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カナン・サガ2~孤高の島~  作者: 藤田 暁己
第5章 夢の終焉
19/29

5-4

 


 ノアは、配膳用の台車に氷を入れた洗面器と手拭タオルを乗せて、主人の部屋を訪れた。

 四十の坂を越えた主人は、今日は特別に機嫌が悪い。年齢以上に多い皺が精悍な顔に刻み込まれ、十は老けて見える。

 手入れの行き届いた短い金髪は、こめかみのあたりに白いものが混じり、その双肩にかかる責務の重圧を窺わさせた。

 セイデンは、腫れた左頬を氷嚢ひょうのうで冷やしながら、書類に目を通している。


「新しい氷を持ってまいりました。お取り替えいたしましょう」

「む」


 むっつりと頷いて、セイデンが頬に当てていた布をノアに渡した。

 ノアは、慣れた手つきで氷嚢をほどき、新しい綿布ガーゼに小さく割った氷を数個入れ、さらに防水布で包んで縛る。


「どうぞ」

「うむ」


 氷嚢を頬に当て直すと、セイデンは再び書類に向かった。

 ノアは能力者(ヴィサード)であり、セイデン自身もシェスの父親だけあって法術師の資格をもっているのだが、彼は少々の傷は治るに任せるという信条の持ち主なのだ。頻繁に法力で治していたら身体が鈍るから、というのが理由である。

 腫れや痛みは自然な体の反応であり、危険信号でもあるので、法力に頼りすぎるのはよくないことだ。しかし、法力を使うといったところで魔法のように傷が消えてなくなるわけではなく、あくまで本人の回復能力を活性化させるだけであるし、公務を行なう彼の顔に傷があってはあまりよろしくない。

 ノアはそう指摘して[治癒(ヒール)]を勧めたのだが、セイデンはがんとして聞き入れなかった。

 彼が一度こうなると、息子でも、片腕のノアといえども口を挟めなくなる。

 ノアはため息をひとつついて、彼を見やった。


「随分とお腹立ちのご様子ですが、それはあの少年にでしょうか。それともご自身に向けておいでなのでしょうか?」


 青い瞳が、不躾な年下の男を睨む。

 無言で大きな息を吐き、セイデンは机の上に音を立てて書類を伏せ置く。それは言葉以上の確かな返答であった。


「ならば、他人に当たるのはお控え下さい。ご気分を変えて、火酒はいかがです?」

「――火酒は強いな。カヴァ酒にオリーブを落としてくれ」

「承知しました。総督が当地のよい酒を用意してくれています。日が落ちる前にはちょうどよい飲み物でしょう」


 主人の返答を予期していたように、ノアは台車の下段から氷で冷やしていた酒瓶と硝子杯グラス、それに酢漬けにしたオリーブの壺を取り出した。

 酒瓶をタオルで拭いて包み、硝子杯グラスに淡い琥珀色の発泡酒を注ぐ。濃緑の実をひとつ落とすと、男に手渡した。


「どうぞ」


 かすかに頷き、セイデンは一口酒を舐めてから、実に美味そうにそれを飲んだ。

 ノアが自分の分の酒を手にし、机から少し離れた椅子に腰を下ろす。


「だいぶ腫れが引きましたね。この分では、二、三日中には分からなくなるでしょう」

「殴られたなどと、何年ぶりかな」


 セイデンは、謁見の間で見せた王者然とした態度をまるで潜め、明るく苦笑した。


「まったくあの男は……」

「あんな言い方をなさるからですよ。本当に貴方は不器用なんですから」


 なじるようにノアが言った。それでも口調は暖かい。

 十近く年は離れているが、二人はよき仕事仲間であり、主従ながら腹蔵ふくぞうなく話し合える友人でもあった。

 庶民の出であるノアがこの若さで帝都で身分を得られた背景には、その実力もさることながら、セイデンの強い後押しがあったためだ。


 由緒正しい家柄の三男として産まれたセイデンは、家名を背負う必要もなく、若い頃は帝都に寄りつかずに供の者一人を伴って諸国を渡り歩いた経験をもつ、型破りの帝都人(アイテリアル)である。

 兄の病死によって図らずも家督を継ぐことになった彼は、その所為か貴族平民分け隔てなく扱い、身分から生じる不公平をできるだけ排除する向きがあった。それが息ルークシェストに影響を及ぼしたといえるかもしれないが、したがって、他の帝都貴族からの評判はあまりよくなかった。対等であろうとする彼の姿勢は、彼らからすれば、支配下の諸国へ媚びへつらっているように見えるのだろう。


 それを承知するセイデンは、対して身内には非常に厳しく接した。たとえ実の子供であろうと、他人は他人。別の存在というわけである。

 長子であるルークシェストも早くに手元から離し、旧知のリー・モルガン将軍に預けていた。

 その厳しさが、今回は裏目に出た形となってしまったようである。

 セイデンは、積み重なった書類をどけて両肘をつき、顔をごしごしとこすった。


「……私は確かに、父親失格かもしれぬな」


 逞しい両手で頬を挟んだまま、ぼそりと呟く。


「父は偉大な権力者であったが、冷たい人だった。他人の前では愛情深い顔を見せてもその実次々と妾を作り、家庭を一切顧みない……そんな人間だけにはなりたくなかったが――」


 年よりも老けたセイデンの顔に、自嘲めいた笑みがよぎる。


「どうやら、いつの間にか父と同じ人間になっていたようだな……血は争えぬ」

「単に気が動転しておられただけでしょう。まったく、レイファシェール様のこととなると御人おひとが変わったようになられるのですから」


 ノアの指摘に、セイデンの笑みがほろ苦さを増した。

 あの時の彼の態度が、愛情を押し隠したがためと気がついたのは、ノアとギガースくらいなものか。

 セイデンは、背後の窓に写る、深みを帯びる青空に視線を投じた。


「あの子を手元に置いておきたいばかりに、男の格好までさせて帝都に呼び寄せ――それがあの子のためにもいいのだと信じてきたが、だが……」

「制約があるとはいえ、レイファシェール様は何不自由ない生活と身分が保障され、最高の教育が受けられるのです。普通でしたら夢のようなことです」

「それは分かっている。だが、このままであれば、また今度のような事件に巻き込まれかねぬのだぞ?」

「それがレイファシェール様の望む道であれば、進ませて差し上げてください」


 ノアはきっぱりと意見した。


「現にそのほうが生き生きとなさっておいでです」

「生き生き、か……。私はあの子がそうしているところを見たことがない」

「幸いレイファシェール様は御無事で戻られました。今からいくらでも御覧になられるでしょう」

「その点だけは、あの男に礼を言わねばならんな」


 太い息をつき、セイデンは皮肉ではなくそう言った。蒼天の瞳に、揺るぎない愛情が宿る。

 妾腹であるレイに、セイデンがどれほど心を砕いているか――それを知るのは、ノアとモルガン将軍、そして聖母だけであろう。それほど彼は、レイに対して慎重に接してきた。愛情が見えぬほどに。

 それは、銀の兇児であるという絶対的な秘密もさることながら、突然現われた身分の低い妾腹の子を、正妻や保守的な貴族たちの心無い中傷から守るためでもあった。

 父が深い愛情を示せば示すほど、注目を浴び、傷つくのは必然的に娘であると彼は分かっていた。だからこそ、無関心でいるほかない。

 攫われた子が戻ってきて、喜ばない親などいない。

 だが、状況を考えると、公然とあの場で父親の顔を見せることは彼にはできなかった。


 ディーンに怒鳴られ殴られたことよりも、セイデンは、父親失格だと詰られた言葉が、レイ自身の心の叫びであるように思えてならなかった。それが、胸に突き刺さる。

 それは、彼の中で毎日のように自問され、何よりも耳にするのを恐れていた言葉だった。

 施政者として辣腕らつわんを揮う彼も、やはりこと娘に関してはただの父親にすぎなかった。

 苦い苦い後悔が降り積もり、透明なおりとなって、彫りの深い顔に翳を落とす。

 多くは語らぬ彼の過去の一端が、そこにはあった。


 ノアが黙って、空いた彼の杯に新たな酒を注いだ。泡の立ちのぼる琥珀の酒が、傾いてきた陽射しを受け、深い黄昏の光を帯びる。

 昼と宵が移り変わるときを束の間、ため息のような静寂が包む。

 セイデンはグラスを取ると、その静寂ごと、一息に酒を飲み干した。


   *


 血の海が押し寄せる。

 のがれられない。それは彼には分かっていた。

 目の前に横たわる女が、ゆっくりと手を伸ばして起き上がる。


『ディーン……』


 死者の口が、彼の名を呼んだ。何度も何度も、それは繰り返してこだまする。

 彼は、こわごわと自分の両手を見た。

 真っ赤に濡れた血の色。これは、罪の色だ。

 彼を呼ぶ声が幾重にも重なって響き、気がつくとそこには大勢の人間が立っていた。

 肩先にかかる黒髪の若い男。そして、長い黒髪をひとつに結いあげた若い女。

 三人の後ろには、テスで会ったアッバスがいる。果物売りの親父がいる。延々と死者の波が続いている。

 死者たちは、彼の名を呼びながら、こちらに向かって手を差し出した。

 彼はあとずさった。

 死者たちが歩み寄る。

 彼は、もう一度あとずさりかけ――足を止めた。


――ごめん。


 思いもよらぬ言葉が、口をついて出た。

 死者たちの動きが止まる。

 彼の両眼から、涙が溢れ出た。涙を流せば流すほど、血の海は深さを増すというのに。


――ごめん……ごめん。本当にごめん。


 生き延びたことに。逃げていたことに。あなたたちの死に。あなたたちの存在を消し去ろうとしていたことに。

 彼は泣きながら、過去の亡霊たちに謝った。

 ふと顔を上げると、彼らの眼からも、ふつふつと透明なものが零れていた。

 早すぎる死への無念さか。やり残したことへの後悔か。

 見たこともないほど哀しげに、痛々しく彼らはいていた。

 彼は、溢れる涙を拭おうともせず謝り続ける。


――ごめん。ごめん……だけど、俺は行くから。


 どこへ行くかは自分でも分からなかった。それでも行かねばならないのだ。

 歩き、進み続けなければ――前へ。


――俺は行くから。でも……みんなのことは忘れない。きっと……。


 忘れないよ。

 その言葉に、彼らは少し微笑んだ――気がした。

 ひたひたと波を寄せる血の海が、膝を濡らし、胸に届き、やがて彼を呑み込んでいく。

 だが、彼はもう逃げようとは思わなかった。

 怖い、恐ろしい――それは、すべて自分の中に在るもの。

 自分を満たす深い深い沼。そこに命は繋がっている。

 誰もが自分の影から逃げられないように。

 これから、どこへどう歩いていけばよいか、彼にはまだ分からなかった。

 それでも、ほんの少しだけ自分の居る場所が見えた。

 探し続けてきた自分という輪郭。その一端に、確かに触れた。そんな気がした。





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