物語No.35『契約は消えない』
三世の左手には魔女と交わした契約の刻印があった。
刻印がある限り、魔女は三世を見逃すことはない。どこにいても、魔女は三世を見つけ出せる。
「だから、あなたは私からは逃げられないのよ」
女剣聖の酒場ラヴァーズを出た三世の足は、石畳の地面に接地するはずだった。
だが現状、事態は違う。
三世の足は地につくことはなく、なにもないはずの空中にとどまった。
巨大なシャボン玉が幾つも浮遊する世界。
なにもないと思っていた三世の足場にはシャボン玉が発生していた。
「ここは私の創作魔法の一つでね、気に入っている世界なの」
魔女はシャボン玉の上に寝転がっている。
「ねえ三世、私の命令に従うつもりはないかしら?」
「嫌だ。お前はもうすぐ終わる。ギルドがお前を追い詰めて、終わらせるんだ」
「無理だと思うわよ。私は魔女、逃げようと思えばどこへでも逃げることができるのよ」
魔女は追い詰められているとは感じていないのか、以前冷静とした態度を保っている。
「だからあなたは私の命令に従いなさい」
三世は拒否する。
分かっていた、だから魔女は続けて言う。
「三浦友達を接続者狩りだと広めればどうなるでしょうね」
魔女はいたずらっ子が完全犯罪をするような笑みを浮かべるのに対し、三世の表情が強ばる。
三浦友達は笑顔を取り戻したばかりだ。
もし魔女が接続者狩りの正体を広めてしまえば、三浦は再び地獄に満ちた世界に堕ちてしまうだろう。
これ以上三浦に苦しい思いはさせない。
これ以上三浦に後悔を思い出させたくない。
「……分かった」
「つまり?」
「僕はお前の命令に従う」
「やっぱ君は良い選択を選ぶね。惚れてしまうわ」
「冗談でもやめてくれ。アイラブユーよりアイキルユーな気分なんだ」
殺気を纏った視線で魔女に視線を送る。
従いたくはない。だが、従わなければ大切な人が危険に晒される。
憎き魔女の協力をしなければならないことに、三世は怒りを隠しきれない。
話していることさえ嫌な状況であるのに、手も貸さなければいけない。
悪事への荷担だ。
三世は忘れていた鬱が再び蘇ったことを感じた。
鬱は不死身である。
思春期の心の不安定さに棲みつき、獲物が弱った瞬間を逃さない。
ーー絶望に染まっていくその表情、たまらなくいいわぁ。
魔女は紅潮する。
全身が飛沫を上げて弾けそうなほど。
「私が合図を出すまでは日常を楽しみなさい」
「絶対下克上が不可能な関係性……か。僕ではあなたを追い詰められない」
「分かれば良いのよ。もし逆らおうとしたり、私があなたに指示を出していることを誰かに打ち明けても、私はいつもあなたを見ている」
話せば接続者狩りのことは公表する、と暗示させる脅し。
三世は闇の中から抜け出せない。
魔女と契約したあの日から、三世にはいつも後悔がつきまとう。
「あなたはもう良いわ。お帰りなさい」
魔女の一言で三世は消えた。
ギルド街に戻っただけだ。
いつかまた魔女に呼び出される、その恐怖に耐えるしかない。
魔女は一息つき、ふと考える。
自分でした考え事に、自分自身で腹を立てる。
「まあいいわ。今の私は過去の私じゃないもの」
負のオーラ満載の表情を一掃する。
「今の私は最高よね」
魔女はにやける。
これからの自分のシナリオを想像するだけで、全身が濡れるほど興奮してまう。
「ライの奪還をしましょうか」
ライの潜在能力はこれからの魔女には必要なもの。
シナリオが失敗したとしても、ライの潜在能力があれば覆すことができる。
「でも、勇者がここまで優秀だとは知らなかったわ。さすがの私でも骨を折りそうだわ」
事実、第十区画で勇者と戦いを交えていれば、今生きていなかった可能性がある。
魔女は考える。
勇者がこれほど素早く、致命的な一手を下した。
やはり優秀、故に厄介。
「ギルド第三師団も追い出されちゃったけど、せめて第三師団は潰したいわね」
魔女には秘策があった。
ライの嘘によって存在を隠された人物。
魔女が師団長を務め、ライが副師団長を務めた。
つまり、ライによって第三師団師団長と副師団長が消失した。
では今どこに……。
「副師団長は手駒にする前に勇者に邪魔をされたが、師団長は既に私の手の中にいる。そうよね、真実師団長」
魔女の背後には自我のない女性が立つ。
金髪を揺らし、どこにも焦点が合わない黒瞳を潤わせている。
「VS勇者戦は五月六十日までに終わらせましょう。私が死ぬか、勇者が死ぬか、今回は一ミリの油断も許されない」
魔女は戦いを始めようとしていた。
勇者を倒す戦いを。