物語No.46『ルビー』
ーールビーにとって、宝石だけが生きがいだった。
錬金術師の里では、親から捨てられた子供や特別な事情を持つ子供が頻繁に訪れる。
それは、錬金術師の多くが家庭を持つということに興味がない心境が原因している。
半数以上の錬金術師は研究に没頭し、恋というものとは無縁の世界で生きている。
錬金術師は錬金術にしか興味がない。
強大な力や超常的な研究に没頭するあまり、他人に意識を向けている暇は一秒もない。
周りの環境に渋々従い、研究に没頭している者も少なからずいる。だがいつしか彼らも研究以外に興味を失っていく。
錬金術師の里は血の繋がりが少ない。
多くが特別な事情を持った子供たちであったから。
ルビーもまた、特別な事情を持つ子供であった。
ルビーは元々現実世界で暮らしていた。
親から両腕で抱えきれないほどの愛情を受けて育ち、人一倍優しさと温もりを理解して生きてきた。
誰にでも優しく接することができた。優しさを知っていたから、優しさしか知らなかったから。
人間の人格形成は子供の頃に決まってしまう。
与えられた環境によって、子は善にも悪にも染まってしまう。
白紙に絵の具を垂らすように、子供に色が塗られていく。子供は色を選べない。
だから、一色しか与えられなかった子は知らない色に染められた時、生き方に迷ってしまう。
だから、それは少年にとって絶望そのものだった。
少年は不意に異世界の扉を開けてしまった。
唐突に、優しい世界は終わりを迎えた。
優しかった母の姿はどこにもない。頼れるたくましい父の姿はどこにもない。
暗く閉ざされた森の中で、少年は絶望の縁にうずくまるしかなかった。歩いても歩いても光明が見えない世界で、どうして生きられるだろうか。
涙を流しても恐怖が消えるわけじゃない。恐いと叫んでも涙が止まるわけじゃない。
でも、精神状態を保つにはそれに縋るしかなかった。
微笑んで、朗らかに、なんて気丈な振る舞いをできるほど心は成長していない。未熟な心は闇に侵され、異様に長い一日が経てば希望を持つことをやめていた。
幼い子供に突きつけられた世界は、ナイフのように鋭く刺さり、自分の姿を映し出す。
自分の心を弱さが嫌というほど思い知らされる。
夜空に輝く星だけが少年の憂鬱を晴らしてくれた。
でも、足りない。
食べ物もなく、水もなく、話し相手もいない。
星が満天に輝く夜空を見上げ、少年は死を覚悟したーーもし荒野に咲く一輪の花のように狐が現れなければ。
「吾は稲荷。世界最強の狐なのだ」
狐の耳を生やし、尻尾を生やした少女。
稲のような髪を揺らし、天真爛漫に現れた狐。
異世界での生活が二日を越え、今にも死にかけていた。
誰にも会わず、生きることさえ不可能だと感じられる世界でもがいた。
結果が今、笑顔満天の少女に出会う。
砕け散り、バラバラになった心は、突如として現れた少女稲荷によって継ぎ接ぎされていく。
「神様……」
「その通り。吾こそ、あの稲荷なのだ」
誰もがご存知の、と自信満々にその名を告げる。
だが異世界転移して数日の少年がそのようなことを知っているはずがなく、その名を聞いてもふにゃーと首を傾げるだけ。
「ななな、稲荷の名を知らぬのかっ!?」
「は、はい……」
「これまた世界が広いということが証明されてしまったのだ」
稲荷は腹を抱えて大笑いしている。
陽気な稲荷を影響され、少年の心にも少しずつ光が戻り始めていた。
少年は稲荷に信仰心にも近い感情を抱いていた。稲荷が自分の救世主であると信じた。
「ところでお前は今にも死にかけているな」
「自分でもよく分からないんですけど、気付いたらこの森の中にいて……」
饒舌に喋ろうとするが、乾燥した喉は言うことを利かない。掠れた声では言葉が届かない。
稲荷は尻尾から水筒を取り出し、少年に渡す。少年は恐る恐る水筒を開け、水をごくごくと喉を通過させる。
全身が潤い始めた頃、少年は再び話し始める。
「なるほど。お前、異世界転移したのだな」
「異世界転移ですか?」
「現実世界と異世界は繋がっているのだ。故に、時折現実世界の住人が異世界へ訪れることがある。つまるところ、お前はそれを経験してしまったというわけなのだ」
「帰る方法はあるんですか?」
「帰る方法……か」
稲荷は少年を躊躇う瞳で凝視する。
稲荷の目は少年の全てを知っているような色を含んでいる。今日初めて会ったはずの二人であり、当然少年は稲荷を知らない。
だが、稲荷は言う。
「お前は帰りたいのか」
「父さん母さんに会いたい。またあの頃みたいに戻りたい。皆で笑って楽しかったあの頃に」
あの頃みたいに。
その言葉が少年の全てを物語る。
「異世界に転移してしまう者の多くが現実世界からの逃走を願っている」
だが少年は現実世界を望んでいる。
稲荷が言ったこととは正反対の感情を抱いているはずだった。現実世界は逃げる対象ではなく、居たい場所であったことは確かだ。
もちろんそれを稲荷は理解している。しかし、
「幼い子供にはよくあることなのだ。周囲の環境によって自分の記憶を変えてしまうことは」
稲荷は自分に対して信仰心を持つ者の心や記憶、願いなどを見ることができる。
それ故に、少年が稲荷へ信仰心とも呼べる畏敬の念を抱いた瞬間に知ってしまった。
「お前は、親を恨みたくないから自分の記憶を封印した。結果、今のお前は空っぽになった」
少年は、理解できない、と首を傾げる。
「恨むなんて。父さん母さんは優しくて、たっぷりの愛情を注いでくれた。嬉しいことだよ」
「それがいつまでも続いていれば、お前は異世界に来ることはなかったのかもしれない。だがな、お前が今こうして異世界に来てしまったことは現実世界を嫌っていることを表しているのだ」
「違うよ。それは違う」
少年はひ弱な声で否定する。
稲荷はこのまま少年に全てを告げることに躊躇いを覚えた。知らない世界に転移して孤独に数日さ迷った上に、自ら封印した過去を思い出してしまえば心がどうなってしまうか分からない。
原型もとどめず崩壊し、二度と元に戻ることがなくなってしまうかもしれない。
「違うから、もうやめてよ……」
少年は小さく丸まり、耳を嫌なことから逃げるように耳を塞ぐ。
当たり障りもないことであれば、真顔で受け流したのかもしれない。
少しでも気がかりがあるからこそ、思い出してはいけないと本能が察知したからこそ、耳を塞がなければいけなかった。
稲荷は告げようとした言葉を飲み込む。
これ以上辛い思いをさせてしまわないよう、真実を告げることをやめた。
「少年、しばらく稲荷と散歩でもしようか」
「…………」
稲荷は少年の手を掴み、力を入れて引き上げた。釣糸に引っ掛かった小魚のように簡単に立ち上がった。
手は掴んだまま、森の外へと歩き出す。
一時間かけて森を抜けると、無数の鉱山が見えてくる。
「お前は人生で宝石を見たことがあるのか?」
「いえ、ないです」
無論、稲荷は少年の記憶を知っているため質問をする必要はない。
質問しないこともできたが、会話をするべきだと思ったから。
稲荷と少年は何時間もかけて、様々な鉱山を見て回る。種類豊富な宝石を見る度に、少しずつ少年の心に光が戻り始めた。
朧に一点を見つめる瞳は徐々に周囲の輝きを反射し、瞳を色づかせる。
「これだけ宝石があったら大金持ちだね」
「そうなのだ。でも宝石は錬金ギルドが管理しているのだから、宝石を取ってしまえば稲荷たちは捕まるのだ」
「でも誰が見てるの」
「誰も見ていない時もあれば、誰かが見ている時もある」
「じゃあ宝石を取ってもバレないかもね」
少年は宝石に目を奪われ、好奇心旺盛にはしゃいでいた。
疲れた少年をおんぶしてしばらく鉱山を歩き続け、錬金術師の里が見えてくる。
「稲荷はこれから世界中を旅しなければいけないのだ。稲荷はずっとお前を助けられない。だからお前はこれからあの場所で暮らしていくのだ」
「現実世界には?」
「稲荷はお前の過去を知っている。だからおすすめはできない。なんでかって訊かれても、お前が壊れてしまうかもしれない」
稲荷は最後まで隠すことにした。少年が封印した記憶を。
「稲荷はさ、どうして知らない世界に進もうって思ったの?」
恐いはずだ、自分がそうだったから。
「"変化"が欲しかったのだ」
「変わることは恐くないの? 変わってしまうことはきっと悪かもしれないよ」
「変わることは悪いことじゃない。むしろ勇気がいることなのだ」
稲荷は凛々しく言った。
自分の考えを迷いなく、堂々と宣言した。
自分の信念を貫くように、声に自分の積み重ねた自信を込めて。
「だからーー変わろうぜ、少年」
きっかけがなければ動き出せない人がいる。
救いの手がなければ、自分の過去を封印してしまうような子供だっている。
きっかけこそが救いであり、救われなければ永遠に孤独を抱えて終わる者だっている。
稲荷の言葉は、少年にとってきっかけであり、救いであった。
「分かった」
まだ十歳ほどの少年は救われた。
「ねえ、もし未来で立派な自分になれたら、その時は自分の過去を教えてね。その時までには受け入れられる強さを身につけるから」
「任せるのだ」
少年と稲荷は約束した。
「稲荷の旅は遥かに長いものになる。何年後になるか分からない。その時にはきっと君は変わっているのだ」
「じゃあ、」
と言って、少年は隠し持っていた赤い宝石を二つ稲荷に見せる。
片方を自分に寄せ、もう片方を稲荷に差し出した。
「捕まっちゃうのだ」
錬金ギルドに報告されれば拘束されることは間違いない。
稲荷は肩を魚籠つかせ、首を振る。
「駄目?」
つぶらな瞳で凝視され、断るに断れない空気に飲まれる。
稲荷は心の中で何度も、断るのだ断るのだ、と呟く。必死の抵抗を真っ向から相殺するように、愛しさが溢れ出る。
じっと視線を向けられ、稲荷は敗北する。
「分かったのだ。貰うのだ」
稲荷は渋々宝石を受け取る。
少年にとって、宝石は救いの気持ちを込めた贈り物でもあった。自分にできることは少ないけれど、自分にできることをしたいと思った。
「何年経っても、これが証明してくれる。また巡り会えるように」
稲荷は決めた。
またここに来ようと。何年後になっても、必ず少年に会おうと。
稲荷は宝石を朝焼けの空に掲げ、宝石の内側を覗き見た。宝石の中心には星形の輝きが朝日に照らされて浮き彫りになる。
「珍しいな」
受け取った宝石の美しさに見とれ、しばらく時を忘れていた。
「お前の人生もこの宝石みたいにキラキラしたものになるのだ」
「できるかな」
「できるのだ。お前は稲荷様と約束を交わした人間だからな」
稲荷は無邪気な笑顔で元気よく言った。
まるでお菓子を買ってもらった子供のように、表情には喜びや楽しさだけが詰まっている。
「お前に名を与えよう、と思ったが、それは少々荷が重すぎる。今のお前は変わったんだ。異世界での自分の名前ーー異名でも考えてみるのはどうなのだ?」
「異名……」
長い間考えていたが、すぐには思いつかないようだった。
「お前には憧れはないのか?」
「一番星になりたい」
夜が明けた空に星は一つも映らない。
「でも、朝になると遠くに行っちゃうんだ。どれだけ手を伸ばしても届かなくて、叫んでも返事は返ってこない。」
星が一つもない空を見上げて、少年は悲しげに呟く。
一人の夜はいつも、夜空が心の孤独を埋めてくれた。
「ーー憧れが側にいないのならば、自分が憧れになればいいのだ」
「……え?」
「お前が一番星になるのだ。稲荷が遠くに行っても帰ってこられるように、世界で一番の輝きを放つのだ」
見えないはずの一番星が空に輝くのを思い浮かべながら、少年は答える。
「約束だよ。また会おうね」
少年と稲荷は小指を交わす。
約束を果たすために、約束を交わす。
♤♤♤♤
ルビーは過去を走馬灯のように巡っていた。
封印した過去を封印したまま、あの日の狐を思い浮かべる。
だが約束は果たせない。その時は来ない。
もう一足早ければ、稲荷を救えたのかもしれない。今はもう黒焦げに染まっている。
言葉をかけても届かない。もう、届かない。
燃える大地に転がるルビー。
側には炎に包まれ既に絶命した遺体が転がっている。その体に手を伸ばそうとするが、側に立つ金髪の女性に手を踏みつけられる。
「何をしようと無駄ですよ。あなたの物語はここで終わりでしたか」
女性は短剣を握り締める右手を振り上げた。
次の瞬間、風を切る音とともに刃が振り下ろされる。
「ごめん稲荷……。ルビーは、約束守れなかったよ……」
刃は首に一直線に向かう。
死が近づく恐怖に飲まれる。やがて死を受け入れ、目を閉じる。
「ルビーは約束も守れない。これじゃ昔と変わってない……」
涙が落ちるような声だった。
ルビーの心が本心を叫んだ。
自分を愚者だと信じて疑わないルビーの声を、ある少年は振り払う。
「そんなことないんじゃないか」
剣と剣がぶつかり合うような、激しい金属音が響く。
空気を揺らすような残響が残り続ける中、炎の中に少年は現れた。
「お前は……誰だ!?」
「俺は琉球……、いや、こっちの世界だったら"零"と名乗るべきか」
琉球は剣を握り締め、女性の前に立つ。
「なあ真実、こんな夜中に何をしていたんだ?」
ルビーを襲った金髪の女性ーー真実は琉球の登場に動揺していた。
「分からないとは思うが、そこにいる女性は指名手配中の盗賊団カーバンクルの団長ルビーです」
「へえ、こいつがか」
琉球は一度振り返り、ルビーの顔をチラ見する。
顔は炎で所々焦げ、はっきりとは見えない。唯一、炎のように赤く染まる瞳だけがはっきりと見える。
「そこを退いていただけますか」
「いや、それはできない」
「なぜですか」
「お前もあの場にいただろ。三世が錬金ギルドに拘束された時、カーバンクルから事情聴取をしないと仲間だと疑われると」
「そうでしたね。しかし団員は他にもいます」
「だがこいつは団長だろ。だったらどの団員よりも信憑性があるんじゃないのか」
「そう思いますか」
真実はこれ以上の話は不要と感じていた。
その理由を明確にするため、真実は確信を持って問いかける。
「本当の狙いは何ですか?」
「狙い?」
「目的はそうじゃないでしょう。あなたはそこにいる女性がルビーだとも分からずに庇った。では今の話をする以前にあなたは私を邪魔する意志を持っていたと思いますが」
「さすがは"全てを知り得る彼女"の仲間だ」
「どういう意味ですか?」
真実は鋭い視線で琉球を睨む。
だがお構い無しと言いたげな振る舞いで言葉を紡ぎ続ける。
「色々考えたんだ。どうして三浦を何者かの手から解放したのに三世は暗い表情をしているのか。どうして三世は一人で何かを抱え込んでいるのか。相談してくれれば話に乗る。それが仲間だというのに、あいつはそれを選ばなかった」
だから琉球は理解した。
「困っていれば三世は必ず相談にしに来る。俺はあいつとの関係がそれほど進展したと思っている」
真実は話が読めず、終始不審な視線を向けている。
「だが相談しに来ないということは、相談することができない状況に置かれているのではないか、そう俺は判断したんだ。つまり、あいつは常に誰かに監視されていたのではないか」
全て推論であり、百パーセント事実と言える材料は揃っていない。
それでも、違和感は存在している。
「そして今朝、魔女は俺たちに言ったんだ。私は常にお前たちを監視している、と。そこで気づいたんだ。三世がどうして相談をできないのかを」
「分かりませんね。今の状況とは何一つ関係ないのではないですか」
「いいや、話はまだ終わらない」
と真実の強気な態度にも対応し、琉球は自分の推論を語り続ける。
「真実、あなたが俺たちに出会ったのは列車で偶然。だがもちろんあの時から魔女の監視はあった。だからあなたが居合わせることも不可能ではない」
「ーーーー」
「鉱山地帯での戦いの最中、三世がいなくなったことがあった。あの状況は誰も見ていなかった。魔女による転移魔法によって三世が移動させられた可能性が高い。しかしあなたは察知能力の強化などの魔法があったために、三世が消えればすぐに気付くのではないですか?」
「ーーーー」
「戦いに集中していたのかもしれない。もちろん証拠や根拠は何一つない。それでも、まだ一つあるんだよ。お前らにとってはただの個人の感想だが、俺にとっては何よりも根拠になることがあった」
琉球は三世と出会ってから長い。
三世の癖も、鬱になりやすいのも、人と話すのが苦手なのも全部知っている。
色々なことを知っているからこそ分かる。
「三世はお前をずっと睨んでいたんだ。三世が敵と見なしたからこそ、俺はお前に訊かないといけない」
琉球は剣を向け、真実に告げる。
「ずっと三世のことを見ていた。だから、自分の疑念を証明する根拠を見つけることができた。結果、俺は一つの結論を導き出せた」
琉球は真っ直ぐに真実を見つめる。
自分が導き出した答えを間違いであると疑いもしない確信を持った表情で問いかける。
「真実、お前は魔女エンリの仲間である」
「ーーーー」
真実は一度沈黙する。
唾が喉を通る些細な音が聞こえるほどの静寂が訪れる。汗が滴り落ち、地を打ちつける。
その音を食い散らすように、真実の背後に現れた彼女は満面の笑みでキスをするように呟いた。
「ーーおめでとう」
魔女は真実を包み込むようにして現れた。
即座に剣を握り直す琉球に対し、余裕の笑みで魔女は吐き捨てる。
「ーーでも、不愉快ね。決めたわ。あなたの命を何よりも一番に奪おうかしら」
魔女は呪い殺すような、殺意を込めた声音で呟く。
まるで、呪いのように。