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酒をあらかた飲み尽くし、肴もなくなった頃、レイはギガースに尋ねた。
「今何時くらいかな?」
「少し前に深夜の鐘が鳴ったと思うが」
五本の酒瓶のほとんどをディーンと二人で空けた巨漢が、冷静な口調で答えた。
酔いが回ったのか、心地よい浮遊感に包まれていたレイは、慌てて立ち上がる。
外套と剣を探して身につけ、口早に告げた。
「もう帰らなくては。深夜前には戻るように言われていたのを忘れていた」
「ほぉ。おまえでも約束を破ることがあるんだな」
「馬鹿者。ここまでつきあわせたのはおまえだ」
うっすら桃色に染まった目元で、能天気な少年を睨む。
ディーンは杯に残った葡萄酒を飲み干すと、ふらつく様子もなく立ち上がった。
「では、お詫びに送っていってあげよう」
「別に見送りなどいらん。子供ではあるまいし、帰り道なら分かる」
「バーカ。誰がわざわざ見送るんだよ。酒を買いに行くついでだ」
さっさと前言を撤回して、ディーンは黒い革の上着を羽織った。
髪を切り、けばけばしい装身具もなくなった彼だが、それでも両耳に計五つの耳飾と指輪をいくつか、それに首飾りはつけている。
――相変わらず妙な格好をする奴だ。
レイは思い、ふと彼の言った台詞に気がついた。
「おまえたち、まだ飲むのか?」
「当たり前だろ。ギグなんて俺の倍は飲るんだぜ。これからだよ、これから」
軽く答え、ディーンは戸口へ向かう。九曜が陽気に声をかけた。
「送り狼にならないでね~」
ディーンは顔をしかめて仔猫を睨むと、怪訝そうなレイを促す。
「ほら、行くぞ」
「オオカミとはなんのことだ?」
「おまえは知らなくていい」
喋りながら出て行く二人を見送り、九曜はふう、と息をついた。
その様子を黙って眺めていたギガースが、ひっそりと微笑する。
「あいつは、レイを……?」
「みたいだね。いまいち自覚が足りないみたいだけど」
「ふ……なるほど。奴が変わった理由が分かったような気がするな」
「変わった?」
ギガースは手にしていた清酒の杯を干して、ゆっくりと言葉を選んだ。
「口で言うのは難しいな。強いて言えば……人間らしくなった、というべきか」
「言い方ひどくない?」
「前のあいつならば、俺に会っても、自分から進んで泊めようとはしなかっただろう。冷たいというのではなく、自分の意志を貫くために人助けをすることもあるが、積極的に他人とは関わろうとはしないのが奴の生き方だったはずだ……今まではな」
「うーん。分かるような……」
「確実に、自分の領分と他人の領分を分ける奴だったはずなのだ。それなのに、俺の仕事を知りながら奴が同室を申し出たというのは――」
「それは僕も気がついてた。自分から首を突っ込むというより巻き込まれるタイプだから、変だなとは思ったんだけど……そっか。なるほどね」
「それから、もうひとつ」
酒瓶に残った葡萄酒を一滴残らず杯に注ぎ入れ、珍しく饒舌なギガースが続ける。
「おまえたちの話では、ディーンが最後までレイを女だと気が付かなかったということだったが――」
闇色の瞳が、ちらりと炎を帯びた。
「本当に、そうだろうか?」
「どういう意味さ?」
鋭く仔猫が問い返す。ギガースはゆっくりと酒を舐めつつ、
「考えてみろ。奴は……セレスディーンは筋金入りの女好きだ。それが、危険な任務に一人で向かう男に同情して同行したとは考えにくい」
「あのねぇ」
「奴は詮索を嫌う。するのもされるのも、だ。加えて、女性や子供――いわゆる社会的弱者にめっぽう弱い。つまり、資格こそないが、奴の性根は剣士なのだ。貴族風に言えば〝騎士道精神〟というやつだな」
「まさか……」
九曜が顔色を変えた。
「最初から知っていて黙っていたってこと?! そんな――」
「充分有り得る。九曜、おまえもあれだけ一緒にいて、奴が気付かないとは変だと思っただろう?」
「うん。だけど知っていることを隠すなんて、そんな器用なことをディーンがするかな?」
「確かに策謀向きではないが、彼女であれば、たいして女だということを意識せずに済んだだろう。本人も精神的には男と同列だと思っているからな。剣の腕も確かなものだ」
「そう……かもしれない。だけど……じゃあ、ディーンはなんで悩んでたのさ?」
その問いに、ギガースはわずかに表情を曇らせた。
「奴は、レイが男であることを望んでいたのかもしれんな――」
「え……?」
呟くような男の一言に、九曜は首を傾げた。
知識は豊富でも、複雑な人間の心理は彼の理解の範疇にない。
「だってディーンは筋金入りの女好き、なんでしょ?」
ギガースは刺青の施された顔に、なんともいえぬ笑みを浮かべた。
「だからだ」
そう答え、残りわずかな酒杯を傾けた。
九曜はもう一度大きな息を吐いて、暗い窓を見上げる。
いつのまにか霧のように降り込めた雨が、窓を叩き、夜の闇を濡らしていた。
*
街の灯りを頼りに暗い道を行く二人は、他愛のないことを喋りつつ、リューン総督府へと向かった。
「輝破矢、ずっと持ってるんだな」
「ああ。聖宝奪回の褒美に頂いたんだ」
「そうか。金の代わりにそっちをもらうっていう手があったな」
「馬鹿者」
他の古五王国に配備されている総督府と違い、リューンのそれは大神殿と共に市街のほぼ中央にあり、大公の宮殿と首都を二分する規模を誇っていた。
人気のない、よく整備された石畳の通りを行く二人の頬を、突然冷たいものがかすめる。
「……雨だ」
「あの木に走ろう」
突然振り出した雨に、二人は通りの間に立つパムの大木の下へ駆け走った。
「困ったな。もう少しだというのに」
髪や服から雫を払い、レイがぼやく。ふと、ディーンがその横顔を見つめた。
「何だ?」
「いや。やっぱり似合うな、と思ってさ、その髪」
レイは戸惑うように、この半年で肩先まで伸びた髪に指を触れた。
雨に濡れた癖のない銀髪は、街灯の明かりできらきらと不思議な輝きを放ち、彼女を彩っている。
「やっぱり伸ばして正解だな。俺の見立ては正しかっただろう?」
以前レイに、髪が綺麗だから伸ばせと勧めた少年は、満足気に言った。
彼の言いなりになったようで気に食わないレイは、むっとした顔で話を逸らす。
「おまえこそ伸ばさないのか? 前みたいに」
「途中がおさまりつかなくてな。面倒だからやめた」
答えて、ディーンは癖のつよい黒髪をかきあげた。
ぱら…と、雨の雫が散る。
それを見ながら、レイは、彼が半年前よりもずっと背が伸びていることに気がついた。
こころなしか、体格も厚みが増した気がする。
レイ自身も背が伸び、ディーンとほとんど変わらない高さなのだが、以前のように体付きまでそっくりというわけではなかった。
――なんだか……変だな。
どこか少しずつ、前とは違っている。
何となくその事実を受け入れたくなくて、レイは気持ちをごまかすように、半年間の疑問を口にした。
「ディーン。その、最後のあれ……は、一体どういうつもりだったんだ?」
「ただの挨拶に決まってるだろ」
即答で返され、レイはしばらく言葉が出ない。
「わざと……なんだな?」
それを聞いて、驚いた顔をしたディーンは怒ったように答えた。
「あったりまえだろ。まぁ、野郎にはしねぇけどよ」
「あ……そうなのか……」
世間一般に疎いだけに、そう言われてレイは納得してしまう。
最初に出会ったテス州を去る時も、ディーンが知り合った女性と〝挨拶〟していたのを思い出し、
――まあ一応女として扱ってくれた、ということなのかな……?
などと考え、そこでようやく重大な事実に気がついた。
一段と暗い表情になるレイをディーンが覗き込む。
「……レイファス? 腹でも壊したか?」
「こぉの――史上最低の大馬鹿野郎っ!!」
血相を変えて、レイはディーンの胸ぐらを両手で掴み上げた。
「おまえなぁ、わたしは……わたしは、初めてだったんだぞっ!!」
「は?」
一瞬何のことか分からなかったディーンは、その意味に気付いて、ぽん、と手を打った。満面に笑顔を浮かべる。
「それはよかった」
「な~に~がぁ、よかった、だっ!!」
「まあ、そう照れるなって」
「違うっ!!」
怒りの収まらないレイを、くすくす笑ってディーンがかわす。胸ぐらを掴む手を逆に取り、
「再会の挨拶でもしようか?」
「断る!!」
「……そんな力いっぱい嫌がらなくってもいーのに」
レイはその手を払いのけ、まだ薄く紅の残る相手の頬をぎゅっと摘まんだ。
「ついさっき会ったばかりの女とするような挨拶など、わたしはごめんだ!」
「いでででで……これは不可抗力だったんだってば」
「男のくせに言い訳がましい!」
ぴしり、と決めつける。
頬を摘まれたまま、ディーンは首をねじって逃れようと空を仰いだ。
「……あ」
「何だ?」
「雨が小降りになってきた」
思わずレイは、手を放して周囲を見渡す。
街灯の光を浴びて、まるで銀の糸がしたたり落ちてきているような夜空だった。
その繊細な雫を手のひらに受け、レイが呟く。
「今なら行けそうだな」
「――走るぞ」
ディーンが、上着を傘のように二人の頭上に広げた。
石畳に溜まった雨水を蹴散らし、二人は総督府までの道のりを一気に走る。
総督府の裏手にある通用門に辿り着くと、レイは足を止め、ディーンを振り返った。
「もうここで大丈夫だ」
摘んで赤くなった彼の頬を、指先で撫でる。
「あんまり飲みすぎるなよ」
「ああ。……なあ。レイファス、明日の夕方出てこられないか? 曲技団を見に行こうぜ」
「わたしは遊びで来ているのではないのだぞ?」
呆れ顔になるレイに、ディーンは悪戯っぽく笑った。
「その仕事に役に立つかもしれないぞ?」
「どういう意味だ?」
「詳しいことは明日教える。夕の刻、[樫の木亭]で待ってる。いいな?」
言い置いて、ディーンは上着を羽織り直す。
ば…っと、水滴が跳ねた。
上着はもちろん、彼の背中や腕もびっしょりと濡れている。
「んじゃなっ」
「……あ」
レイが声をかける間もなく、ディーンは夜の雨の中へ走り去った。
「まったく……あいつは落ち着きのない」
ため息と共に呟いて、レイは上げかけた手を下ろす。ふと、自分の体がほとんど濡れていないことに気がついた。
――そんなに強い雨じゃなかったのかな? だけどディーンはあんなに……。
自分を庇うように上着を掲げて走っていた彼の姿が、瞼をよぎる。
レイは肩先にかかる銀髪をちらりと眺め、背へ払うと、総督府の中へ戻っていった。
石畳をうつ雨音だけが、無人となった通りを満たす。
それはやがて、かすかなささめきとなって遠退いていった。




