物語No.1『天使の契約』
人口十三万人の街がすっぽり埋まってしまうほど巨大な湖の中央に、天を貫くほどの巨大な樹が生えていた。
自然の壮大さを物語り、見る者は皆圧倒的自然の優美を思い知らされる。
人がどれほど技術を進化させても、届き得ない偉大さを有していた。
透き通る湖は、あらゆる者の心を洗い流すような美しさを秘めている。
そんな湖の底へ沈んでいく、黒い影があった。
深海の底よりも漆黒色をした髪、純黒の瞳を持つ少年。
ーー指が動かない。声が出ない。
薄目を開き、自分が湖の底に沈んでいくことを理解した。
ーー息ができない。意識が遠退く。
地上へ出ようにも、制御不能の身体は停止したまま動かない。
ーー死にたくない。死にたくない。
迫る死に抗おうとしても、全身が役目を終えようとしている。
彼の人生は終わる。
湖の底で、彼は自分の死を悟った。
避けられない死を前にして、終わりを迎える運命を前にして、少年は死を覚悟するーーかと思われた。
だが少年は心の中で叫んだ。
ーー生きたい、と。
少年は死ねない理由があった。
真っ先に思い浮かぶのはある二人の人物。二人は少年の同級生で、よく三人で集まっていた。
一人は口数が少なく、引っ込み思案な性格であり、お伽噺が好きな少年。
一人は自分を可愛いと自負している可憐な少女で、先の少年とはよくぶつかり合う少女だ。
二人は仲は良好ではなく、いつも彼が二人の関係の橋渡しを担っている。
あの頃の日常を失いたくない。
自分がいなくなれば、あの二人がどうなってしまうのか容易に想像ができた。
ーー死にたくない。死にたくない。
生きたいと、彼の魂は叫んだ。
だから、彼女は彼を見捨てなかった。
海の底で、松明の火を何万本集めても届かない輝きを放つ光が、彼の目前に出現する。
光さえ届かないその場所に、あらゆる法則を無視して眩しいほどの輝きが現れ、湖は純白に満たされる。
現実では考えられない現象を見て、少年は目を奪われた。
ーーなんだ? 神様が俺を迎えに来たのか。なんて綺麗な幕引きだろうか。
あの世での見上げ話ができたと、少年は意気揚々と笑って見せる。
少年は純白の輝きに向かって手を伸ばす。
動かなかったはずの右腕が、今では不思議なほど動く。
喋ろうと思えば喋れるし、視界だって明瞭に透き通っている。
「お前には、生きなければいけない理由があるのだろう」
突如、声がした。
湖の中で、振動もなく、耳から聞こえるわけでもなく、脳内に直接語りかけるような。
女性の声のようだ。
声の主は、やがて少年の前に姿を見せる。
湖を照らす輝きを放つ白い髪は腰まで届き、吸い込まれるような底無しの白眼を持ち、背中には神々しい右翼を無数に生やしている。
左に羽はなく、アンバランスな容姿だ。
胴体は、服を着ているか分からないほどの輝きに包まれている。
「あなたは……」
「私は、アマレイズ」
穏やかで、ゆっくりと丁寧な喋り方。
どこか懐かしさを覚える、聞き覚えのある声でもあった。
「お前はまだ生きたいか」
「俺は、生きたい。まだあいつらと、一緒にいたい」
少年は頑なに生きようとした。
アマレイズ、そう名乗る者は少年の瞳をじっと見つめる。少年は目を逸らさず、見つめ返す。
アマレイズは、面白い、そう言って笑った。
口調は穏やかながらも、アマレイズは続けて言う。
「この先、あなたには地獄が訪れるかもしれない。胸の奥が締めつけられて、味わったことのない憂鬱な思いをするかもしれない。心も身体もぐちゃぐちゃになって、逃げたしたくなるかもしれない。全部を捨てて、全部を見ないふりして、あなたは一人で死にたくなるかもしれない。
ーーそれでも、私との道を選んだからにはそれは許されない」
脅すようにアマレイズは告げる。
少年は数秒悩むーーわけでもなく、自分の気持ちを吐露し始めた。
「俺は誰かが笑っているのを見るのが好きだ。俺はまだ、ちゃんと笑わせられていない奴がいる。あいつの笑顔が見れるなら、俺はどんな世界にだって飛び込んでやる」
彼の答えを聞いて、アマレイズは満足そうに頷いた。
「ーー知っていた。お前がどんな人間で、これからどんな未来を歩み、どんな顔をするのか」
アマレイズはじっと少年に視線を送る。
今度は鋭い眼光で射抜くように。
「私はお前の未来も全てを知っている。だからこうして、私はお前の前に現れ、命を救おうとしている」
アマレイズは沈むように少年のもとへ近寄り、
「これは約束だ」
アマレイズは、少年の手と自分の手を重ね合わせた。
お互いの手が触れ合う場所は徐々に輝き始める。
「何度でもお前を救ってやる。だからいつか、私を助けてくださいね」
最後、アマレイズは静かに微笑んだ。
その笑顔が、少年の頭の中からは忘れられない記憶となった。
やがて莫大な光が湖を埋め尽くし、静かに飛散した。
光に埋め尽くされる直前、二人の声がした。
溺れた自分を助けに来たのではないだろうか、そう考えて、
ーー意識を失った。