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カナン・サガ2~孤高の島~  作者: 藤田 暁己
第6章 過去からの使者
21/29

6-2



 エレンと初めて出会ったのは、雪のちらつく夜のことだった。

 事故で右腕を負傷したディーンは舞楽師としての道を断念し、王立の医療院で機能回復訓練(リハビリ)を受けながら、剣士としての道を模索しはじめたばかりだった。

 六つの時に、産まれたての妹と共に引き取ってくれた相手が剣士だったため、剣術の基礎はたしなんでいたものの、左手一本で剣を操るのは容易なことではない。

 舞楽師としての未練を断ち切ることもできず、とはいえ剣士として独り立ちできる見込みは皆無に等しかった。

 あれは、二つの道の間でふらふらと揺れ動いていた十四の頃。

 道端に座って、ぼんやりとディーンが雪が降ってくるのを眺めていると、高貴そうな一人の女が傘を差し出してきた。


『寒いでしょう。これをお使いなさいな』

『構わないでくれ。俺はこうやって雪を見てるのが好きなんだ』


 つっけんどんに答えるディーンに、女は着ていた羽織を脱いで彼に着せかけた。鮮やかな朱紅の羽織は羽根のように軽くあたたかく、わずかに甘い香の薫りがした。


『じゃあ、風邪をひかないようになさい』


 そう言って彼女――エレンは近くの家へ入っていった。

 それは、さる高名な公爵の持ち物とされる小さな屋敷だった。

 華奢な背中に揺れる豊かな黒髪と淡い香の匂いが、いつまでも彼の脳裏から離れることはなかった。



 遠い過去の波に浸っていたディーンは、問いかけるソロモンの声に現実に引き戻される。


「彼女との関係は?」


 昔からよく知る青年に、ディーンは今さらといった顔を向けたが、ざっくばらんな口調で応じた。


「友達だ。なんというか……一言で言うのは難しいな。出会ったのは二人とも滅入っていた時期で、お互い何の損得もない話相手が必要だった。彼女との関係はそんなものさ」

「恋愛感情も?」

「いや。それに近いものがあったかもしれないが、彼女と俺の間には激しい感情は一切なかったと言っていいと思う。年も離れていたし、俺とカーミア――彼女の妹とは年もあまり変わらないし――」


 傍らの少女をちらりと眺め、話を続けた。


「姉弟とか、親戚といった感じが一番近いんじゃないかな。侍女のイルマにも、二人はまるで陽だまりでごろごろ寝そべっている猫たちみたいだと言われたぐらいだ」


 冗談ごかしてディーンは肩をすくめる。周りの衛兵たちが失笑し、慌てて渋面を作り直した。


「では、彼女の家にはよく?」

「多ければ週に二、三度」

「泊まることも?」

「たまにね。彼女が怖がるから、護衛として」

「怖がる? なぜだ?」


 その問いに、ディーンはわずかにためらってから答えた。


「彼女は……エレンは脅されていたから」

「それは誰に?」

「マグノリア公さ。長年彼女の後援者(パトロン)だったが、奥方に露見しそうになって急いで別れようとしていた。公爵は相応の手切れ金を申し出たが、彼女は断ったんだ。その頃から得体の知れない相手に付け狙われるようになったと聞いた」

「なぜ彼女は手切れ金を断ったりしたんだ? 相当な額だっただろう」

「エレンは愛人の立場とはいえ、真剣に公爵を愛していた。だから手切れ金なんて欲しくなかったのさ。言葉で〝もう愛していない〟と言われればそれで充分だ。だが、公爵はそれを誤解した。彼女に別れる気がなく、このままでは家の身代しんだいが潰されるとでも思ったんだろうよ」


 息を継ぐように一度語を止め、続ける。


「エレンは奥ゆかしい人だった。自分が公爵の負担になっていると知るや、与えられていた屋敷を引き払って小さな家に移り住み、実家に戻ることもなく、侍女と二人で細々と暮らしていたよ」

「そして……あの夜が来たというわけか」

「彼女から手紙をもらうのは別段不思議はなかったよ。よく相談を受けたからな。だけど話があるという、その書き方があまりにも彼女らしくなくて、心配になって少し早めに行ってみたんだ。すると――」


 ディーンは言葉を切って、何かを堪えるようにもう一度固く瞼を閉ざした。

 血の海が押し寄せる――。


   *


 晩秋だというのに、その夜はもう冬の厳しさをたたえていた。

 つましい暮らしをしているエレンに負担をかけるわけにいかず、[花月楼]で軽く腹ごしらえをしてから、ディーンは約束の時間より少し早めに彼女の家に着いた。エレンはすでに街中の屋敷を引き払い、村外れのうら寂しい一軒家に越していた。

 慣れた道ゆえ灯りも持たず、畑の脇道を通り、近くへと差しかかったディーンは、向かう先から聞こえてくる物音にはっと耳をそばだたせた。


――今の音は……!


 思わず彼は隣の竹やぶに飛び込み、薄暗がりの中で彼女の家の前に立つ男の姿を認めた。

 男は家を背にし、周りの農家や道にさり気なく眼を配っている。屋内の明かりを受けてしらりと何かが輝くのは、鎧を身につけているからか。

 昏い予感が胸中をよぎる。

 その時、裏口の木戸が開いて、何者かが転がるように出てきた。

 最初誰か分からなかったディーンは、服を見て、エレンの侍女のイルマだと気がついた。

 よろめき倒れこむ老女を、ディーンは竹やぶから走り出て受け止めた。


『イルマ!』

『あ……』


 少年を見上げ、イルマがすごい力で胸元の服を握りしめてきた。その顔は殴られたのか判別もつかぬほど歪み、口は折れた歯から血が溢れて言葉にならない。


『大丈夫かっ。何があった!』

『こ……公爵……様の……使いを、かた……騙ったお、男たちが……』

『なんだって?!』

『エ……レン……嬢様……たす……助けて……』

『彼女はどこだ? まだ中か?』


 その問いに、イルマは最後の力を振り絞るように大きく頷いた。


『助けて……たす……』


 救いを求める声に、ごぼりと厭な音が混じった。血の泡を吹いて、老婆の頭がのけぞる。

 眼を見開いたまま絶命した彼女の瞼を、ディーンはそっと閉ざしてやった。

 亡骸を物陰に横たえ、大刀を抜きはらう。

 そして、一気に邸内へ踊り込んだ。

 物音に気付いた鎧姿の男たちが、剣を構えて彼を迎え撃つ。


『うおおおおおぉっ!!』


 怒りに燃えるディーンに、型どおりの剣術など役に立とうはずもない。

 屋敷に何人が潜んでいたのかは分からなかった。

 鎧を着ていない一人を逃したことだけは覚えている。それが首謀者であったらと思うと、今でも後悔に身が震えるが、その他のことに少しの良心の呵責かしゃくも感じたことはなかった。

 永遠とも一瞬ともつかぬ間。

 気がつくと怒号は鳴り止み、全身に返り血を浴びた少年だけが立っていた。


 後の警察の調べによれば、その場には十一人の男が斬られ、死体となって転がっていたそうだ。その惨状は十五才の少年の仕業とは思えぬ鮮やかな殺しぶりで、騒ぎを聞きつけて近隣の住人が駆けつけた時には、すでに全員が事切れていたという。


 我に返ったディーンは、侵入者の生死を確認する間もなく、エレンのいる部屋へと急いだ。

 奥の間の障子を引き開ける。

 その瞬間、ディーンは叫び出しそうになる声を必死に押し殺した。

 全身を朱に染めた女が、そこに横たわっていた。


――遅かった……。


 転げ込むようにエレンの傍らへ膝をついた彼は、血の気のない彼女の指先がわずかに動くのを目にした。咄嗟に両腕で彼女を抱きかかえる。


『エレン……エレン、大丈夫かっ!』


 女がうっすらと眼を開けた。


『……よかった。来て……くれたのね』


 はかない笑顔。血塗られ、蒼ざめたそれは間違いなく死人の顔なのに、それでもなお彼女は美しかった。


『逢いたいと……思っていたの。逝く前に……もう……一度、だけ――』


 浅い呼吸のうちに、途切れ途切れに紡がれる言葉。

 ディーンは千切れるほどきつく、唇を噛みしめた。


『一度だなんて、言うなよ。これから……いくらでも逢えるだろ……』


 涙声で言う彼の頬を、冷たい手がそっと撫でた。その冷たさが、燃え尽きる彼女の命を何よりも物語っていた。

 堪りかね、泣き出す少年を母のようにエレンが慰める。


『泣かないで……わたしの剣士さん』

『剣士には……なれないよ。喜んでくれる人がいなくちゃ、俺だめだよ……』

『なれるわ……きっと』

『俺、あんたを護れなかった。剣士失格だよ……』

『そんなこと……ないわ。あなたは、わたしを護ってくれた。今も――』


 ほんのりと、エレンは笑った。


『だから、今度は……他の人を助けてあげて。ね……?』

『……うん』


 涙ながらに、ディーンは何度も頷いた。

 少年の腕に抱かれたまま、エレンがぼんやりと天井を仰ぐ。


『……寒いわ。まるで……あなたと初めて会った、あの雪の日みたい……』


 ディーンは無言で、彼女を一層強くその腕に抱きしめた。そうすることで温もりを――命を伝えるように。

 エレンの腹部から流れ出す血が、彼の体をしとどに濡らす。

 ほどけた黒髪がゆるやかに波うって床に広がり、灯したばかりの燭台に照らされて、それは赤と白の世界に恐ろしいくらいによく映えた。

 天井を見上げたまま、エレンがぽつりと呟く。


『……ねぇ。お願いを……聞いてくれる……?』


 ディーンは黙って頷いた。あまりにかすかな彼女の声が、今にも途切れそうで怖かった。


『わたし――自殺したことにして』

『エレン……』

『お願い』


 思いもよらぬ強さで、黒い瞳が彼を見据える。そんな力は残っていないはずなのに、意志がそうさせるのだ。


『あの人には……何も言わないで欲しいの。……お願い』


 その言葉に、ディーンは初めて気が付いた。

 彼女の傍らに落ちている、それに。

 彼女を傷つけた男が逃げる時に置き去りにしていったのだろう、一振ひとふりの短刀。

 そして投げ捨てられた鞘には、決して偽物などではない、マグノリア公爵家の紋章がくっきりと刻み込まれていた。


   *


 ディーンの話に、広い謁見の間は水を打ったような静寂に包まれた。短い話だったが、淡々と飾らない言葉で語られた内容に、誰もが衝撃を隠せない様子だった。


「それでは、公爵が彼女を殺したと――?」

「家紋をつけているのは、何も公爵本人だけじゃない。身分にもよるが、公爵家に関わる者なら多少なりとも身につけていても不思議はない」


 冷静すぎる口振りで、ディーンは推測を述べる。


「つまり、イルマが――侍女が見たのは公爵家の名をかたった野党などではなく、本物の公爵家の家臣だったということさ」


 ざわ、と室内に動揺が広がった。


「では、公爵が命じたというのか?」

「それを断言できる証拠は俺にはない。ただ、俺をエレンの家に誘い出したあの手紙は、彼女の書いたものではなかった……後で他の手紙と照らし合わせた結果、ね」


 探るように、セイデンの眼差しが細くなった。気付いてソロモンが声を張る。


「皆様に申し上げておきますと――その手紙はカルディアロス警察当局がすでに押収し、鑑定を済ませております。その結果確かにエレン・ルウェイの筆跡ではないことが確認されました。勿論、グラティアスのものとも一致いたしませんでした」


「そんなもの、いくらだって捏造できるわ! 彼の話は全部でたらめよ!」


 カーミアが鋭い声を投げつけた。


「では、カーミア・ルウェイ。君に訊くが、君は確実に彼の有罪を立証できるというのか?」

「できるわ! わたしは彼が姉を殺すところを見ているのよ!」

「本当だな?」


 ソロモンの茶の双眸に、静かな光が凝る。カーミアはぐっと言葉を詰めた。


「返り血を浴びたグラティアスがエレンを抱きかかえ、その手に短刀を握ってるところを見た。そうじゃないのか?」

「そ……そうよ。そのとおりよ!」

「確かに彼は短刀を手にしていた。だがそれは刺していたのでも、引き抜いたのでもなかった。したがってそれは、自殺と見せかけるためエレンに握らせようとしていた、ともとれる」

「そんなの……こじつけだわ」

「近所の者から騒ぎを聞いて屋敷へ駆けつけ、君はその光景を目撃した。だが、当時君は十四才。年端もいかない少女が、大人でさえ顔を背けたあの惨状に、取り乱さず冷静に状況を把握できたとでもいうのか?」

「それは……」

「君は幼く、動揺し、辺りも暗かった。状況判断を誤った可能性は大いにある」

「……そう、かもしれないわ。だけど、彼だって十五よ。わたしの言うことは疑って、彼の言うことは信じるというの?!」

「彼の話と事件現場の様子は逐一一致している」


 言い返せないカーミアに、さらにソロモンが畳みかける。


「エレンの死因だが――凶器が現場の短刀であることは、傷口から見てあきらかだ。致命傷となったのは右脇腹を下からえぐる傷で、無論君も知っての通り、自殺などではなく他殺との判断が下されている。

 これは一見すると左利きの者の仕業に見えるが、検死の結果、刃の向きなどから右利きの者が背後から突き刺した可能性が高いことが分かっているのだ。以前の事故でグラティアスの右腕が不自由となったのは、周知の事実のはず」

「それだけで彼を無実というの?」


 そうはさせない、との意志を込め、カーミアが挑むように詰問した。


「痴情のもつれ、もしくは強盗目的で見も知らぬ男たちに友人の女性を乱暴させ、持っていた大刀ではなく別の短刀で刺し殺した、という君の説よりは、よほど合理的な説明と思うが、残念なことに現場にいた者で生き残ったのは彼以外にいない」


 ソロモンはあくまでも落ち着き払った態度で、滔々と述べる。

 つと、セイデンの傍近くに立つ衛兵に視線を向けた。


「失礼ですが、あなたは先程の短刀をまだお持ちですね?」

「あ、ああ」


 衛兵が、抜き身のまま腰帯に手挟んでいた短刀を見せる。

 先程カーミアが振るい、ソロモンが弾き飛ばしたのを拾い持っていたのだ。簡素な片刃だが、柄は鮫皮生絹巻きで、ヤマトのつるぎ独特の青白い輝きと曲線を帯びていた。


「それは、エレン・ルウェイ殺害の凶器です。どうぞ皆様に御覧頂いて下さい」


 カーミアが蒼ざめる。

 驚きのあまり、短刀を持っていた衛兵が手から取り落としかけた。さすがにセイデンも眉をひそめる。


「凶器を保管もせずに持たせていたと申すか?」

「被害者の遺族が、事故であるとして捜査の打ち切りを強行に申し立て、凶器を形見として返却の要請をされれば従わざるをえないのが公僕の立場です。まあ、本当は遺族が事件をどう考えているか、これで明らかになったわけですが――」


 つまりカーミアは、姉を殺害した凶器をもって犯人を私刑に処しようとしたわけだ。


「彼女のことはひとまず置いておいて、問題は肝心のグラティアスが無罪であるという証明です」


 ソロモンが向き直る。


「さて――君は凶器のさやをどこに隠した?」


 ディーンは気軽な調子で肩をすくめた。


「さあ、ね」

「エレンのためにマグノリア公を庇い立てするのは結構だが、君が犯人もしくは証拠の品を握っているというのは公然の噂だ。このままだと犯人として逮捕されるか、カーミアに刺されるか、あるいは……公爵家に追い回されて殺されるか、だが」

「かもしれないな」


 のらりくらりとディーンがかわす。


「証拠の品を抱えて逃亡した、と推理されているようだが……幸い、わたしは君をよく知っている」

「……かもな」

「君の姉上夫妻の墓の傍からこれを見つけたよ」


 さり気ない仕草で、ソロモンは懐から漆塗りの黒鞘を取り出した。やや塗装の剥げたそれには、金箔がのせられた浮彫レリーフが丸く貼り付けられている。


「どっちがどっちに似たのやら、無斎むさい殿の口が堅くて、残念ながら発見できたのは数週間前のことだがな。これが凶器の短剣の鞘だということがはっきりすれば、鞘についている紋章の持ち主がエレン殺害の有力な容疑者となる……いいな?」


 その問いかけに、それでもディーンは逡巡するようにしばし黙り、頷いた。

 ソロモンは歩みつつ、反対側の衛兵にその柄を差し出す。


「どうぞご確認をお願いいたします。こちらは公正な調査の上で発見されたものだということと、凶器が警察当局での保管後カーミア・ルウェイの手に渡り、鞘の複製が不可能であったことを踏まえ、ご検分頂ければと存じます」


 先に渡された短刀を膝に置き、柄を手にしたセイデンは、するりと指先でそれをなぞった。


「これにて終わりか?」

「――いいえ。残念ながら、まだ検証すべきことが残ってございます」

「検証すべきこと?」

「その紋章の正体にございます」


 言い、ソロモンは再び当の少年に尋ねた。


「グラティアス、君はこの鞘の紋章を覚えているか?」

「……忘れようったって忘れられないさ」

「ここの皆様にも分かるように、どんな模様だったかを説明してもらえるか?」

「口で言うのはあんまり……こう、六角の枠の中央に横向きの木蓮の花があって、その下に水の流れる模様が描いてある」

「それだけか?」

「亀甲木蓮流水紋――公爵の家紋だろう。間違いない」


 ソロモンはまたも懐から何やらを取り出すと、今度はそれを別の衛士とチュンに手渡した。手巾ハンカチほどの布――芸事によく使われる袱紗ふくさだ。

 ソロモンは二人にそれを広げて持たせ、広間の後方に立たせる。


「ここによく似た紋章が二つある。グラティアス、君が見たのはどちらだ?」


 それぞれが持つ布に描かれた紋章は、初めて見る帝都貴族たちには、どちらも同じように思える。チュンの持つほうには、花を囲む線が二重になっているくらいか。

 わずかに考え、ディーンはチュンの持つほうを指差しだ。


「こっちだ」

「間違いないな?」

「ああ。汚れていたけど周りの線は二本あったし、それに花の形が――」


 その答えに、うっすらとセイデンの口元に微笑が漂う。ぱつり、と、短刀が鞘に収まる音がその場に響いた。

 ソロモンが振り向いて確認を請うのを待たずに、壇上から声がかかる。


「なるほどな。こたびの事件、双方ともに見誤みあやまりであった――そのほうは、そう申し立てるのじゃな?」

御明察ごめいさつ恐れ入ります」


 ソロモンは深々と頭を下げた。ディーンが戸惑う。


「見誤る……?」

「我が国のことはいま少し学んだほうがよいぞ、グラティアス。あの二つの家紋、よく似てはおるが別物じゃ。すなわち、家が違うということよ」

「家が、違う……?」

「おのれが指差したほうのものは、花弁の数が少なく亀甲の線が二重。つまり、もう一方よりも格下ということよ。どちらが誰のものかは、ナイトとやらがよく存じておろう」

「重ね重ね恐れ入りましてございます。実は、衛士の方に持っていただいたものが亀甲十六花弁木蓮流水紋。チュン殿のお持ちいただいたほうは、子持ち亀甲十二花弁木蓮流水紋。前者はマグノリア公爵家、後者はマグノリア公爵夫人の家の紋章にございます」


――なんと……。


 小波さざなみのように、その場に驚きが疾った。

 国にもよるが、身分の高い者同士の婚姻の場合、個々の財産や地位によって夫婦が別々の家紋を持つことがある。マグノリア公爵夫妻もそうなのだろう。

 加えて家の血筋と密接なつながりをもつ紋章は、姻戚筋に同じ図柄が形を変えて引き継がれることも多く、姻戚婚となるとほぼ見分けがつかない。

 家紋は家の顔でもあるだけに間違えたら侮辱とされるため、その扱いにはよほどの注意が必要だ。

 新たに告げられた事実に、ディーンは誰よりも衝撃を受けたようだった。


「どう……いうことだ……?」


 ソロモンの顔に、初めて表情が浮かんだ。いたわるように、


「当時公爵は、悋気りんき深い夫人にエレンのことを知られそうになり、急いで別れようとしていた……彼女を守るためにな。だが夫人はいち早くエレンの存在に気付いてしまった。彼女があのまま引き下がれば問題はなかったのだろうが、手切れ金を受けとらず、公爵共々まだお互い未練を断ち切れない様子をみて焦ったのだろう。エレンの身辺を調べさせておまえの存在を知り、手紙を用意してお膳立てをし、近衛に彼女を殺させることを命じた――公爵夫人の死後、判明したことだ」


 茶色の瞳が哀しく翳る。けして大きくない声は、それでも広い室内にしんと染み渡った。


「それを知った公爵は良心の呵責に悩み、家督を甥に譲り渡して隠遁いんとん生活を送っていたそうだ。そして三月後、亡くなられたんだ」


 その声が耳に入っているのかいないのか、ディーンが茫然とした様子で呟く。


「それでイルマは……やつらが公爵の名をかたったと言っていたのか……」


 何人ともつかぬ顔立ちに、ふいに激しい苦渋が浮かんだ。


「――彼女は裏切られたとばかり思っていた。捨てられ裏切られ、命まで取られて、どうして彼を愛したまま死ねたんだろうって、ずっと思ってた。だけど……違ったんだな」


 すうっと透明なものが彼の頬を伝う。


「あいつは彼女を愛してた。それを彼女は分かっていたんだ」


 ソロモンは黙って、泣き出す彼の肩に手を置いた。

 その姿を見ながら、カーミアは、自分の中で何かが音を立てて崩れていくのを感じた。

 ずっとずっと憎んできた。その彼は誰よりも、彼女と同じ哀しみを抱えていたのに。


――ああ、やっと……やっと泣ける……。


 憎しみでもなく怒りでもなく、ただ姉という人を喪ったことに対して、カーミアは初めて素直な気持ちで涙を流した。

 言葉ではなく涙で示された和解に、ソロモンはやや怒った口調で年下の青年に問う。


「犯人扱いされることを知りながら、なぜ今まで何も言わなかった?」

「それが――彼女の願いだったから」

「だからといって、普通はお尋ね者を承知で逃げたりしないだろう?」

「ちゃんとじじいに置手紙したじゃないか。……公爵が死んだ後で開けろとは書いたけど」


 ディーンは困ったように拳で涙を拭った。


「それに、家族にも愛してる人にも頼れず、身を寄せる場所もわずかしかない彼女に、最後に言い残した願いを聞いてやる以外、俺になにができたって言うんだよ?」

「……」

「だって、ただの十五のガキだぜ? そんな奴が他に何をしてやれたんだよ――」


 やるせなさをぶつけるように、涙声でディーンは言った。ソロモンは彼に手巾ハンカチを差し出しながら、低く母国の言葉で語りかける。


『ド阿呆。何のために俺がいると思ってるんだ、このスカタン』

『サリ……』


 乱暴な慰めに、一瞬ディーンの涙が止まった。ソロモンは表情ひとつ動かさず、淡々と手荒い慰めを吐く。


『馬鹿なくせに余計な気を回すから、こんな厄介なことになるんだ。今度黙っていたら市中引き回しのうえはりつけにしてやるから、そう思え』

『……分かった。覚えておく』


 ようやくディーンが笑う。とんでもない会話に、つられてカーミアも吹き出した。

 その様子に、東国の言葉の分からない人々の間に安堵の空気が漂う。

 内容を解するチュンやノアらも、苦笑して暴言を聞き流した。

 一人表情を崩さないセイデンが、冷静な声をかける。


「密談は終わりかな?」


 くだけた雰囲気をはっと正し、ソロモン以下四名が一様に膝をついた。


「はい。グラティアスを本国へ送還する方向で、一致いたしました」


 ぬけぬけとソロモンが言う。膝に短刀を置いたまま、セイデンは考えるように口髭を撫した。


「ふむ。そちらの娘子むすめごもよいのじゃな?」

「……はい」


 おもてを上げ、カーミアははっきりと首肯する。


「皆様方にはご迷惑をおかけ致しましたが、彼が姉の殺害犯人でないこと、ようやく得心とくしんいたしました。共に本国へ戻り、正式に事件解決を図りたいと願う所存にございます」

「ふうむ……」


 セイデンは頷いて、亜麻色の髪の青年へ眼差しを向けた。


「そちは見事グラティアスの無実を我々の前であかし立ててみせた。では訊くが――」


 青空のごとく双眸が、きらりと光る。


「そちは死者に裁きを下しに参ったのか?」


 そこに含まれる意味に、しかしソロモンはいささかの動揺も見せなかった。


「――いいえ。死後なお彷徨さまよう亡霊を鎮めるために参りました」

「なるほど。して、その試みは成功したか?」

「左様と存じます」


 慎ましく言い、ソロモンは笑みのない茶色の瞳を黄金の椅子の男のへと向けた。しばし、何とも言えぬ緊張がその場に張り詰める。


「ふむ――まあ、よかろう」


 セイデンは立ち上がると、鞘に納めた短刀を軽く放って彼らの前へ落とした。


「事件の謎解き、鮮やかであった。帝都の代表として、方々かたがたを歓迎申し上げる」

「は――」


 頭を下げる一同へ、意味深長な笑みと共に、セイデンから意外な一言が投げかけられた。


ではナァム……ごゆるりとシエンユー滞在なされよシェネトゥグワ




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