二重生活が始まりました(1)
領地にあるマーシェス侯爵家の屋敷は高台にあり、二階のバルコニーからはかなり遠くまで外の景色が見渡せるようになっている。
そこから真っすぐ前方に見える大樹を眺めながら、旦那様と初めてデートをしたあの日のことを思い出していた。
大樹の成長と共にその地下ではダンジョンが成長を続けていることや、ダンジョンがとても不思議な空間であること、地下3階にはどういうわけか海があって沖にはクラーケンという大きなイカの魔物が出ること、だからここは海から遠いのにイカ焼きが名物だと旦那様が熱心に語るのを、さも初耳のように
「まあ、そうなんですの?」
「おもしろそうですわ」
と相槌を打った。
そのあと一緒にイカ焼きを食べた時も、初めて食べたという体で、しかも普段のように大きな口を開けてかぶりつくようなことはせずにお上品に食べた。
「この大樹はね、もうすぐ花が咲くかもしれないと言われているんだ。花が咲いたらまた二人で見に来よう」
そう言って甘く微笑む旦那様に、わたしも微笑み返した。
「はい。楽しみです」
しかしその時、本当は全く違うことを考えていた。
ダンジョンを完全制覇すれば初回に限り大樹に花が咲くというのは有名な話で、すでに踏破されているよそのダンジョンでも初の踏破者が出るとそれを祝うかのように花が咲いたという記録が残されている。
ダンジョンの成長は樹によってまちまちで、このマーシェスダンジョンは成長ペースがとてもゆっくりであるため、どこまで階層が広がればおしまいなのかすらハッキリしておらず、よそのダンジョンとの比較でおそらく地下50階で終わりだろうと推測されている。
大樹の花には不老長寿の効果があると言われているのはまあ眉唾物だとしても、一度しか咲かない花を見てみたいし、なんなら風に揺れて散る花びらを一枚ぐらい拾って押し花にして残しておけないだろうかと期待してしまう。
「花を咲かせるのは俺らだから。みんなで花見しながらイカ焼きを腹いっぱい食おうぜ」
「踏破できるといいですね」
「できるといいじゃなくて、踏破するんだよ」
旦那様に大樹の花の話を聞いた時に、ロイさんと交わした会話を思い出して胸がツキンと痛んだ。
その痛みは、冒険者としても男性としても慕っていたロイさんを失った悲しみと、結婚間近であるにもかかわらず他の男性のことを考えている後ろめたさの両方だったのだと思う。
だから、旦那様にも愛人がいるとわかった時にはお互い様だったのだとホッとした。
行方知れずとなってしまったロイさんと今後どうこうなるはずもないし、旦那様との婚約を了承した時点で捨てたはずの感情だったけれど、ふとしたことがきっかけでロイさんの顔や声を思い出してしまうのだった。
「奥様、本日のご予定はいかがなさいますか」
振り返ると、バトラースーツをカッチリと着こなす執事のハンスが無表情で立っている。
「図書室の観葉植物の植え替えをマックに手伝ってもらうことになっています。午後はいつも通りで、通常の執務の方はお任せします」
「かしこまりました」
軽く頭を下げたハンスは隙の無い身のこなしで去っていく。
彼は親子でマーシェス家に仕えていて、父親は王都の執事をしている。
領地の屋敷に常駐している使用人は執事が一名・メイド三名・料理人一名・庭師一名で、旦那様の家族が長期滞在したり特別な行事がある場合は王都の使用人が助っ人でやって来るほか、領民を臨時雇用して対応しているらしい。
結婚式の翌日に領地へ来たわたしだが、その日の朝食の席で「きみのことを頼むよう、向こうの執事にいいつけてあるから」と言われただけで、旦那様は送ってくださることはもちろんのこと、見送りすらしてくれなかった。
領地に到着して使用人全員に簡単な自己紹介をしてもらった後、執事のハンスに言われた。
「領地経営に関しましては旦那様のご命令より私に一任されておりますので、奥様を煩わせることはないと思います」
はいはい、つまり出しゃばって口出すんじゃねえぞって言いたいのね。
「もしも領民から直接奥様の方に何か要望があったとしても、その場で返事はなさらないようくれぐれもご注意ください。必ず私か旦那様に相談してみるとお答えください」
はいはい、何も知らん田舎者の小娘が安請け合いすんじゃねえぞって言いたいのね。
領地経営に口を出す気などさらさらないわたしは、ハンスの言いつけを全て了承した。
案内されたわたしの部屋は二階の廊下の奥で、日当たりの良いバルコニーからはマーシェスダンジョンの大樹が見えた。
ワードローブにはすでに服がぎっしりと下がっていて、ドレスのほかに普段使いのワンピース、ナイトウェア、それに侯爵夫人には似つかわしくないコットンシャツにカーゴパンツまである。
カーゴパンツはダンジョンへ行くにはうってつけの服ではあるけれど、なぜこれが…?
首を傾げていると、それに気づいたハンスが説明してくれた。
「旦那様のお言いつけで私が揃えました。奥様は土に親しむのがご趣味だと伺っておりますので作業のためのそういった服装もご用意いたしました」
土いじりが好きだと旦那様に言ったことがあったかしら。
まあ、なかったとしても釣書に趣味として書かれていたのかもしれない。
何にせよこれはありがたい!
「ありがとう。普段の身支度は一人でできるからメイドの手伝いは不要です。ドレスアップのときだけお願いします」
「かしこまりました」
次に、廊下の突き当りにある部屋へと案内された。
壁一面に立ち並ぶ棚にぎっしりと本が並ぶ圧巻の光景に息を呑んだ。
読書用のソファと窓際にはロッキングチェアもあり、観葉植物も置かれていてゆっくりくつろぎながら読書に没頭できそうな環境が整っている。
「読書も趣味であると伺っておりますので、この図書室はどうぞご自由にお使いください」
いやいや、そんな趣味はありません。
わたしはいつから読書家になったの!?
きっとこれも、正直に書いたら嫁の貰い手がないと踏んだ父が勝手に捏造したのだろうと思いながら、曖昧に頷いたのだった。