に、赤ちゃんのもので埋まっていった。
「気が早いよね~~。君のば~ばたちは…」
そんなことを瑞希は、おなかの子に話していた。
どんな子が生まれてくるのだろう?女の子なのか、男の子なのか…。
ある日、俺はすごく不思議な夢を見た。色白で、真っ黒な髪をした、小さな男の子が俺に向かって何か話していた。
「パパ」
え?パパって言ってる?俺の子か?
「一緒に、いっぱい遊ぼうね」
そう言うと、その子はにこって笑って、どっかに消えていった。そこで、目が覚めた。瑞希が、すやすやと横で寝ていた。
「夢…」
俺の願望が、夢になって現れたのか?子供と一緒に、遊ぶ空想、海に行ったり、抱っこして高い高いをしたり、公園に行って、ボール遊びをしたり、そんなことをよく空想しているからか。
その夢の話は、瑞希にはしなかった。俺が空想をしていることも、瑞希には、言わなかった。
妊娠検査薬で、妊娠してるとわかってから、1週間後、俺と瑞希は産婦人科に行った。
待っている間、ドキドキした。実は妊娠していませんとか、残念ですが…なんてことはないよな。
瑞希が診察室から出てきた。顔はにっこりと微笑んでいた。ああ、良かった。その顔ですべてがわかった。
「2ヶ月目だって」
「そうか~~」
「写真見る?」
「え?なんの?」
「赤ちゃんのだよ」
「え?」
「エコーで撮った。これだよ。小さいでしょ。胎芽っていうんだって。胎児の芽…」
「…これ?」
「うん。その小さい芽が細胞分裂して大きくなっていくんだね。不思議だよね」
「すげえ…」
俺は、しばらくそのエコーで撮った写真を眺めていた。赤ちゃん…。命…。こんなに小さい…。
「瑞希のこと、大事にしなくちゃ」
「え?」
「だって、こんなに小さい命が、瑞希の中にいるんだよ?」
「ふふ…。そうだね。大事にするよ、私も。もう、私一人の体じゃないもんね」
「うん」
瑞希の手をそっとにぎった。この手から、赤ちゃんまで俺のぬくもりが伝わったらいい、そんなことを思った。
瑞希はつわりもなく、元気だった。
10月に入り、俺の検診の日が来た。
「瑞希は、家にいて。大学病院なんて、風邪ひいた人とかもいるんだから。ね?」
「大丈夫だよ~~。大学病院の産婦人科に行く人だって、いるんだよ?」
「駄目!」
俺は、瑞希を家に残して、病院に一人で行った。
瑞希は俺の体を心配してるのか、何か先生から大変なことを言われて、俺がショックを受けないかって心配してるのか、ギリギリまで、ついていくと言っていた。
でも、俺はすこぶる体の調子が良くて、最近ずっと頭痛もしていなかったし、吐き気もなかった。けいれんも、9月終わりからまったくしなくなっていた。
食欲もあり、髪もいつの間にか、黒々と生え、いったい俺いつ死ぬんだろう?こんな元気だけどって感じだった。
7月の終わりに余命3ヶ月といわれてたから、10月終わりには、消える命のはず。でも、ぴんぴんしてるけどな。
病院に着くと、何人かの知ってる看護士さんに会った。
「あら、圭介君。検診?」
「はい」
「今日は一人?奥さんは?」
「あ、妊娠してて、家で今日は留守番です」
「え?赤ちゃん!、まあ、おめでとう」
「はい、ありがとうございます」
「……。なんか圭介君。顔色もいいし、ちょっと体格もよくなったんじゃない?」
「太ったってことですか?」
「あ、ううん。前、痩せてたから、ちょうど良くなった感じ。調子はどう?」
「ああ、はい…。なんか、ばりばり元気で…」
「そう、良かったわね。あ、検診よね。行ってらっしゃい」
待合室でつかまって、しばらく話し、それから、受付に行き、すぐに呼ばれた。
診察を受け、検査をしていても、先生から、
「顔色良くなったね~~。元気そうだ」
と、言われたり、
「髪の毛、つやつやね」
って、婦長さんにも言われた。
「あ、竹内先生、俺、父親になるんすよ」
「え?」
「瑞希、赤ちゃんできたんです」
「そっか~~!おめでとう。ああ、何かお祝いしないとな」
「いえ、そんな、悪いっすよ」
「いいんだ、いいんだ。婦長、何か考えよう」
「はい、そうですね」
竹内先生と、婦長さんは、結婚式にも来てくれた。他の看護士さんもすごく、俺のことを可愛がってくれてた。嬉しかった。
検査も終わり、ひさしぶりに、ぶらって買いものがしたくなり、病院の最寄りの駅まで歩いていった。その駅には、大手のデパートがあり、そこに入ってベビー用品売り場にいってみた。
「わ~~~~~!」
可愛い服や、靴、ベビーカーにおもちゃ、勢揃いだ。
「こりゃ、おふくろや、瑞希のお母さんが買ってきちゃうのわかる気がする」
そうつぶやきながら、ぶらぶら見ていると、
「どなたかへの出産祝いですか?」
と、若い女性の店員が聞いてきた。
「え?いえ。あの…」
まいった。何かを買う予定はなかった。でも、ここで、見てるだけって言うのも変なので、
「俺の、生まれてくる赤ちゃんのものを、ちょっと…」
と、本当のことを言うと、
「え?」
って、店員がびっくりしてた。
まあ、その時のかっこうは、Tシャツにちょっと、だぼついた、腰ではくジーンズ。パンツが見えそうな、いや、見えてたかもしれないようなはき方もしてたし、どう見ても、学生かぷー太郎にしか見えないだろう。いや、実際働いてないし、ぷーなんだけど。
「お洋服か、それとも、何をお探しですか?」
「あ、すみません、何ってわけじゃ…。ただ、ちょっとどんなものがあるかなって思って」
「いつ生まれる予定ですか?」
「来年の5月です」
「まあ、1番いい季節ですね」
「はあ…」
「奥様も楽ですね」
「え?そうなんすか?」
「そう聞きますよ。冬生まれだと、夜中の授乳も大変だとか」
「あ、そうなんだ」
「また、何かいるものがあれば、いつでもいらしてください」
「あ、はい」
ペコってその店員に頭をさげて、俺はその場を立ち去った。
それから、腹がものすごく減ってて、ご飯を食べていくことにした。
瑞希には、ご飯を食べて帰るねと、メールを入れたら、わかった、気をつけてねと、返信が来た。
最上階にあるレストランに入る。お母さんと子供の姿が、ちらりほらりといた。ああ、瑞希もあんな感じになるのかな…そんなことを思いながら、一人でご飯を食べた。
ふと、外を見ると、すっかり秋の空になっていて、俺は秋にはもうない命かもって思っていたから、不思議な気持ちになった。
家に帰ると、瑞希は、うたたねをしていた。妊娠すると、いつも眠くなるみたいって瑞希が言ってたけど、そういえば、たまに昼寝をさせてねと、昼に1時間くらい寝ることがあった。
俺はその間に、写真をプリントアウトして、日記に貼ったりしていた。
「あ、お帰り」
瑞希は、俺の気配を感じたのか、起き出した。
「あ、寝ててよかったのに」
「う~~ん、大丈夫…。遅かったね。混んでた?」
「いや、行ったらすぐに、診てもらえたから」
「そう」
「帰りにさ、デパート寄って来ちゃった」
「デパート?」
「ベビー用品売り場ってところに行って来た。すげえよ。可愛いものばっかで…」
「ずる~~~~い」
「あ、ごめん。今度一緒に行こう」
「それで?そこからタクシーで?」
「いや、電車で」
「大丈夫だったの?」
「ああ、うん」
「そう…」
「デパートの店員にさ、俺の赤ちゃんのものを見ていますって言ったら、すげえびっくりしてて。やっぱ、これじゃ、お父さんには見えないかな」
「そんなことないよ。圭介よりも、若い10代のお父さんだって、いるだろうし…」
「あ、そっか」
「それより、体の調子…」
「え?大丈夫だよ」
「ほんと?」
「うん」
瑞希の心配する顔をよそに、俺はベビー用品売り場でもらってきた、いろんなパンフレットを見始めた。ベビーカー、ベビーベッド、服。特に、ベビーカーには驚いた、いろいろあるんだな。
そして、そのベビーカーに、赤ちゃんを乗せて、散歩に行ったり、買い物に行ったりしているところを想像した。いや、叶わない夢なんだけど…。つい、空想してしまう。
それから、ベビーカーを押している瑞希のことも、想像してみたりした。
そんな俺のことを瑞希は、しばらく眺めていた。黙って俺のことを見ている瑞希は、やっぱり優しいあったかいまなざしで、俺のことを包んでくれてた。
瑞希の顔を見て、瑞希のおなかに手を当てた。
未来を思うより、今、目の前の瑞希と、おなかの子をこうやって、触れて感じているほうが、ずっとずっと大事だよな。そう思って、パンフレットは片付けた。