旦那様へのお仕置きを考えてみました(1)
バラ園は所々に吊るされたランタンの明かりで照らされていて、昼間よりもバラの香りが強く感じられる魅惑的な場所だった。
咄嗟に逃げてしまったけれど、どうしようか。
もうこのまま一人で帰ってしまおうか。
そんなことを考えながら前に足を踏み出そうとして、その奥から男女のクスクス笑いのような声が聞こえてきたために動きを止めた。
場所を少し間違えていたら、情事真っ最中の男女の目の前に飛び出していたかもしれない。
いっそ驚かせてやればよかったかしら。
わたしを置いて行った旦那様の腕に絡みつくようにしなだれかかっていた派手な女性の姿がフラッシュバックする。
高位貴族の夜会って、エロいことしか考えてない大人の集まりなわけ?
旦那様はどうしてこんな場にわたしを連れて来たのかしら。
自分の愛人をわたしに見せびらかしたかったの?
怒りがこみあげてきて、このままだとまたバラを萎れさせかねないと気づいて慌てて耳たぶを引っ張った。
熱い指先を冷ましながら落ち着けと言い聞かせる。
その時、突然背後に気配を感じた。
「ヴィクトリア」
この静かで低い声は旦那様のものに違いない。
ゆっくり振り返ろうとしたら、肩にまだ温もりの残るジャケットを掛けられた。
「冷えるだろう? というか、何で耳を引っ張ってるんだ」
わたしの顔を覗き込もうとした旦那様が奥の暗闇に目をやり、なるほどと納得したように頷いた。
「いいよ、出してしまえばいい。いけないことをしている大人にはお仕置きが必要だろ?」
ランタンに照らされた悪そうな顔までかっこいい旦那様は後ろから抱きかかえるようにしてわたしの手を握る。
いつも着けている手袋を外した素手だった。
旦那様の大きな手から痛いほどビリビリした刺激が伝わってきて制御がきかない。
ドン! という音と共にわたしの指先から放たれた衝撃波はバラの花びらを散らしながら真っすぐに前へと飛んで行き、奥から「うわあぁぁっ!」「きゃあっ!」という男女の悲鳴が聞こえた。
「逃げるぞ」
旦那様は、ジャケットの上からわたしの肩を抱いて走り出す。
「ちょっ……あの、今の大丈夫だったんでしょうか!?」
足がもつれそうになりながらも、悲鳴をあげた見知らぬ男女の安否が気になって後ろを振り返りながら問うと、旦那様は実に楽しそうに笑っていた。
「そうだな、尻に当たれば服が破けて大きな穴が開いているだろうし、頭に当たればハゲてるかもな」
「あははっ、お仕置きにはちょうどいいかしら」
悲惨なことになっているであろう姿を想像して、思わず大きな口を開けて笑ってしまった。
いけないことをしている大人にはお仕置きが必要——それって旦那様にも当てはまることなんじゃなの?
それに気づいたのは、逃げるように夜会を後にして二人で馬車に乗り込んだ後だった。
さっきは旦那様の力を借りて衝撃波を出したけど、あれってわたし一人でもできないかしら。
エルさんはイマジネーションが大事だっていつも言ってるわよね。
人差し指を立てて見つめながらイメージしてみる。
指先からドン!指先からドン!指先から……
「待て、何をやってる」
横から低い声が聞こえたと同時に、その人差し指を掴まれた。
「うわっ!」
また暴発するかと焦ったけれど、手袋をはめ直した旦那様の手からはさっきのようなビリビリは伝わってこない。
「馬車の中で魔法を使おうとしていただろう?馬が驚くからやめろ」
「いえいえ、わたくしの魔法が全然たいしたことないのは実家から聞いてらっしゃるでしょう?ただちょっとイメージトレーニングをしていただけですから。さっきの『お仕置きドン!』を自力で出せたらいいなあって。まあ、無理でしょうけどね、わたし土魔法以外は使えないので」
旦那様がプッと笑った。
「魔法に妙な名前を付けないでくれ」
そして手袋を外すと、わたしの手を包み込むように握った。
旦那様の手はエルさんのような熱さはないかわりに、ビリビリと痺れるような感覚が伝わってくる。
「素手で誰かに触れると静電気がひどいから手を繋ぐこともできないんだ。でもヴィクトリアは大丈夫そうだな」
わたしに直接触れるのが嫌なわけではなかったのね!?
旦那様が常に手袋をはめている理由に納得した。
そういえばロイさんもいつも革手袋をしていた。
大剣使いだからと思っていたけど、もしかすると旦那様と同じように素手では人に触れられないという理由だったのかもしれない。
「旦那様は、攻撃的な魔法がお得意なんですか?」
わたしの質問に、旦那様は首を僅かに傾げて微笑んだだけで答えてくれなかった。
「魔法はあまり好きじゃない」
こんなポテンシャルを持っていながらなんて贅沢な人なんだろうか。「得意ではない」ではなく「好きではない」と言うところが憎たらしい。
「魔法科への入学を説得するのが大変だったとお義母様から聞きました」
「ああ、そんなこともあったな。騎士科に進みたかったんだ。同級生たちと思い切り剣を交えてみたかった」
昔を懐かしむように、旦那様のアイスブルーの瞳は遠くを見ている。
「旦那様は、心が折れかかったご経験がありますか?」
魔法科を優秀な成績で卒業したと言う旦那様は、どんなことでも器用にそつなくこなしてしまいそうだ。
鈍くさくて何もかも上手くいっていないわたしとはあまりにも違いすぎる。
だから聞いてみたくなった。
挫折を知っているかと。
「あるよ。何度もある」
即答して苦笑する様子にわたしが目を丸くする。
容姿も家柄も能力も申し分なくて恵まれた環境で育ち、妻だけでなく愛人までいるこの人が何度も心が折れかかったことがあるだなんて、嘘でしょう?
それを見透かしたように旦那様が続ける。
「魔法科に進学しろと両親から強制されたこともそうだ。家出して冒険者になろうかと思ったが、ダンジョン案内人を騙る悪い男にぼったくられた挙句、それを親切に助けてくれようとした男まで実はグルで、なけなしの全財産を奪われて家に帰るしかなかった」
あらあら、旦那様にそんな過去が!?
今、マーシェスダンジョンでこういった悪行を厳しく取り締まっているのは、実体験があったからこそなのかもしれない。
「一人じゃ何も出来ないって思い知らされて仕方なく親の言う通り魔法科の進学を決めたんだが、その時に魔法科を優秀な成績で卒業したらその後はしばらく自由にさせろと約束したんだ。だから卒業後は就職もせず家業の手伝いもせずに何年も領地で剣を振り回して暴れまわっていた」
ぼったくられた話をしている時は目が座り気味で怖い顔をしていた旦那様が笑顔に戻る。
「それはさぞや目立っていたでしょうね」
「ああ、目立っていたな」
「とんだ放蕩息子じゃないですか」
「そうだな」
悪びれもせずに認める様子が可笑しくて思わず笑ってしまった。
そのまましばらく会話が途絶えて馬車に揺られていたのだけれど、ずっとわたしの手を握ったままの旦那様は、まるで優しく撫でるように親指を動かしながら何かを言うタイミングを計っているようだ。
「もしも何か行き詰ったことがあって心が折れそうになっているのなら、遠回りしたり一旦立ち止まってみても損はないと思う。ムキになればなるほど上手くいかないものだ」
さっきわたしが唐突に心が折れかかった経験はあるかと質問したものだから、旦那様は何かを察したのかもしれない。
ダンジョンの最下層に到達してラスボスに挑もうとしているが、あれこれ行き詰っているということを正直に話して相談できたらいいのに。
遠回りか……確かにもう急ぐ必要はないのかもしれない。
ロイさんはもう戻って来ないのだし、身バレの危機を抱えながらこんな風に綱渡りでダンジョン攻略を急ぐ理由が見当たらない。
黙り込むわたしを慰めるように、旦那様はずっとわたしの手を握り続けてくれた。




