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ほんのりと空が朱金の光に滲んでいる。
次第に影となっていく街並みを、ディーン・グラティアスは歩いていた。
冴えた外気に上着の襟元を片手で詰める。
「寒っ……」
あらわな首筋を冷たい秋風が撫でて過ぎ、彼は思わず身をすくませた。
多少褪せてはいるが、日に焼けた浅黒い肌。ざんばらに伸ばしたくせのある短い黒髪。
大刀を帯び黒の上下に身を包んだ姿は、リューンであっても異邦人というより、どこか南の地方やティシス海の島の住民に見える。
リューン語は片言しか喋れないが、旅慣れているだけに流暢な統一言語と人懐こさで、彼はすぐに風土に馴染んでいた。
吹き抜けた風にもう一度体を震わせたディーンは、エール水売りの屋台を見つけ、駆け込んだ。
「一つ熱いのを頼む」
十オン銅貨を籠に入れ、店の親父から陶瓶に入った温かいエール水を受け取る。
生姜のきいた、ほのかに甘い香りの漂う乳白色の液体をすすりつつ、ディーンは通りを眺めた。
夕方もまだ早いというのに、人通りはあまり多くない。
火を入れたばかりの街灯が淡く辺りを照らす中、肩を寄せ合い、数組の男女が歩いている。
――けっ。
内心舌を出した彼は、ふと、そのうちの一人の少女に眼を惹かれた。
特別な美人というのではないが、細身の怜悧な雰囲気が、かつて知り合った少女によく似ていた。
住む場所も身分も違うその人と、もう逢うことはできないと分かっている。だが、それでも思い出さずにはいられない自分に、ディーンは深い嫌悪感を抱いた。
少しぬるんだエール水を一息に飲み干し、陶瓶を返して店を出て行く。
大通りを東へ曲がると急に人が増え、行く先から来る通行人が群れをなして押し寄せてきた。人々の来る向こうから、風に乗ってかすかに音楽が聞こえる。
次第に多くなる人の流れに逆らって進んだディーンは、公園に建てられた巨大な天幕に辿り着いた。
八角錐の形を成す天幕のてっぺんには、大きく〝東国曲技団 ウー・リン一座〟と書かれた旗がひらめいている。人々は、その中から出てきているのだ。
どうやら夜の部の公演が終了したところらしく、濃い化粧をして羽飾りをつけた団員たちが入口に並び、笛や歌声とともに客を見送っている。
――曲技団か……。惜しいことしたなあ。
東国カルディアロス出身の彼は、故郷の懐かしい言葉と音楽とに魅せられて、天幕の周りをぐるりと見て回った。
技芸の盛んな首都ラサでは毎日のように各所で舞台が催されており、券の買えないディーンは、悪友たちとこっそり裏口から忍び込んで覗き見ては、団員たちにつまみ出されたものだ。
それでも分厚い帳の隙間から垣間見た舞台の華やかさや興奮は、今なおはっきりと目の裏に甦る。それは一時期真剣に舞台に立つことを目指していたからこそ、なおさら鮮やかに焼きついているのかもしれなかった。
巨大な円舞台が設置された会場にはすでに客の姿はなく、舞台道具もあらかた仕舞われている。
どうにかして曲芸の練習でも見られないかと裏手へ進んだディーンは、天幕の一画が開いているのに気がついた。
――ラッキー。
喜んだディーンは、眼を輝かせて天幕の中へ忍び入る。
大勢のざわめきと熱気が奥から漂ってきた。汗ばんだ人の体臭と動物の臭いが入り混じり、つん、と鼻をつく。
――お、やってるやってる。
まだ見習いなのか、ディーンの半分くらいの年齢に思える幼い少年少女が、片隅に置かれた台の上に片足立ちで平衡を保ったり、寝転んで足の先で壺を回したりしていた。
昔故郷で見た曲技団のすばらしい技芸を思い返し、ディーンはすっかり子供に戻った気分で、その様子に見入った。
と、ふいに。
「――こら! そこで何してるんだ、おまえ!」
野太い男の声がして、誰かが彼の肩をむんずと掴んだ。
咄嗟に、その手をとってひねり上げ、体を沈めて肘打ちを放つ。
見事鳩尾に決まり、よろめく相手を投げ飛ばしたディーンは、だが、駆けつけた別の二人に背後から両腕を取られた。
「ちょ、ちょっとぉ……」
狼狽する少年を無視し、男たちはディーンの腕を後ろに回すと、地面にねじ伏せた。
肩を掴む男たちの腕には、何の模様か色鮮やかな刺青が這っている。
――ひー。
悪気はなかったにせよ、勝手に入って覗いていたのだから不審なのはこちらの方なのだが、それだけで首と胴が別々になったりするのはごめんだ。
冷や汗をかく彼の前へ、騒ぎを聞きつけた一座の者たちが現れた。
『ロウ、ホアン。一体どうしたの?!』
赤い紗の着物をまとった若い娘が、異国の言葉で捕まえる男たちに問う。
警戒の視線を浴び、困ったディーンは、極上の愛想笑いを浮かべた。
『どうも、今晩は』
*
天の灯火に代わり、街灯が照らすオファリスの中央通りを一人の少年が歩いていた。
狐皮の膝丈の外套に毛織の白い上着。青褐色の洋袴に革の長靴。腰には見事な白銀の剱を提げている。
一見少年剣士といった風情だが、外套の頭巾から見える色白の面差しは冴え冴えと整い、道行く人は皆振り返らずにはいられなかった。
彼――いや彼女、レイファシェール・セジェウィクは、二日ほど前にこのリューンを訪れたばかりだった。
兄の手伝いという名目でやってきたレイだが、帝都貴族という身分もあって自由のきかない中、警護と称する監視の目を盗んで一人市内へ出かけ、こうして戻る途中なのだ。
男装の少女の不思議な美しさに人々の視線が集う中、それを気にしないように努めつつ、レイは総督府への帰り路を急ぐ。
――どうやら徒労に終わったようだな。
このオファリスをはじめとした首都近郊の町や村で、旅人が立て続けに失踪するという事件を調査するため、彼女らは帝都からわざわざ出向いているのである。
しかし、いかにリューンとの結びつきが強いとはいえ、たかが失踪事件で帝都が乗り出すのもおかしな話だ。
実は、灰の月初めに行なわれる収穫祭には、リューン大公夫妻をはじめとする各国の要人たちが一同に会する。そこで諸国と穏便にやっていこうとする現皇帝の立場と合わせ、面倒事はなるべく早く片付けておきたいという考えなのだ。
そして、その裏にはもうひとつ理由があった。
統一世界を護る聖母の視たところによると、首都オファリスを含めたリューンの一地域に、得体の知れない魔力の雲がかかっているという。
次第に濃く強くなるそれに懸念を抱いた聖母は、半身と称されるルークシェストに探索を命じた。そこで彼は、その辺り一帯で起こっている旅人の連続失踪事件に目をつけた、というわけである。
連続事件とはいうものの、失踪の対象はリューンの短期滞在者で、国籍も失踪した場所もばらばら。ただ一点、全員十代から二十代の若い女性という事項のみが共通していた。
失踪の被害者が国内の人間でないこともあり、リューン警察局はあまり乗り気でないが、[大災厄]以来貧困者が激増し奴隷の闇取引が問題となっている時勢だけに、人身売買組織がからんでいる可能性も考慮され、捜査は大がかりなものとなった。
だが、何ら解決の糸口さえ見つけられないまま、すでに二ヶ月が経過している。
焦燥のつのる兄を見かね、妖魔と戦った経験のあるレイが協力を買って出たわけだが、果たして戦力になっているかというと、それは否と言わざるを得ない。
――それにしても、この奇妙な静けさは何だ……?
レイは銀色の眉をひそめ、わずかに辺りを見回した。
発現して間もないため、充分に法力を行使することはできないが、それでも感応者であるレイは、街に漂う異様な雰囲気を敏感に察していた。
――と。
突然、巨大な力がこちらに向かって近付いてくる。
はっと身構えたレイは、石畳を飛び跳ねるようにしてやってくる、白い小さな生き物に眼を丸くした。
「く……九曜?!」
「うにゃんっ」
もっともらしく鳴き声をあげて飛びついてきた仔猫は、今春の事件で出会い、共に旅をした妖魔であった。
レイはぐるぐる、と喉を鳴らす仔猫を胸に抱きとめ、小声で尋ねる。
「どうしておまえがここに?」
《旅の途中だよ。あれからムーア大陸を北上して、西へ向かったんだ。オファリスには三日前に着いたんだよ》
あくまでも仔猫を装い、白い妖魔は少女の腕の中で魔力を使って答えた。
「そうか、偶然だな。私も二日前にオファリスへ来たばかりだ」
《ひょっとして……この妖気と関係ある?》
少女は、強大な魔力をもつ仔猫の慧眼に苦笑した。
「さすがだな、九曜」
《さすが、なんてものじゃないよ。ここの空気は奇妙すぎる》
「そのようだな。まさか、おまえもそれで……?」
《冗談。ディーンがどうしてもリューンの収穫祭を見るっていうから、仕方なく来たんだよ。僕としてはなるべく近付きたくはなかったんだけどね》
愚痴めいた妖魔の台詞に、レイの顔がほころぶ。
「いかにもあいつらしい。……そうか。やはりディーンと一緒なのだな」
《そう、べったり。もぉ、やんなっちゃうよ。それにさ、今回は寝台も一緒なんだよ? 男と一緒なんて最悪ぅ~》
「向こうも同じことを言っていそうだが?」
《まさか。だいたい、そうなったのはあっちの責任なんだからね!》
ぷんぷんと怒り出す仔猫に思わず吹き出し、レイはあたたかな気持ちに満たされた。
こうして話していると、まるで別れた半年前に逆戻りした気がする。
少女の胸に抱かれたまま、九曜は鼻先で揺れる銀髪を眺めた。
《随分伸びたねぇ。よく似合うよ》
「ありがとう。……その、ディーンは――?」
尋ねかけ、レイは彼との別れ際の情景を思い出して、言葉をつめた。
偶然かわざとか、ディーンに唇を奪われた形となってしまったレイは、それをどうとったものか困惑していた。
彼からは男として告白された、とう前歴もある。
ディーン自身からそれは冗談だと告げられはしたのだが、レイにとって彼は単なる旅の仲間とも言い切れない複雑な立場にあった。
そのことをよく知る九曜は、だがさして気にしたふうもなく答える。
《ディーンならぴんぴんに元気だよ。あ……ねぇ、レイ。僕たちの宿に来ない?》
「今から?」
《うん。ディーンももう戻っている頃だろうし、それにね、おもしろいやつと相部屋になったんだよ。一応やつら、と言うべきなんだろうけど……。とにかく一度会って欲しいな》
「そうだな。少し寄り道をしてもいいのなら」
《別にいいけど、どこに?》
「総督府。兄へ言付けておかないと、心配する人がいるものでな」
レイは、案じ顔で見送っていた朱金の髪の女性を思い起こし、ほろ苦く笑った。
どうも幼い頃から彼女に勝てたためしがない。
――あの言動が全部心配のためだけに、余計に困る……。
ため息をつきつつ、レイは九曜を左肩に乗せると、足早にリューン総督府へ向かった。
早くも空には低く、月が顔を覗かせていた。
*
西の空に現われた上弦の月に、うっすらと雲がかかり、おぼろに光る暈を纏っていた。
月を見上げたディーンは、ふと、遠い故郷を思い出した。
それが朧月のせいなのか、それとも彼のいる天幕の中で焚き染められた東国産の香のせいなのかは定かではなかった。
想いに沈む彼の前へ、赤い絹の着物を着た娘があたためた銚子を差し出す。
『どうぞ一献』
『ありがとう』
母国語で答え、ディーンは足元の杯を手に取った。
徳利から注がれた酒は澄み、芳醇な甘い香りが漂う。月光を溶かし込んだようなその酒を、ディーンは一息に飲み干した。
『お見事』
反対側に座る青い着物の女性が微笑む。統一言語に切り替え、
「先程は仲間の者が失礼をいたしました」
「いや、気にしないでくれ。勝手に覗いていた俺も悪かったんだし……」
ディーンは、胡坐をかいた足をくずして笑った。
ここは東国曲技団の天幕の一画であるが、床には色鮮やかな毛氈を敷きつめ、小さな囲炉裏に似た暖房具まで備え、一種の応接間のような雰囲気である。
「旅回りの曲芸団が遠国まで行くのは知っていたけど、まさかリューンまで来てるとは思わなかったな」
「リューンの収穫祭は世界各地から人がやってきますから、わたしたちだけでなく、いろんな国の旅芸人たちが集まるのです」
一座の花形もつとめるという、女座長が説明する。
年の頃は二十二、三。長い黒髪をぬれぬれと結い上げた、色白の東国美人だ。
「でもまさか、こんな異国の地で同郷の方とお逢いできるなんて思いもしませんでした」
「俺も旅に出て初めてだよ」
「まあ……」
「――ねぇ。あなたは剣士なの?」
左隣から、まだ十代と見える赤い服の娘が、妹らしいよく似た顔を突き出した。ディーンの右腰に差した大刀を覗き込んで、
「その剣、本物なんでしょ?」
「本物だよ」
「じゃ、剣士なの?」
「いや、称号は――。でも、まあ似たようなもんだな。用心棒をしたり、化け物を退治したりして、二年ほど流れ旅をしてる」
「すごいわ。あなた、強いのね?」
「ん――まあ、ね」
「やっぱり!」
謙遜するディーンに、娘は眼を輝かせて感嘆した。座長が眉をひそめ、たしなめる。
「はしたないわよ、メイリン」
「でも、姉さま。この方、あのゴンゾーを投げ飛ばしたのよ? 強いに決まってるわ」
ディーンは、懐かしさに惹かれて潜りこんだ曲技団の天幕で最初に彼を捕まえようとした男を思い出した。
「あいつ、そんなにすごいのか?」
「ええ。うちの〝怪力男〟よ」
「じゃあ、あとの二人は……?」
「猛獣使いとナイフの達人」
「……戦わなくて正解、だな」
後から現われて彼を取り押さえた二人の男の正体に、ディーンは引きつった笑いを浮かべた。
あれから駆けつけた団員たちに取り囲まれ、あわやという状況になったのだが、ディーンが極東公語を話し、さらに同郷人だと知るや彼らの態度は一変した。
帝都の傘下に入ることを最後まで抵抗したというカルディアロス人は、愛国心が強く、非常に排他的である。
しかし同時に仲間意識が堅固で、異郷でも同国人と見れば大変に友好的なのが特徴である。
――やっぱ、持つべきものは同郷人だな~。
などと手前勝手に思いつつ、ディーンは夕飯の御相伴に預かる。
「宿でお友達がお待ちではありませんか?」
「べつに、どうせ帰っても野郎しかいないんだから……」
そう答えたディーンの脳裏を、白い仔猫と巨漢の姿がよぎった。
「だけど――そうだな。久しぶりに逢ったばかりだしなぁ」
「お友達とですか?」
「ああ、一年半ぶりにね。今日は懐かしい人たちに出逢う日なのかもな」
微笑んで言う彼の杯へ酌をしながら、座長が言った。
「わたしの郷里では、そういう出逢いを〝縁〟といいます。運命の糸の定めた出逢いだと……」
「運命の糸、か……」
呟いて、ディーンは、酒杯にゆらゆらと映る月の影を見つめた。
ふ…と、濃い紫の双眸が揺らぐ。
その先に見ているのは月か、それとも――。
想いを振り切るように眼を閉じ、彼は酒を呑み干した。