13 別れを告げる
6時になり、瑞希がかたづけを始めた。
「お疲れ様」
そう言って、席を立とうとしたから、
「あ、俺も帰るよ」
と慌てて、俺も帰り支度をした。ビルから出て、
「ご飯、食ってかない?」
と言うと、瑞希は、
「うん」
と、嬉しそうに答えた。
チクン…。胸が痛んだ。これから、別れを告げるために行くのに、瑞希が嬉しそうにしているのが、ずごく苦しかった。
でも、それを悟られないよう、さっさと俺は近くにあるビルの階段を下がって、お店に入った。
そこは、以前社長に連れてきてもらった店だった。店内は暗く、こういう別れ話をするには、よさそうな店だ。とてもじゃないけど、明るい店なんて行けそうもなかった。
店員が、1番奥まった席に案内してくれた。席に座り、注文をする。ご飯が終わってから、切り出そう。それまでは、なんとなく仕事の話をして、もくもくと食べた。
瑞希が食べ終わるのを待ち、コーヒーを頼んだ。コーヒーを店員が運んできてくれた。
俺は、薄暗い店内の中、ずっと、瑞希を見ていた。食べている瑞希も、話している瑞希も。
俺が、あまり話さないからか、瑞希も口数は少なかったけど、それでも、目の前にいる瑞希を、こんなに感じられるのも、あとわずかだって思ったら、愛しくて、すんげえ切なくなって、ずっと見ずにはいられなかった。
コーヒーを飲んでいる瑞希は、大人びて見える。瑞希はいつもブラックで飲んでいるけど、その姿は、いつ見ても色っぽかった。
何も話さず、こうやって瑞希を眺めていたい。もう、何も話すのはやめようかって思った。俺の病気のことは、すべて隠して、ずっと、こうして瑞希といられないものか…。
いや、入院したり、治療を受けたら、ばれるに決まってる…。
「俺、瑞希に話しておきたいことがあるんだ」
「何?」
瑞希は不安げな顔をした。
「うん、実はさ、親父とおふくろとも、話していたんだけど」
「何…?」
瑞希は、ますます不安げになる。
「…結婚、やめない?」
「え…?」
「瑞希の両親に反対されるのも、無理ないって、なんかおふくろもやっと冷静になって」
瑞希は、目を丸くして、黙りこくった。
「ああ、あのさ。俺もまだ、早いって言うか、もう少し独身でいたいっていうか…」
「…なんで急に?」
「一週間考えたよ。結婚は、はずみでっていうか、親に言われて、その気になっただけかなって。冷静になってみたら、やっぱ、早すぎるよ」
「…入院して、そう思ったの?」
「え?」
「だから、検査入院」
「それとこれとは別だよ!」
いきなり、検査のことを聞かれて、ついむきになった。
「でも、いきなりなんで?わからないよ、私…」
「……。だから、だからさ…」
どう言ったらいいんだ。どう言えば、1番瑞希は傷つかないんだ?いや、俺のことはいいんだ。どんなやつって思われても…。
「お母さんもなの?」
瑞希が聞いてきた。
「そうだよ。冷静になってみたら、結婚なんておかしいってさ」
ああ、おふくろも悪者だ。
「部長も?」
「親父も、そう言ってた」
親父もだ…。
「……。圭介もそう思うの?」
「うん。やっぱ釣り合わないよ。俺ら…」
「結婚、やめるだけ…だよね」
「え?」
「付き合っていくんだよね、これからも…」
…違うよ。瑞希、もう、別れるんだよ…。
「瑞希、他に相手探した方がいいよ。俺、いつ結婚なんて考えるかわからないから」
俺、もう結婚、できないんだよ…。
「……。本気?」
「本気…」
したくったって、できない…。
「本気?本当に?なんでこっち見ないの?」
瑞希…。ごめん…。俺は心とうらはらに、感情を押し殺し、瑞希をなるべく冷たい目で見るようにした。ただ、何も考えず、何も感じず、まるでロボットになったかのように、俺はすべての感情を消して、瑞希を見た。
「だから、メールもくれなかったの?」
「うん」
「だから、日曜も来なかったの?」
「うん」
「うちの親に反対されたから、それで?」
「それだけじゃなくて、いや。瑞希のお母さんの言うこと、もっともだなって…」
ああ、これじゃ、瑞希のお母さんまで悪者だ。
瑞希は、黙りこくった。黙ったまま、俺を見ていた。そして、大粒の涙を流した。やばい!俺の心が動揺する!
「もし、会社に一緒にいづらかったら、俺がやめてもいいし…」
「え?」
「俺のほうが若いから、どっかすぐに見つかるよ」
仕事なんて、もうこの先、できるわけないけど…。
「私、結婚そんなに考えてない。結婚ができなくても、圭介の隣にいられたらそれでもいい…」
瑞希、お願いだから。一緒にいられないんだよ。頼むから、それ以上、言わないで…。
「俺、悪いけど、もう付き合えない」
「え?」
ああ、もう俺、すげえ悪者になってもいいから。もう俺のことはあきらめてよ!
「俺、やっぱ、同じくらいの年の子の方がいい」
瑞希の顔が、曇っていく。どんどん沈んでいく。
「圭介、会社辞めなくてもいいよ…」
「え?」
「私が、辞める」
「でも…」
「私、圭介が隣にいないのに、会社にいけない。絶対に辛くなる…」
そう言うと、瑞希はポロポロ泣き出した。我慢の限界が来たのか、うつむいて、泣き出してしまった。
ちきしょう!
「先に出るよ」
そう言って、俺はレシートを持ち、金を払って店を出た。
どんどん、どんどん歩いた。頭の中には、瑞希の泣き顔がずっと消えなかった。
悔しかった。瑞希が泣いてても何もできない自分。それどころか、瑞希を泣かしているのは、俺だ。でも、このまま一緒にいたら、もっと苦しめる。
俺はもう、瑞希を悲しませたり、苦しめたりする存在でしかないのか?もう瑞希のことを愛して、大事にして、守ってあげられないのか。
悔しくて情けなくて、涙が出た。俺は道の真ん中で、泣き出した。止まらなかった。
でも、必死に歩いた。もし、瑞希が追いかけてきたら、こんな泣き顔を見られたら…。そう思うと、足を止めることはできなかった。
必死で歩いて、泣くのもこらえた。電車に乗り、家に帰った。
家に着くと、食卓には親父も兄貴も順平もいた。みんなで黙って、席に座っていた。暗く、重たい空気が流れていた。
まるで葬式だ。家族全員が暗い表情で、俺を見た。
「おかえりなさい。ご飯は…?」
「食べてきた」
「そう…」
「あ…」
「え?」
いっせいにみんなが、俺を見た。
「うん、瑞希と別れてきた…」
「……」
みんな沈黙した。それから親父が、
「そうか…」
と、一言だけ言った。
俺は、自分の部屋に行った。その重苦しい空気の中、いてもたってもいられくなった。
ベッドに寝転がると、瑞希の泣き顔が浮かんだ。浮かんでは辛くなり、頭から追いはらう。でも、また浮かんでくるの繰り返しだった。
瑞希はあのまま、店で泣いていたのだろうか。はたして一人っきりにして、大丈夫だったんだろうか。送らなくても、一人で帰れるだろうか。
次から次へと瑞希が心配になり、何度か携帯に手をやった。でも、そのたびに、
「もう、終わったんだ。もう、別れたんだ…!」
と、自分に言い聞かせた。
瑞希は、会社を辞めると言ってた。明日は?来るんだろうか。
会うのがすげえ、怖かった。このまま、会社に行くのをやめようとも思った。でも、心の中で、まだ瑞希に会いたいってそんな思いもあった。
複雑な気持ちのまま、俺はいつの間にか寝ていた。
翌日、定時を過ぎても瑞希は来なかった。社長に、瑞希は会社を辞めたのかを聞きたかったけど、聞けなかった。
瑞希は、とうとうその週、顔を出さなかった。社長も、何も言わなかった。
ああ。辞めてしまったのかもしれない…。このまんま、もう、瑞希には会えないのかもしれない。
自分で別れを決め、別れを告げたのに、瑞希に会えないのが、辛くって、苦しくって、おかしくなりそうだった。