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奢侈に埋もれ、享楽のかぎりを尽くしたその島の人々は、
いつしか神を忘れ、悪魔を崇拝しはじめた。
ある時、島の王は神を超える力を得ようと異界の門を開いた。
しかし、そこから現われたのは、額に死の名を刻んだ闇の王であった。
島は海に沈み、レオノイスは背徳の名として残された。
――知られざる封印の書より抜粋――
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第1章 出逢いの糸
1
セントゲア大陸の西、古五王国の一に至る歴史ある街道にたたずむ一本のパムの木。
茶褐色の樹皮はなめらかで、どっしりとした外観はまさに老熟の域にあった。
誇らしげに横へと張り出した枝々に豊かに葉が生い茂っている。
それは茶の月も終わりの陽射しを受け、きらきらと黄金に照り映えて大地に影を落とした。
その木漏れ日の中で、一人の人物が太い枝に身を委ねてうたた寝をしている。
ふと。
軽やかな羽音と共に、金と緑の輝きの合間から白いものが降ってきた。
「ん……」
その人物はわずかに身じろいで、ぼんやりとそれを仰いだ。
毛足の長い一匹の仔猫。
やわらかそうな毛並みは白く、それでいてどこか深い青さを秘めている。
再び眼を閉じかけるその人物に、幼い少年の声が怒った。
「――こら。いいかげんに起きてよね」
「……」
「起きろっっ!!」
耳元で怒鳴られ、その人物は跳ね起きた。拍子に、木の枝に思いきり頭をぶつける。
仔猫が吹き出した。
「僕の眼を盗んで、こんなところで寝ていた罰だよ」
そう言う仔猫の背中からは、見事な一対の翼が生えている。仔猫は翼をはばたかせて宙に浮くと、虹色の眼をきらりと輝かせた。
「そろそろ行かないと入国できないよ。僕、また野宿なんて嫌だからね」
拗ねたような仔猫の口調に、その人物は頭をさすりつつ、はいはいと頷いて身を起こした。
日に焼けた肌の下で、鍛えられた筋肉の束がうねるように動く。
大きく伸びをして、彼は日の落ちていく彼方をふ、と見つめた。
「――リューンか……」
黒髪の下で、不可思議な色の双眸が細まる。彼は荷物を肩にかけると、パムの巨木から街道へ飛び降りた。
*
統一世界の中心にある巨大な専制国家――帝都。
そこは皇族を主とした大貴族の居住区であり、一般市民であれば住まうことはおろか、滅多に立ち入ることすら許されない。だが諸方の王侯貴族の転居に伴い、いくばくかの身分の低い侍従たちがごく稀に幸運を手にすることがあった。
エリーズもその一人である。
エファイオス王国総督であったラフォンヌ第二天公爵に仕えていた彼女は、昨年公が任期を終えて帰還する際、夫妻と共にやってきて、帝都に足を踏み入れる運びとなったのだ。そこで身の回りの世話をする娘を探していた現在の主人に引き合わされ、侍女となってからまだ一年と満たない。
高貴な血筋ながら妾腹である若き主人は、宮廷の一隅に設けられた小さな離宮での生活を余儀なくされている。
自分が今の主人に選ばれたのは、同郷のエファイオス出身でかつ身分が低く、どのような立場のしがらみとも縁が薄いためであることをエリーズはよくわきまえていた。
――お可哀相に……。
前の主人もやさしい人であったが、今の主人は美しく穏やかな性質で、また同年ということもあり、エリーズは深い同情を寄せている。
客人のための茶菓を盆に乗せ、廊下を歩いていたエリーズは、ふと緑の中庭に灯る青い色に気がついた。
アズレアの花だ。
エリーズは辺りに人がいないことを確認すると、盆を廊下の手すりに置き、長いスカートの裾をつまんで庭へ下りる。黄色い花芯も鮮やかな五弁花を一輪手折り、水差へ挿した。
大輪だけに、それだけで盆の上がぱっと華やぐ。
エリーズは満足気に微笑し、客人の訪れる主人の部屋へと向かった。
客人とは、神官を統べる祭主の娘〝曙の姫君〟イルレイア姫であった。
イルレイアはしとやかな美姫というだけでなく、剣と法術を極めた聖騎士の一人で、主人のよき相談相手でもある。
――どこか底の見えない御方だけれど……。
能力者ではないが、エリーズは本能とも言える直感のようなもので、彼女に警戒心を抱いていた。それは、双方の父親の間にある確執を耳にしているためかもしれない。
主人の部屋の前まで来て、エリーズは、はっと立ち止まった。
――扉が……。
装飾をおさえた白塗りの扉が、無造作に半開きとなって中の様子を窺わせていた。
朱金の髪を肩上で揃えた女性の斜め向かいに、繊細な仕立ての上下を着た主人の横顔が見える。
小麦色だった肌にすっかり白さを取り戻した、その人が微笑んだ。
「それにしても、貴方の髪を見たときは驚いた。こんなに短くしてしまうなんて勿体ない」
「ルークシェスト様も同じことをおっしゃられましたわ」
「そうだろうな。イリヤは兄上のお気に入りだから」
その言葉に、聖騎士の姫が軽やかに笑う。
「あの方の星の数ほどの恋のひとつにすぎませんわ」
「確かに。まだ身を固める必要はないけれど、もう少し落ち着いて下さらないものかな」
「御心配ですか、レイ様?」
「そうでもないよ。勢いにまかせて見られがちだけど、あの人はあれで計算づくだから。あの要領のよさは天下一品だな。私にも分けて欲しいほどだ」
人付き合いが苦手なレイは、ふう、と肩をすくめた。はずみで、珍しい色の髪がきらきらと揺れる。
イルレイアが眩しげにそれを眺めた。
「随分とお伸びになられましたね。お切りになりませんの?」
「ああ……そうだな」
レイは肩にかかる髪を一房、指にからめた。蒼い瞳が、少し遠くを見つめる。
「伸ばしてみるのも、悪くないかと思って……」
そう言うレイの首元に掛かっているのは、長年身につけていた護り石ではなく、いくつかの玉を連ねた首環だった。
褐色のイルレイアの瞳に、寂しげな影がよぎる。
「レイ様。あの少年は、貴方の素性を御存知なのですか?」
「いや、帝都人だということしか知らないはずだ。それと――」
レイは、かすかに微笑んだ。
「女だということと、ね」
「それは――」
言いかけ、イリヤは突然背後を振り向くと、戸口に歩み寄った。腰の剣に手をかけ、扉を開け放つ。
驚いて立ち上がったレイは、そこに蒼褪めて立ち竦む年若い侍女の姿を認めた。
「エリーズ――」
「おまえ、何をしているのです?」
鋭く詰問し、イルレイアがエリーズの腕を掴む。
派手な音を立てて、盆に乗せていた茶器が落ちて割れた。
「お、お許し下さい。お茶をお届けに上がりましたら、その、扉が開いておりまして……。決して盗み聞くなどというつもりはございませんでした。どうぞお許しを……!」
イリヤは鋭く舌打ちすると、辺りを一瞥し、エリーズを部屋へ引きずり入れた。
床に投げ倒されたエリーズは、驚きと恐怖に身を震わせて泣いている。
扉に錠を下ろし、イルレイアが平生のたおやかな物腰を一変して問い詰めた。
「答えなさい。おまえ、何をどこまで聞いたの?」
「あ……いえ、何も……何も聞いてはおりません。どうか……!」
「嘘をつくのではありません。おまえは先程聞いたと言ったでしょう。さあ、言いなさい!」
「イリヤ、彼女は恐がっている。やめるんだ」
レイがきっぱりと姫をたしなめ、エリーズを庇うように間に立った。
「泣かなくてもいい。私を信頼してくれ」
娘の頬に流れる涙を、長い指がすくう。
うつぶせたまま、エリーズは言葉もなく頷いた。傍らに屈んだ若い主人が、低い、穏やかな声で尋ねる。
「これは、とても大切なことなんだ。何を聞いたか、私に話してくれないか?」
「……ところどころしか聞こえませんでした。髪をお伸ばしになりたいとか、あとは……その、レイファシェール様が――」
「私が、女だということ?」
「……はい」
エリーズが、消え入りそうな声で答えた。
蒼白となったイリヤが少女へ詰め寄る。レイはそれを手で制し、
「待て。不用意に口にした私たちにも責任がある」
「ですが……!」
言いつのるイルレイアを目顔で遮り、レイは再び少女に話しかけた。
「エリーズ、だったね」
「……はい」
「エファイオスの出身だと侍従長から聞いたが、生まれはどこだ?」
「アレトゥーサ……です」
「ああ、南部だな。山の多い、水のきれいなところだ。今は帝都にいるが、私もエファイオスの生まれなのだよ」
「存じて、おります……」
「そう。あの国は良い。人があたたかく、自然も豊かだ。今の季節だとフラーヴェルの実がなっている頃かな」
懐かしい故郷の果物の名に、エリーズは少し笑みを見せた。
少女の手を取り、レイは服の上から自分の胸に当てる。
エリーズは、固い布地の下に潜むやわらかな女性のふくらみをその指に感じ、はっと身を縮ませた。
外見では麗しい貴公子にしか見えぬ主人が、静かに語りかける。
「おまえの聞いたとおり、私は女だ。だが、それを公にするわけにはいかないのだよ。どうしてだか、分かるね?」
うつむいたまま、エリーズは無言で頷いた。
銀の兇児。
それは、多くの光明神教者に信じられている、災厄をもたらすとされる銀色の髪の女性のことだった。
新天地であるエファイオスではそれほど浸透してはいないが、光明神教の総本山である正神殿を抱えた帝都において、銀の髪の女性は兇児以外の何者でもない。
その事実をよく知るエリーズは、主人が女だと知り、だから余計に衝撃を受けたのだ。
年も変わらぬ主人の髪は、光を織り上げたかのような純粋な銀白色であった。
レイの線の細い美貌が、ふ…と微笑む。
「おまえを信頼して言うのだよ。このことは、たとえ家族であっても決して話さないでくれるね?」
「わ、わたくしに家族などおりません。ですが……!」
衝かれたように激しく言うと、エリーズはレイを仰ぎ、すぐまた眼を逸らした。
「レイファシェール様に背くようなことなど、わたくしは決していたしません! レイファシェール様のためでしたら、わたくし……わたくし――」
言い差して、化粧気のないエリーズの面に朱の色がのぼせる。
レイはイリヤと無言で視線を合わせた。手を差し伸べ、
「ありがとう、エリーズ」
微笑と共に言う主人に、若い侍女は陶然となりながら立ち上がった。自分を支える手に気付いて、
「し……失礼をいたしました!」
エリーズは慌てて御辞儀をして下がると、割れた食器を片付けにかかる。その彼女の足元から、レイは一輪の青い花を摘みあげた。
「あ、それは……」
「アズレアの花か。もう咲いていたのだな」
「はい、中庭に。御覧になられたいのではと存じまして、一番咲きのものを摘んでまいりました」
少女の靴の先についた土を目ざとく見つけ、レイはにっこりとした。
「私のために、わざわざありがとう」
「と、とんでもないことでございます」
同年の主人は青い花を手にしたまま、何気なく言った。
「エリーズ、手間を取らせてすまないが、なんだか喉が渇いてしまった。もう一杯お茶を頼むよ」
エリーズが、何とも言えず嬉しそうな顔になる。
「はい、ただちに」
いそいそと立ち去るエリーズを見送り、イルレイアは大きな息をひとつ吐いた。
やわらかな眼差しで年下の少女を見つめ、ようやく腰の剣から手を離す。
「――お変わりになられましたわ、レイ様」
「そうかな」
レイはまだ咲ききらぬ青い花の香りを嗅いで、小さな花瓶に手ずから活けた。
「以前のレイ様でしたら、あの娘を庇いはしても、あんなふうにお声をおかけになるなんてなさいませんでしたわ」
「それは、褒めているのかな?」
「……ええ」
わずかに微笑み、イリヤは再び腰を下ろすレイの前に座った。
「あの娘をこのままお使いになられますの?」
「そうだな。私も身近に事情を知る者がいると助かるし……。それにあの娘は賢いし、いい子だ。貴方の憂う気持ちも分からなくもないが――」
「いいえ、よいのです。ただ……」
語を切り、イリヤは暫時その眼を閉じる。
「私は、このことを養父にさえ話してはおりません。貴方を――秘密を守るためには、知る者をこれ以上増やすことは危険すぎると……。ですが、今回は少々出過ぎた真似をしてしまったようですね」
「イリヤ……」
レイは一瞬、返す言葉を失った。
イリヤは本来、帝都貴族ではない。貴族どころか平民でも流浪の旅をする卑しい身分の生まれであった。
今から九年前の[大災厄]で身寄りを一切失った彼女を、その卓越した能力と美しい容姿に目を止めた祭主アレス・リキタスが拾い、養女としたのだった。
祭主は、光明神教の祭儀の司。大恩あるその養父にさえ背いてイリヤがレイを護ろうとする陰には、[大災厄]で生き別れとなった弟の面影をそこに見ているからだ。
生死も定かではない弟の行方を、彼女は今でも捜し続けている。
レイは、そっとイリヤの白い手を握った。
「……ありがとう、イリヤ」
イリヤが、いいえ、と首を振る。
異名の由来ともなった曙色の髪が、肩上で美しくひらめいた。
かつて腰に届くほどだったその髪は、この春に起きた事件の折、解決を任されたレイの無事を祈って神に捧げられたのだ。
レイはふと、その事件で出会った二人の友を思い出した。
――今頃、何をしているのだろう……。
苦しい旅だったが、たった一月とはいえ同じように泣き、笑い、共に戦ったあの熱い日々をレイは片時も忘れたことはなかった。
もう戻ることのない真っ白な陽射しと灼熱の大地が、鮮やかに脳裏に甦る。
「――レイ様?」
物思いに沈むレイを、イリヤの声が引き戻した。
「ああ……すまない。少し考え事をしていた」
「最近いつもそうですわね。考え事ばかり。少しは外へ御出になって気晴らしをなさったらいかがです?」
「そのことだが――」
得たり、としてレイが眼を輝かせた。
「兄上が今、リューンに行かれているだろう? その手伝いに行こうと思うのだが……」
「なんですって?!」
イリヤの声が跳ね上がった。
茶菓を運び直してきたエリーズが、驚いて戸口で立ち止まる。
レイは身振りで侍女を招いた。
「任務の内容は、ノアから聞いておおよそ把握している。単純な失踪事件らしいのだが、不可解な点があるようなので、それを解明するためにわざわざ当地へ赴かれたらしい」
「これは遊びではございませんのよ」
「分かっている。実は――」
エリーズが給仕をして出ていったのを見計らい、レイは口を開いた。
「妖魔が絡んでいるようなのだ」
「な……!」
叫びかけて、イリヤは言葉を切った。額を押さえ、
「なんてこと……」
「まだ推測の域を出ないことだし、兄上も金位の法術師なのだから心配はないと思うのだが、ここはやはり妖魔と戦った経験のある者が行くべきだろう?」
「危険すぎます! あの件でもう無茶は懲りたでしょう――と言って、貴方は聞くような方ではございませんでしたわね」
「そのとおり。それに法術に剣、礼儀作法に語学に歴史の勉強……。いつまでもこんな生活を続けていくわけにもいかないだろう? 少しは世間に出て学ばなければ――」
「そんなことをおっしゃって、本当は訓練を休みたいだけではありませんの?」
イリヤが、ちらり、と睨む。なかば本音を見透かされたレイは、苦笑してごまかした。
今春の事件で能力者として覚醒したレイは、法術師としての訓練を一からはじめている。
ところが、持っていた能力が強大な上に、十六の今まで基礎すら知らなかったため、聖騎士であるイルレイアが指導にあたるも、訓練は順調とは程遠いところにあった。
剣術では日位の腕前を持つレイも、やはり法術に関しては素人同然である。
イルレイアが、紅をのせた唇をきゅっと引き結んだ。
「よろしいでしょう。ですが、私も御供をさせていただきます」
「イリヤ……」
「先の事件で御供しなかったことをどれほど悔やんだことか。私も共に参ります」
有無を言わせない口調に、レイは困った表情になった。イリヤの手に右手を重ね、
「貴方の気持ちはとても嬉しい。だが、兄上だけでなく聖騎士である貴方までいなくなったら、帝都は一体どうなるというのだ。……頼む。帝都にいて、私たちの留守を預かってくれ」
妹同然に大切な少女からの頼みに、イリヤは嫌とも言えなくなる。ため息をついて、
「分かりました。ただし連絡は常に緊密に、一人歩きは絶対になさらないで下さい」
「わ、分かった」
「それから――来週、かの地へ御父上が御視察に参られるそうです。一度だけでも構いませんから、御顔をお見せになられたほうがよろしいかと存じますわ」
瞬時に、レイの顔から表情が消えた。
「覚えておこう」
何かを振り捨てるようにそう答えて立ち上がる背の高い少女を見上げ、イリヤの顔に言い知れぬ翳が落ちる。
レイは、私生児であった。
そのこと自体は珍しくないのだが、帝都で高い地位に就いた父に捨てられ、その陰で母が不遇の死を迎えたことに強いわだかまりを感じるレイは、十二の時に実子と認知されてもなお、父の与えた名を名乗ろうとせず、同じ帝都にあっても顔を会わそうとすらしなかった。それは、銀の兇児であるという配慮以上の頑なな何かが感じられた。
帝都に上がる以前からレイを見知っているイリヤは、目に見えて笑顔を減らしていく少女に深く胸を痛めていた。以前、帝都での生活を切り上げてエファイオスに戻るよう勧めたのも、少しでも気が晴れればとの考えからだった。
それが逆に聖宝盗難という難事件に巻き込まれ、魔術師を追って一人南の砂漠へ赴くことになったのである。
イリヤは自分の失態を深く反省したが、皮肉なことにレイは強大な能力を発現し、明るく健康な少女となって戻ってきた。
――あの少年が変えたというの……?
本人から当時の様子を事細かに聞いているイリヤは、自治州テスで出会い、共に旅をしたという少年に嫉妬に近いものを覚える。
だが、その少年は身近にいない。おそらく二度と逢うことはないだろう。
そのことは誰よりも、レイ自身がよく分かっているはずだ。
今回のリューン行きが彼女にとって良い方に導いてくれればと願い、イリヤは口中で小さく、言い慣れた光明神への聖句を呟いた。