7-1
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ソロモン・ナイトは、母国から持参した細長い包みを手に旧友の部屋に向かいかけ、ある一室の前で足を止めた。無用心にも開け放された扉の向こうで、一人の女が行儀悪く机の縁に腰掛け、手にした書類を熱心に読んでいる。
束ねた黒髪の流れる横顔をしばらく眺め、ソロモンは扉の内側を軽く拳で叩いた。
「おじゃまかな?」
「ソロモン!」
カーミアが、書類から顔を跳ね上げる。
「ごめんなさい。わたしったら全然気がつかなくて……」
「いや。人に忍び寄るのは俺の専門だから」
冗談ともつかぬ口振りで言い、ソロモンは彼女の手から書類を取り上げた。
「こんなことはチュン殿の役目だ。君がする必要はないんだよ」
「でも、何もしないでいると落ち着かなくて」
「じゃあ、俺と一緒に行かないか? 今からディーンの部屋で飲むんだけど」
気まずげにカーミアが視線を逸らす。
「今さらどんな顔して彼に会えっていうの?」
「気持ちは分からなくはないが、一度きちんと話をしておいたほうがいい」
「だけど……!」
「――あいつが好きなんだろう?」
カーミアは黙った。
「君があんなにあいつに執着するには、理由があると思っていた。姉を殺した相手が、好きだった男だと君は誤解してしまった。だから余計に、君はあいつを許せなかったんだな」
黒々とした瞳が、目の前の男を見上げる。
「ソロモン、あなた――わたしがディーンに斬りかかると分かっていて……?」
「ああでもしなければ、君はいつまでたっても納得してくれなかっただろう?」
「……そうね。そうかもしれないわ」
彼女の家は貧しい地方貴族だった。持っているのは痩せた小さな土地と制約の多い称号ばかりで、収入はほとんどない。それどころか、父の薬代のために借金はかさむ一方だった。
貴族とは名ばかりの、さりとて身分を捨てて平民として働くこともできぬ一家の収入源は、長女エレンの後援者からもらう金だった。
名門の家柄でもなく持参金もない娘に、嫁の口がかかるはずもない。エレンが大富豪の公爵に見初められたことは、稀に見る幸運だった。
その彼女亡き後で一家の支えとなったのは、姉の復讐を願うカーミアを援助する者たちだった。彼らは勿論、善意で彼女を支援していたわけではない。
エレン殺害の真犯人である公爵夫人、そして公爵家を取り潰されるのを阻止しようとする連中が、真相を隠蔽するために利用していただけであった。
――貴族とは手の込んだことをするものだ。
ソロモンは皮肉に思う。だが、その念入りに弄した策こそが、真相究明の糸口となったのだ。
そもそも公爵夫人も、恋敵を殺そうと思うならば、なにも家紋入りの短刀など持たせなければよかったのだ。殺害も、十数人も用意して正面から乗り込まずとも、腕の立つ殺し屋数名を送れば済むことだ。それを自尊心が邪魔をした。
ディーンへの濡れ衣もそうだ。図らずも現場の証人をほぼ皆殺しにしてくれたのだから、むしろ放っておけばよいのだ。それなのにカーミアを焚きつけ、殺そうとするとは。必死で隠そうとする肚を探りたくなろうというものだ。
無論これらの事情をカーミアが知る由もない。ディーンが犯人だと思い込まされ、仇を討つよう操られていたにすぎなかった。
そこでソロモンは、彼らの影響の及ばぬところで彼女に真実を語ったのだ。
「わたし――今でも彼を好きなのか、自分でもよく分からないの」
カーミアは、張り詰めていたものが切れたような穏やかな表情で、ぽつりと呟いた。
「わたしも彼も、昔と比べて随分変わったし」
「俺は、今も昔も君は変わらずにきれいに見えるけど」
ソロモンの軽口にわずかに頬を緩め、カーミアは束ねていた黒髪をほどいた。かすかなさざめきをたて、癖のない髪が肩先を滑り落ちる。
「少し落ち着いて考えてみたいの。姉さんのことや彼のしたこと――自分の本当の気持ちも、これからどうしたいのかも」
気負いのない微笑が、口元に浮かんだ。
「そういう時間もこれから持ってみるのもいいんじゃないかと思って。彼に会うのは、それからにしたいの。心が決まった、その後に――」
「答えが出たら俺にも教えてくれ。それまで……待っているから」
驚いて、カーミアが亜麻色の髪の男を見る。
ソロモンはむしろ、その眼差しを避けるようにその場を離れた。戸口で立ち止まり、手にした包みを軽く振ってみせる。
「気が変わったら、飲みにくるといい。向かいの突き当たりの部屋だ。深夜までなら、なんとか正気を保っていると思うから」
「……ええ。覚えておくわ」
秋風のように捉えどころのない男は、かすかな微笑を横顔に見せ、部屋の外へと出て行った。
*
「よう、サリ」
「……おまえか」
訪ねていこうとしていた本人に廊下で出くわし、ソロモンは驚きもなく、やや上方にある少年の顔をちらりと見た。確か旅に出る前は、もっと低い位置にあったはずである。
どこか浮かない彼の肩を、ディーンが陽気に叩いた。
「なんだよ、元気ねぇな」
「おまえを見てると気力が削がれる」
冷たくいなし、ソロモンは、護衛と称する衛兵たちの前を通り過ぎて彼の部屋に入った。
「じじいみたいな口ききやがって」
ぶつくさ言いながら、続いて入ったディーンが扉を閉める。
「そういえば、俺の身元保証人はじじいか?」
「ああ。無斎様は天位だからな」
剣士の階級は、帝都が定めた公式な剣術の段位である。その規定は厳しく、最高位の天位ともなれば剣の腕は当然、人格や品位も評価の対象となる。したがって、天位というだけで帝都が後ろ盾についていると言っても過言ではなかった。
「隠居したから駄目かと思ってたけど、じじいもなかなかやるな」
「だが、やはり表立つことはできなくてな。体面上、ユウォン伯爵が引き受けてくださった。後できちんと礼に行けよ」
「誰それ?」
ソロモンが心の底から呆れた顔になる。
「ウィンレイの兄君だ。忘れたのか。あいつは一応まがりなりにも貴族様なんだぞ」
幼馴染の名に、ディーンはぽんと両手を打ち合わせた。
「すっかり忘れてたぜ。だけどウィンのやつ、勘当されてたんじゃなかったのか?」
「父君にはな。先年兄君のロクサード様が爵位を継いで、勘当を解かれたんだ」
「ようやくか。……そうだよな。あの頑固親父が俺を助けるわけないもんな」
「おまえはウィンを悪の道に引きずり込んだ張本人だからな」
「おまえも同罪だろ」
言って二人は、声を揃えて笑った。
当時まだ十代初めだったディーンとソロモンは、弟分のウィンレイと共に、幼く歯止めのきかぬ熱情にまかせて思いつく限りの遊びをし尽くした。もっとも盛んだった頃には、数十名の悪童からなる徒党を率いたこともある。
それは大人たちへのささやかな反抗だったかもしれないが、放任だった養い親の無斎とは別に、小も大も揉め事を起こす彼らを気にかけ、何かにつけて庇ってくれたのが、ウィンレイの腹違いの兄である現ユウォン伯だった。
「ロクサード様は出来た御方だ。立派な当主になられるだろう」
懐かしい面々を思い出し、口元に笑みを漂わせたディーンは、ふとソロモンの持つ包みに目を止めた。
「なんだ、その荷物?」
包みの中身は、片手ほどの丸い木の筒だ。蓋を開けると、細かなささめきとともに青く清々しい芳香が漂う。
「特級緑茶の〝青龍涎〟だ。一杯飲むか?」
「わ、飲む飲む」
祖国の飲み物に、ディーンは単純に喜んだ。
〝青龍涎〟という名は、手揉みの大振りな茶葉が龍の形に似ているからとも、龍が涎を流して飲みたがる美味い茶という意味とも言われている。
外に立つ衛兵に頼んでお茶の支度をさせると、ソロモンは茶碗を温め、熱湯が充分にぬるんでから茶碗に淹れた。さらに茶葉が開くのを待つことしばし。
とぽとぽと香りたつ若草色の緑茶が、茶碗に注がれる。把手付の優美な白磁碗なのが雰囲気を損なうが、それでも風味に変わりはない。
湯気とともにたちこめる甘い緑茶の匂いに、ディーンが目を細めた。
「やっぱいいな、緑茶は。余所でも旨いものはあるけど、こればっかりは飲みたくても飲めないもんな」
「[花月楼]の主人からの差し入れだ。急だったし、思ったより荷物の検査も厳しくてな。これだけしか持ち込めなかったんだが……」
「うん、充分」
ディーンは上機嫌でカップを両手に取ると、二年ぶりの緑茶をすすった。ぷはーと年寄りくさいため息をつく。
差し向かいの四人掛けソファに座ったソロモンは、組んだ足に肘をついてその掌に顎を乗せ、空いた手に茶碗を持った。
「ところでおまえ、いつの間に右腕が治ったんだ?」
「あ?」
古馴染みの男は行儀悪く、茶碗を持った手でディーンの右手を指差す。
「右腕だよ。会った時から妙だと思っていたが、帝都のお偉方を殴ったのも右手だろう?」
「よく分かったな」
「阿呆。左手で他人の左頬を殴る奴があるか」
「そっか。実はちょっと紆余曲折があって……妖魔の分身をもらっちまった」
「は???」
さすがにソロモンの口があんぐり開いた。
「妖魔ってあの白い……」
「そう、九曜。で、この腕だけえらい力持ちになっちまってさ――ほら」
ディーンは、右の人差し指と親指で、縦に挟んだ銀製のスプーンを折り曲げてみせる。
「そんなので他人を殴るなよ。危ない奴だな」
「一応、力加減はしたんだけどな」
「間抜け。加減をする余裕があるなら、その衝動のほうを抑えろ」
「あははは」
「笑ってごまかすんじゃない」
「だから、これにはいろいろ紆余曲折があるんだってば」
「おまえの口から紆余曲折など聞きたくない」
「冷たいやつだな」
ふざける年下の男を、カルディアロス人らしからぬ淡い茶の瞳がちらりと見た。
「いいか。俺は今回おまえを連れ戻しに来た。それだけだ。それ以外の余計なことは、俺の耳にも目にも触れさせるな。これ以上の厄介事はごめんだ」
「相変わらず仕事熱心なことで」
ディーンは、自分の窮地を救ってくれた男の言葉に軽く肩をすくめる。
「だけど、爪牙衆次期総帥みずからお出ましとは驚いたな」
「大体おまえが勝手に行方をくらませたりするから、俺がはるばるリューンまで来るはめになったんだぞ。いい迷惑だ」
「はいはい、感謝してますって。どうせサナイが一枚噛んでるんだろう?」
「タイレン様と呼べと言っているだろう。あの方は一枚どころか、この件では百枚ぐらい噛んでるぞ」
緑茶で口を湿らして、ソロモンが続けた。
「このところ内部で不穏な動きが目立っていてな。シャオレン陛下が病にお倒れになる現在、タイレン様が政府の実権を握られているんだが、置き人形のような陛下と違って、あの方は敵味方問わず容赦しない御仁だ。邪魔に思う者も多い。今度のことで多少なりとも治まるといいんだが……」
「帝都のお偉方の前で事件を公表して隠蔽を阻止することで、裏にいる奴を叩こうっていうのは分かるけど、それとこれとどう関係あるんだ?」
「ど阿呆。おまえとタイレン様が親しいのは、政界でも有名な事実だ。おまえが事件の犯人ということになれば、それを足がかりにタイレン様の悪評を流して、なし崩しに社会的地位を下落させることも可能だ。そこでより多くの味方を引き入れ、陣営を固めたいというのが向こうの狙いだ」
「誰の?」
「……ツァイリー様だ」
「あの古狸か」
ディーンは苦笑した。
彼らと友人であり、盲目ながら切れ者と評判のリ・タイレン王子と反目している叔父のツァイリーは、かねてより兄の王座を虎視眈々と狙っていた。同時に彼は、帝都から独立を目論む急進派の要である。
「なるほど。カーミアの後ろ盾はあいつなんだな。だけど公爵家は帝都の――」
「ふ……どんな派閥にも財源は必要だ。おそらく利益だけの結びつきだろうがな」
辛辣にソロモンは答えた。
タイレンと友人であり腹心の部下でもある彼は、影になり日向になり次期国王となる王子への攻撃を防ぎ続けている。今回もカーミアに真実を知らせると同時に、ディーンの身柄を確保することが彼の役目だった。
「おまえも大変だな、サリ」
「これも仕事だ。それよりも、帰ったらタイレン様がゆっくりと話をしたいとおっしゃっていたぞ」
ディーンが蒼褪める。穏やかな物腰とは正反対の彼の怖さは、身に染みて分かっていた。
「あーあ。大変な人に借りを作っちまったな」
「今頃悔やんでももう遅い」
ソロモンが愉しそうに笑った。
そのとき部屋の戸を叩いて、銀髪の少女が顔を覗かせた。
「――ディーン、少しいいか?」
「どうした、レイファス」
「眠る気がしなくてな」
レイは椅子から立つソロモンに軽く目礼し、二人の座るテーブルにやってくる。部屋を見渡して、
「九曜は?」
「帝都のおっさんたちが心配するからと、法術師付きでお休みだ」
「ここへきて、かえって迷惑をかけているようだな。気を悪くしていなければいいが」
「あの程度の法術なんざ、あいつには何の苦にもならねーからいいんじゃねえの」
旅の間で九曜の魔力に絶対の信頼を寄せる少年は、あっさりと断言した。
「座れよ。なんか飲むか?」
「これはなんだ?」
まだ少し飲み残ったディーンの茶碗を、レイが不思議そうに覗き込む。
「緑茶だよ。茶葉を発酵させずに蒸して乾燥させたやつ。旨いぞ」
「じゃあそれを」
こだわりなく言うと、レイはソロモンの隣に座って、ディーンが茶を入れるのを待った。
ほど近い大神殿から、夜の鐘が長く響く。鐘の数は五つ。ひとつ鳴るごとに夜が闇を増し、燭台の灯がより明るく燃えあがるようだ。
ディーンから白磁の茶碗に入った若葉色の飲み物を受け取ったレイは、深々と湯気を吸い込む。
「いい香りだ。おまえがこんな時間まで酒抜きでいるとは珍しい」
「人を酒びたりのように言うなっ」
ディーンがむくれた。はは、とソロモンが笑う。
「それもそうだな。たまには健康的でいいだろう。……お味はいかがです? レイファシェール様」
「うん、なかなか。少し苦味が残るけど」
「ああ、ディーンがけちって出涸らしを入れたせいでしょう。――こら、レイファシェール様に新しいお茶をお出ししろ」
半ば本気半ばふざけて、ソロモンが命じる。しぶしぶディーンがお茶を入れ替えに立ち上がった。
二人の友人関係をなんとなく察したレイは、くすりと笑いを洩らす。
「わたしのことはレイと呼んでくれ。それにしても、こんなのを迎えに来られるとはソロモン殿も御苦労なことだな」
「どうぞ、わたしはサリと。まあ、実際わたしも来たくはなかったんですけれどね。連れて帰れと厳しい要請がございまして」
「要請? それはどなたからだ、サリ殿?」
「彼の帰りを首を長くして待つご婦人からです」
意味深長な言い方に、ディーンが首をひねった。ソロモンが底意地の悪そうな微笑を頬に溜める。
「そうそう。その女性から伝言を頼まれていたのを忘れていた」
「伝言?」
「ああ、聞きたいか?」
ソロモンは芝居がかった仕草で居住いを正すと、咳払いをひとつした。深々と息を吸い込んで一声。
「――馬鹿野郎っ! 一体今までどこをほっつき歩いていたんだ、この阿呆たれがっっ!!」
間近で聞いていたディーンに耳鳴りが走った。レイが爆笑する。
「どれだけ心配したと思ってるんだ! いつまでも他人に迷惑をかけてないで、さっさと帰ってきなさい!!――とゆーことだ。優しい妹をもって幸せだな、兄上」
「……リィナか」
頭を抱えて机に突っ伏していたディーンが、ようやく顔を上げる。
「そのとおり。首に縄をつけても連れて帰れとお達しがあったぞ」
「それはともかくとして、さっきのはリィナが言った台詞とは思えないぜ?」
「当たり前だ。多少の脚色は勘弁しろ。俺はおまえと違って女言葉は不得手だからな。そのままそっくり伝えるのは無理だ。それとも……」
言い差して、ソロモンの瞳にさらに悪戯な光が灯った。
「おまえ、俺にキスされたいか?」
思わず椅子ごと後退ったディーンは、次の瞬間、血相を変えて友人の男に詰め寄った。
「おまえまさか……!」
「ほっぺたにちょっとな。安心しろ。無斎様に斬られるような真似はしなかったから」
「それ以上何かしたら、その前に俺が絞め殺してやる!」
凄むディーンに、ソロモンはさらに愉快そうな顔になる。
「美人になったからな~、リィナは。あと二、三年もしたら、さぞかし悪い虫がつくだろうよ」
意地の悪い駄目押しに、珍しく真剣なディーンがぐっと詰まる。
以前年の離れた妹がいると聞かされていたレイは、くすくす笑いながら尋ねた。
「いったいどんな娘なんだ?」
「それがなぁ~」
どしゃくずれの笑顔になるディーンを両手で机に叩き伏せ、ソロモンが代わりに答える。
「よくできた娘ですよ。誰に似たんだか顔立ちが綺麗なだけじゃなくて、気立てもいい子でしてね。その歌声がまた天下一品」
「ほう。ディーンに似なくてよかったな」
「ええ。まあ反面教師という言葉もあることですし」
「なるほど」
自分を置き去りに和やかに会話をはじめる二人を睨み、ディーンがぼやく。
「畜生。好き勝手なことを言いやがって」
ぶつぶつ言いながらも、出涸らしを小皿に移し替え、茶瓶に茶葉を多めに入れた。
「――そういえばレイファス。おまえ、親父さんと話したのか?」
唐突な話の転換に、レイの顔から笑いが消える。
「あのさ、俺考えたんだけど……」
「なんとかの考え休むに似たり、といったな」
「遠回しに皮肉を言って話を逸らすなよ」
ディーンは顔をしかめ、新しい茶碗に湯をはりながら続けた。
「殴った俺が言うのもなんだけど、親父さん、帝都でも結構すごい人なんだろう? そんな人が事件解決を助けたからって、わざわざ俺たちみたいな奴らに会ったりするか? 褒美を渡すためだけに、妖魔と妖魔狩人を連れた人間になんて、普通は会わないぜ。そうだろ?」
レイが無言で、束ねていない銀髪の陰に表情を隠す。
「おまえのことを心配していたんだよ。かなりひねくれてはいたけど」
「……あの人の頭には、自分のことしかないんだ」
「どうしてそう言える? おまえはきちんと会って、それを確かめたのか?」
「そうではないが……」
「ちゃんと話せよ。口に出して言わなきゃ、なにも伝わらないぜ?」
レイは押し黙った。先程とは打って変わった気まずい空気が流れる中、再びディーンが切り出す。
「親父さん、カルディアロスにいたことがあるんだってな」
「どうしてそれを?」
「シェスから聞いた」
おそらくディーンは、腹違いの妹を案じる兄からそれ以上のことを耳にしたのだろう。
またも黙り込むレイの前に、なみなみと若葉色のお茶を淹れた茶碗が二客、すっと差し出された。
「持っていけ。緑茶なんて滅多に手に入らないからな。懐かしがるだろう」
「だけど……」
「俺が持っていってまた殴ることになってもいいのか? さっさと持っていかないと、せっかくのいいお茶が冷めちまうだろうが」
乱暴に言い、ディーンは小さな盆の上に茶碗を置いて、強引にレイの両手に持たせる。
「ほら、行ってこい」
「う……うん」
勢いに押され、レイが頷く。おぼつかない素振りながら、それでも逆らわずに、少女は盆を持って部屋を出て行った。
ソロモンが意味ありげに、前の椅子に座り直す男を見やる。
「……やけに親切なことで」
「うるせぇ」
「ついにおまえも落城したか」
むっつりと黙って、ディーンが入れ替えた緑茶を一口飲む。
「おまえがああいう子に落ちるとはな」
含まれる意味に気付き、はっと濃紫の瞳が険しくなった。
「あいつは――」
「まあ、待て。今回は余計な情報を耳に入れる気はないと言ったろう。安心しろ」
落ち着かせるように片手を挙げ、ソロモンは少しの間、幼い頃からよく知る友を見つめた。
「本気か?」
否定も肯定もない。
「……本気らしいな」
「おまえこそ、他人のことが言えるのかよ。彼女をわざわざここまで連れてくるなんて、おまえにしては甘すぎるぞ」
今度黙るのは、亜麻色の髪の男の方だった。
どちらともなくほろ苦い笑みが漂い、長いため息が洩れる。
「――まったく、不様なものだ」
「お互いにな」
カルディアロス人の男たちは顔を見合わせ、緑茶を満たした茶碗をかちん、と打ち合わせた。
*
「失礼します。お茶をお持ちしました」
「入れ」
答えて何気なく書類から顔を上げたセイデンは、そこにノアでも従者でもなく、銀髪を肩先に垂らした背の高い少年の姿を認めた。
「レイファシェール……」
「お邪魔でしたでしょうか」
にこりともせずにそう尋ね、室内に入った男装の娘は、父の手元におかれた書類にはっと目を止めた。先刻まで共にいた少年の身上調査書だ。
だが、そのことを問う代わりに、二客の茶碗を乗せた盆を掲げてみせる。
「カルディアロスからの使者からの差し入れです。なんでも彼の地でしか味わえない飲み物とか」
「うむ、そうか」
「どちらでお飲みになられますか?」
「では、ここに」
セイデンが、机上に散らばった書類を脇へ寄せた。ノアは現在ルークシェストと共に、事件の事後処理のため、中央捜査局の本部へ詰めている。補佐というよりお目付け役と呼ぶほうが、この場合ふさわしい。
おかげで片付かない書類の山を、セイデンは右へ左へ積み直しつつも、初めての娘からの来訪に手元が滑り、音をたてて紙の束が床に落ちる。
何気ない風を装ってそれを拾い上げ、視線を合わさずに尋ねた。
「おまえも飲んでいくのだろう?」
レイはぎこちなく頷き、微妙にできた机の空隙に茶器を置くと、父の前の椅子に腰を下ろした。
落ち着かない空気を破るように、セイデンが緑茶を手に取る。
「――む。よい茶だ。〝青龍涎〟だな」
一口飲んで、爽やかな味と香りに、表情を和ませた。
「懐かしい味だ。遠い彼の地をまざまざと思い出すわ」
「あちらではよくお飲みに?」
「うむ。カルディアロス人はお茶好きでな。お茶の種類や産地を当てる〝闘茶〟という賭け事もあるくらいじゃ。向こうではいろいろな茶を飲まされたものよ」
そう教え、セイデンは緑茶をもう一口、口にした。
「使者殿は、儂と彼の地の所縁を知ってこれを?」
「は……はい。懐かしく思われるのではないかと」
もごもごとレイはごまかす。それにセイデンは何かを察したようだが、特に追求せず話を振り替えた。
「おまえは、今頃まで起きていて身体は大丈夫なのか?」
「はい」
「無理をすることはない。こたびのこと、ご苦労であった」
巌のような表情のままねぎらう父に、レイは驚いた。
「いえ。その、今回のことはすべて私の失態のいたすところと――」
「確かに、指揮を執る兄にも告げず単独で行動したことは許されぬことだが、その報いはもう十二分に受けたであろう。気に病むことはない」
セイデンの青い瞳が穏やかな光を宿す。
「失態といえばルークシェストのほうじゃ。あやつめ、まだおのれの感情を律しきれておらぬ。まったく未熟というほかはない」
「お言葉ですが、兄上は精一杯なさっておられるかと存じます」
思わずレイは反論し、セイデンの冷静な眼差しとぶつかって、一瞬語を止めた。
「確かに兄上は熱くなられる性格ですが、それは何事にも熱心に取り組んでおられるだけかと存じます。ただ少々、一心になりすぎると申しますか――」
「視野が狭いのだ。それこそが、あやつの最大の欠点よ」
セイデンは為政者の顔を覗かせて言った。
「昼間のことも、こたびの事件解決も、今少し周囲に目を配れたならば、冷静さを保つこともできたろうし、人の手を借りてもっと速やかに事を為せたはずよ。あやつは己を過信しすぎる」
「兄上は優秀な方ゆえ――」
「それはすじが通らぬぞ、レイファシェール。優れたものとは、己とは異なるいくつもの視点に立て、または立てずとも思いを馳せ、理解しようと努めることができるものこそだ。いかに勉学ができようと武術が巧みだろうと、己がことのみにしがみ付いておるのは、ただの頑固者よ」
「……」
「人も世も一面ではない。己自身のこともそうじゃ。ひとつを見て、決めつけてしまうのは容易いが、真実からは程遠い。人の上に立つ者のならば、尚更それをよく心得ておかねばならぬ――そういうことよ」
レイは初めて聞く父の個人的な見解に、驚きながらも聞き入った。
その娘に、セイデンはふわりと柔らかな眼差しを投げる。
「おまえも兄のように仕事に携わりたいか?」
無言でレイがこくりと頷く。
セイデンの口からなぜか、長く深いため息がこぼれ出た。
「そうか……。おまえも、もう十六。そろそろ仕事を覚えはじめてもよい頃じゃな」
寂しげに、己に言い聞かせるように呟く。
「……これも、あれの血か」
このように気弱な、寄る辺ない頼りなさを浮かべる父を見るのは、レイは初めてだった。
「おまえの母と出会ったのも彼の地であった……」
セイデンは静かな微笑を頬に湛え、顔を合わすことの少ない娘にそれを向けた。
「おまえには、まだ覚えることが山とある。仕事のほうも、その様子を見ながらゆるりと教えていくことにしよう。おまえの母のことも――」
ぬるんだ緑茶を干すと、帳を下ろさぬ暗い窓辺に立つ。
総督府の塀の向こうに広がるオファリス市街では、翌日の収穫祭を待ちわびる人々が篝火を焚き、花火を打ち上げて、夜が更けるのも忘れて浮かれ騒いでいる。
レイは黙って、父の傍らに立った。
闇に赤々と映える炎の群れ。
夜空の星々が色褪せるほど力強い無数の街の灯火を眺め、セイデンが呟く。
「美しい夜景だな。あの灯のひとつひとつの下に、幾人もの人々の暮らしがある。帝都からは露ほどにも思わぬが――」
かすかに語を切って、
「彼らの一人一人に幸福を与えることは叶わぬまでも、せめてこの美しさだけは守りたいではないか。のう……」
「……はい」
頷いてレイは、部屋を訪れた時とはまったく違う想いで、父の横顔を見つめた。




