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翌朝、ディーンは薄靄のかかる総督府の中庭を散策していた。いや、正確には迷っていた。
束縛されることを嫌う彼は、警護と称して付きっきりの護衛兵士を撒こうとして、朝も早くから総督府内を駆け回っていた。
結果、当初の目的は達成したものの、今度は迷子という別の問題が浮上したのだった。
一口に総督府といっても、その敷地は広大である。
リューン総督府は首都でも市街地に程近いため、さほどの規模を備えていないが、エファイオスなどでは都市一個分に相当する土地を所有すると聞く。
総督の住まう城をはじめとして、駐留の六芒聖軍の宿舎と訓練場、学校、中央捜査局の本部に神殿と、さながら帝都の縮図を見るような光景であった。
その中を露に濡れた茂みを掻き分けつつ、暗中模索といった状態でディーンは歩いていた。
朝もまだ明けたばかりのこと、道を尋ねようにも肝心の人間にすら出会わない。
「弱ったな」
奔放に跳ねた黒髪をかき、ディーンはさして弱った様子もなく独りごちた。
生来呑気なほうなので、どんな状態でも彼はあまり動じることがなかった。見咎める人がいないのを幸い、探索を兼ねた朝の散歩と決め込む。
ふと、彼の耳が物音をとらえた。
足を忍ばせ、音のする方角へ近付いたディーンは、葉を赤く染め変えた木立の向こうで、剣を揮う男の姿を認めた。
――あれは……。
鍛えられた上半身もあらわに、一人の男が空を睨み、剣の型を遣っている。
汗が飛び散り筋肉が躍動する様を、ディーンは息を詰めて見つめた。
不意に、男が木刀を下ろした。振り向かぬまま、
「何者だ?」
ディーンは身軽く木立から抜け出ると、笑顔で謝った。
「すみません。剣を遣っていらしたので、思わず見学を」
額の汗を拳で拭い、セイデンが振り返る。
まだ靄の消え去らぬ朝の大気は、早くも次の季節を迎えたように、冷たく澄んでいる。その中で彼は、汗が蒸発する湯気を光背のように纏っていた。
「君か。随分と早起きだな」
「慣れないところで早く目が覚めたもので」
「久方ぶりに母国の友と再会したせいであろう?」
皮肉ともつかぬ言い回しで、セイデンは意味深長な笑みを浮かべた。
「そういえば、昨夜は結構な茶を頂いた。くれぐれも使者殿によろしく伝えてくれ」
「あは……は、はい」
薄っぺらいお膳立てを見透かされたような言に、ディーンの愛想笑いが強ばる。
セイデンは、側のパムの木の枝にかけていた手拭を取ると、体の汗を拭った。
硬く引き締まった身体はいささか緩みを感じさせるものの、二十代といっても通じるほどである。
「怪我はもういいのか?」
「あ、はい。そちらこそ」
その返答に、意外にもセイデンは笑って、まだ少し痣の残る頬を指す。
「なかなか効いたぞ、君の拳は」
「……はあ。どうもすみません」
居心地悪く身を縮めるディーンに、セイデンは強い意志を宿した瞳を向けた。
「儂は謝らぬぞ」
「……」
「レイファシェールを早く帰すのを邪魔したのは君だからな」
身分の高い者特有の自信に満ちた態度に、ディーンは苦笑し、またすみませんと謝った。
「剣はよくお遣いになられるので?」
「なに、木刀を握るのも久しぶりというやつよ」
手拭を木の枝に戻し、セイデンは右手で軽く木刀を振った。
「昨日の君たちの試合を見ていたら、血が騒いでな。やはり……剣の道は捨てきれぬわ」
呟きの最後に苦いものが混じる。
「君の剣は誰に習った?」
「幼い頃拾ってくれた老剣士に。あとは、我流です」
「ほう。なるほどな」
にっこりと頷くと、セイデンはパムの木の根元に置いた予備の木刀をディーンに投げ渡した。
「少しお相手を願おうか。君の怪我に触れぬ程度で」
「喜んで」
微笑と共に承諾し、ディーンは木刀を構えた。
*
リューン総督府・白鳩城の一室で、ギガースは荷造りをはじめた。
部屋は勿論、客としてあてがわれたものではない。地下牢から出したものの、神から遺棄された原罪者を持て余した総督府側が、使用していない一室に彼を押し込めたのだった。
元来物欲が薄く、三年の旅で異端視されるのにも慣れている彼は、そのことで気を悪くした風もない。だが彼には妖魔を狩るという役割があり、歓迎されない雰囲気の中でいるよりも旅に戻るほうが気が楽という考えから、早々と退去を決めたのだ。
レイを通じ、東国曲技団に預けていた荷物を取り戻したギガースは、厚手の袋に手際よくそれらを詰め直していく。
ふと、壁に立てかけた漆黒の剣が、ほのかな輝きを放った。
常人の目には見えぬ光が寄りこごり、裸体の女を形作る。
《これからどこへ行くつもりだい?》
空中に漂いつつ、魔剣の精霊はぞんざいに問うた。
「まだ分からんな。北へ上がるか東へ向かうか……おまえはどうしたい?」
《あたしは御主人様に従うだけさ》
「ほう。やけにおとなしいな」
《いやだよ、御主人様ったら。あたしはいつも従順で通ってるのにさ》
炎華は厚い唇を皮肉にゆがめた。
《だけど、今回みたいな空振りは二度とごめんだよ。あれだけ気をもたせておいて、妖魔の一匹も出てきやしないなんてさ》
「そう怒るな、炎華」
ギガースは穏やかに、妖魔の精気を糧とする魔剣の精霊をなだめた。少し意地悪そうな顔を作る。
「だが、九曜がいただろう?」
《やだねぇ、御主人様ったら。彼を食べるわけにはいかないじゃないの》
「これはまた、随分と気に入ったようだな」
《あっはっはっ。そうじゃないよ。あたしも命は惜しいからね》
百年単位を生きる精霊の言葉に、ギガースははっと真顔に戻った。
「おまえ……彼をどう視た?」
《御主人様と同じさ》
曾祖母、火人の長を超える天眼を持つ精霊が、言下に答える。
《それよりも問題なのは、あの銀の娘のほうだよ。あたしだったら、これ以上近付かないようにあの坊やに言ってあげるけどね》
「どういうことだ?」
《それだけ危険ってことさ》
曖昧な言い方の多い精霊の断定に、ギガースは戸惑いを隠せなかった。
「おまえが危険と考えるとは、レイは一体……?」
《さあね。炎を渡る者がどう視たのかは知らないけど、あたしは――》
言い差して、炎華は戸口を振り返る。
《お客だ。あたしは退散するよ》
「おい、炎華っ!」
ギガースが呼び止める間もなく、漆黒の精霊は光の点となって魔剣に消えた。
「まったくあいつは、関係のない時にはしゃしゃり出てくるくせに、肝心な時にはいなくなって……」
珍しく、ギガースの口から苦言が洩れる。
部屋を訪れたのは、当のレイファシェールだった。不吉な伝承の銀髪ゆえ男装をする少女は、客室とはお世辞にも言えぬ質素な部屋を苦々しく見渡す。
「ギガース、荷造りはどうだ?」
「ああ、もう終わる」
彼の足元にはすでに、旅の必要品を詰め込んだ一抱えほどの荷袋が出来上がっていた。
「何か足りないものはないか?」
「いや、充分だ。ありがとう」
彼の旅に物はあまり必要ない。だが、なくてはならぬものや旅をしているうちに使えなくなるものもある。そのほとんどをレイが手を回して新しく揃えさせたのだ。
ギガースが今着ている服も、総督府が用意したものである。衣類を買う金はあるが、体格が大きくまだ伸び盛りのため、身体に合った服を探すのは大変だ。
レイは、いつものように魔剣を背負う長身を、少し眩しげに見上げる。
「もう発つのか?」
「今日中か、遅くとも明日の朝には」
「そうか。寂しくなるな」
表情の見えにくいレイの顔に、寂しげな色が浮かんだ。感情を隠し慣れているとはいえ、ギガースの目に彼女はとても素直に映る。
「また逢える。そう遠くないうちにな」
はるか未来まで見通す天眼の言葉に、レイは少し安心したように微笑んだ。
ディーンたちにも別れを告げるため、ギガースはレイと共に部屋を出た。レイも背の低いほうではないが、巨漢のギガースと並ぶと頭一つ半違う。
「ギガース。気になっていたのだが……オファリスの宿で飲んだ晩、九曜のことで何か言いかけただろう。あれは一体何を言おうとしていたのだ? 九曜の記憶に何か問題が?」
刺青の刻まれた褐色の顔が、わずかに曇った。
「……いや。記憶というより、彼自身だ」
「彼自身?」
「ああ。彼は記憶を失っているということだが、俺の視たところ、それは本当ではないようなのだ」
「なに?」
驚いて、レイは声を上げた。火人の男は考え込むように腕を組み、その手を顎に当てる。
「いや……真実のすべてではない、というべきか」
「どういうことだ?」
「これはおそらく九曜自身も気付いていないはずだ。分かりようがないのだからな。だが――」
語を切り、重々しく告げる。
「彼の封印は、まだ完全に解かれていない」
「そんな……」
レイは思わず足を止めた。
「では、記憶がないのもそのためと?」
「おそらくはな。原因は俺にも視えぬ。だが[大災厄]か何か、本来解かれるべきではない形で偶然封印が解かれてしまったのだろう……不自然な歪みを残してな。
普通であれば、そのまままた封印に取り込まれてしまうのだろうが、彼は強力な妖魔だ。無理にでも個として甦ったはいいが、まだ解かれていない封印の分だけ負荷がかかり、それが記憶喪失ということにつながったのだろう。封印が完全に解ければ、記憶も戻るはずだ」
「だが、今の状態でまだ封印が解けていないとすると、九曜の魔力は一体――」
その大きさ、凄まじさを目の当たりにしているだけに、レイは背筋が冷たくなる。ギガースが薄く笑った。
「どれほどのものか見当もつかんな。分からんほうが幸せかもしれんが」
「……」
「どちらにせよ、今のところは敵ではないのだ。心配することはない」
「ああ……」
再び歩を進ませながら、レイは重い気分で頷いた。
九曜の記憶が甦ったとき――それは、魔王の復活に匹敵する惨事となるかもしれない。そうなれば、一帝都人として、レイは彼と戦わざるを得ないのだ。
レイはふと、自分の考えに厭なものを感じた。
――魔王……まさか。
レオノイスで見た闇の化身の姿が、鮮やかに瞼をよぎる。
レイは乱暴に頭を振って、その考えを追い出した。
突然、前を行くギガースが歩みを止める。
その肩にぶつかりそうになったレイは、彼の視線の先にあるものに気がついた。
「九曜……」
底知れぬ魔力を秘めた白い仔猫が、中庭を挟んだちょうど向かいの建物の外廊下で、カルディアロスから来た青年となにやら楽しげに談笑している。
ディーンが踏み台になったのか、二人はすっかり意気投合した様子だった。
九曜が低い廊下の手摺りに乗り、熱く語っている。
「でね、石を握ったら砂になっちゃってさ~。その時のディーンてば、もおボーゼンって感じでさぁ」
「あははは」
手摺りに両肘をついてもたれ、ソロモンが明るく笑う。
「ですが、昨日の試合を見る限りでは操作できているようでしたが?」
「うーん。気を抜いたら剣がぼろぼろだもんね」
「はは。それも面白くていいんですけど」
ソロモンは爽やかに、ひどい感想を口にした。
「あの試合どうなるかと思いましたが、技量はともかく、二人とも精神的にまだ若かったですね。実に惜しい」
二人とさほど年の変わらぬ青年の言い方に、九曜が苦笑する。
「まあ、確かに予想はしていたけど、あそこまでとはね」
「ええ。止める暇もありませんでした」
ふいにソロモンが声を潜めて、
「止めに入った黒髪の方……あの方、すごかったですね。ナイフを投げた第一天公爵も相当の腕前のようでしたが」
「うん。僕もびっくり」
「帝都貴族とお聞きしましたが、何者です?」
「さあね。僕が分かるのは、能力者ってことだけだね」
「能力者?」
ソロモンが問い返した。
二人の背後に広がる青空で、乾いた音とともに煙が舞う。祝砲だ。
ここからは様子を窺うことはできないが、街はもう収穫祭一色なのだろう。
祭りの始まりを告げる煙が次々と空に溶けていく様子を一瞥し、ソロモンは仔猫に目を戻した。
「では、彼は聖騎士の一人とでも?」
「さあ? もしそうだとしたら相当なもんだけど」
「どうしてです?」
「通常では普通の人間とほとんど変わらないように見えるからね。それができるのは、能力が覚醒していないか、それとも……隠しおおせるほどの力の持ち主か」
「……」
ソロモンは、顎に手を当てて沈黙した。
彼は能力者でないので、そういった方面には全くの素人である。だが武芸に関しては、九曜が能力に対してそうであるように、深い知見を持っていた。
武芸に秀でた者は、往々にして力量が表面に表われる。それは当人の発する殺気であったり身のこなしであったりするわけだが、ある程度の水準までいくとそれは反対に陰を潜め、戦う時と平生では別人のようになるのだ。逆を言えば、平常で闘気を殺せぬようでは武芸者として一歩突き抜けた段階に進むことができぬといえる。
ディーンの師匠である無斎がいい例で、剣を持たないときの彼はただの平凡な好々爺にすぎないが、一度剣気を帯びるとその眼光で荒ぶる敵を鎮める、永世天位の剣士であった。
直接対話したわけでないが、ノアの印象もそれに近い。さらに能力もそうであるとは、
――ふ。噂以上の切れ者とみえる。
ノアの正体を薄々悟るソロモンは、公には知れぬ彼の一面に強い興味を覚えた。ディーンには首を突っ込まないと言ったが、こうも役者が揃うと探りたくなるのが彼の性だ。
そこへ当の人物が、重厚な銀鼠の外套を翻してこちらへとやってくる。
「お二人とも、こんなところで何をなさっておいでです?」
笑顔で訊く彼は、男でさえ惚れ惚れするほど美しい。
ソロモンは祝砲の上がる青空を身振りで示した。
「二人で祭りの様子を眺めていました」
「ここからではあまりよい景色が見えないでしょう」
「雰囲気だけは楽しめますよ。いい天気ですし」
「ええ。今年の収穫祭は天候に恵まれたようです」
「そういえば――今回、皇帝陛下も式典に御参列されると聞き及びましたが?」
ノアの緑の眼が、猫のようにきらりと光を帯びた。
「どちらでお聞きになられました? 私には覚えがありませんが」
「いやなに、ただの噂ですよ」
「では……あまり噂をお信じになられないほうがよいと、ご忠告差し上げましょう。特に内容が誇大な時は、信じた方にも害が及びます」
「もとより承知の上です。ですが、ご忠告感謝いたします」
いいえ、とノアが微笑する。その笑顔は一分の隙もなかった。
「そうそう、ここへ来た用件を忘れていました。ナイト殿、チュン大使がお探しでしたよ」
「ああ、ディーンの手続きのことでしょう。わざわざお知らせ頂いて申し訳ありません」
仔猫を顧みて、
「では、九曜殿。楽しいお話をありがとうございました。失礼いたします」
ソロモンはそつなく礼を捧げると、軽い足取りで去っていった。
その姿が完全に見えなくなった後で、手摺りに座った九曜が、ちらりと非難めいた視線を黒髪の男に注いだ。
「なにも脅さなくてもいいんじゃない?」
「彼のためですよ。あなたや妖魔狩人に知られてもさして影響はありませんが、彼の背後にはカルディアロス政府がいますからね」
「だったら、もう少し用心すれば?」
「それもそうなんですが――」
ノアが手摺りに片肘をついて、仔猫と同じ目線になる。束ねた黒髪が肩先を滑り落ちた。
「興味があるんです。彼がどう出るか」
「それにしても、もう少し言い方がありそうなもんだけど」
「彼……ちくちくいじめて遊んでみたくなるタイプなんですよね。そう思いません?」
優雅な笑みとともに言われた台詞に、九曜が一歩引く。
「おたく、変」
「よく言われます」
仕事柄か生まれつきか妙に嗜虐趣味的なノアに、厭そうな顔をしつつも九曜が合いの手を入れる会話は、傍で聞いていると冗談の応酬に思える。
それは隣の建物からやってきたレイとギガースを加え、さらに賑やかさを増した。




