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婚約期間はたったの二か月だった。
マーシェス侯爵家のほうは婚約手続きをすっ飛ばしてすぐにでも結婚を!という勢いだったのだが、さすがにそれはこちらが固辞した。
恥をかかないようそれなりの準備をして娘を嫁がせたいからその準備期間として三か月欲しいと父が主張したのに対し、マーシェス侯爵家のほうは一か月で十分だと言い、両者の間を取って二か月後に挙式となった。
その間に結婚相手であるロナルド様にお会いしたのは、たったの三回。
初めて会ったのは、わたしの家に婚約の手続き書類を持って挨拶にいらっしゃったとき。
スラっと背が高く、艶やかな栗毛と涼し気で凛としたアイスブルーの瞳が印象的な男性が、洗練されたしなやかな動きでまっすぐわたしの方へと近づいて来て、目の前で跪いたと思ったら赤いバラの花束が差し出された。
「ヴィクトリア嬢、私の妻になっていただけますか」
少し頬を紅潮させた甘い微笑みにノックアウトされたのはわたしだけでなく、わたしの隣にいた母も、後ろで控えていたメイドたちも同様で、その場にいた女性全員がロナルド・マーシェスに乙女心を鷲掴みにされた瞬間だった。
二回目は婚約が正式に決まった翌週、マーシェス侯爵家の領地を二人っきりで案内してもらった。
いわゆる「デート」というやつだったのだと思う。
領地の東側、ちょうど我が家の領地に近い位置に聳え立つ大樹があり、その木を中心に街が栄えている。
わたしたちはその街をラフな服装で歩いた。
ロナルド様のことを領主様の息子だと気づく者がいなかったのか、それとも皆さん生温かい目でそっと見守ってくれていたのかはわからないけれど、特別扱いされることもなく普通に買い物や食事を楽しんだ。
ロナルド様はエスコートも完璧だし、ずっとにこにこと笑っていて会話も楽しく、時間が過ぎるのがあっという間だった。
帰りの馬車では、疲れていないかと気遣いながらわたしの膝にブランケットを掛けてくれた。
女性慣れしているのは間違いないが、二八歳という年齢を考えれば逆に女性慣れしていないほうがヤバい。
だから、彼の恋愛遍歴は気にしないことにした。
三回目に会ったときは結婚式の打ち合わせをした。
わたしとの婚約が成立してすぐにロナルド様は家督を継ぐ手続きに取り掛かり、正式にマーシェス侯爵家の当主となったそうだ。
「いろいろと忙しくて会えなくてすまなかった」
ロナルド様がわたしの手を取り、指にそっと唇を寄せた。
領地のデートから一か月ほど空いてしまったけれど、その間も数回手書きのカードやプレゼントをもらい、その都度こちらも返事を書いて送るというやり取りをしていたため、実際に会うのが一か月ぶりだという気はあまりしなかった。
田舎者だと社交界で嘲笑されてロナルド様が恥をかかぬよう礼儀作法の再教育を受けていたため、わたしも何かと忙しかったというのもある。
この日、わたしはプレゼントで頂いた青いリボンで髪を結っていて、それを見せて改めてお礼を言うと、ロナルド様は「よく似合っている」と甘く微笑んでくれた。
突然決まった婚約、そして、ロナルド様のお父様のお加減が芳しくないという理由でせかされるように迎えた結婚式ではあったけれど、この人となら仲の良い夫婦になれると確信して、これから少しずつ愛を育んでいければいいと思っていた。
それなのに――。
初夜に「白い結婚」を宣告されたわたしはどうしていいかわからないまま、羽織っているガウンの前を合わせ、この雰囲気にはそぐわない透け透けのナイトドレスを隠した。
わたしのことを大事に愛してくださるだろうと思っていた旦那様は、顔を背けたままだ。
これまで素敵だと思っていたアイスブルーの瞳がとても冷たく寒々しい印象へと変わる。
理由を教えて欲しいと懇願したところで、この様子だとおそらく教えてはくれないだろう。
「きみは領地で暮らしてくれ。私は王都での仕事があるから、年の大半がこちらでの暮らしになる。夫婦で参加しなければならない行事のときは事前に知らせるからこちらへ来て同伴して欲しい。それ以外は、侯爵夫人としての振る舞いを逸脱しなければ自由に過ごしてくれて構わない」
なるほど、王都に愛人を囲っていらっしゃるということかしら。
羽振りのいい高位貴族ほど、夫婦それぞれに愛人がいるのも当たり前だと聞いたことがある。
まさか結婚早々…いや、結婚前から愛人がいたとはね。
おそらく平民か人妻で、結婚したくてもできない事情があるのだろう。
しかし病床の父親に早く身を固めろとせっつかれてやむを得ず、世間知らずで何でも言うことをきく「お飾り妻」になりそうな女性を探し、結婚式を無事終えるまではちやほやしてその気にさせたってことね。
だから結婚式での誓いのキスも唇ではなく額だったんだわ。
何もかも初めてのわたしを気遣ってくれているのだと思ったら、大間違いだったわね。
どうしてわたしなの?とずっと思っていた疑問が解けて、何もかもがストンと納得できるところに収まった。
うつむいたまま体を小刻みに震わせていると、旦那様の手が肩に触れてビクリとした。
「すまない。泣かないでくれ。酷いことを言っているという自覚はある」
無言のまま手を振り払ってベッドに潜り込むと、頭まで布団をかぶって体を丸める。
拗ねた子供をあやすかのように布団の上からポンポンと撫でられたが、それも無視し続けていたらやがて「おやすみ」という声と部屋の扉の開閉の音が聞こえた。
この日わたしは広い夫婦用の寝室の大きなベッドで、ひとりぼっちの初夜を過ごしたのだった。