第49章ー7
とはいえ、流石にローマ帝国軍上層部は、そういった問題点を把握している。
だから、仙石秀久が率いる旅団がシラクサからメッシナへと向けられている。
その一方で、堀秀政が率いる旅団がパレルモ攻略を目指すことになっている。
コンスタンティノープル攻略でも名を馳せた堀秀政ならば、万が一ということがあっても増援が送り込まれるまで耐えられる、更には首都のパレルモ攻略も無難に果たせると佐々成政らのローマ帝国軍上層部が判断した結果だった。
もっともこれはこれで禍根を残した。
堀秀政は仙石秀久の一歳年下なのだが、将官に昇進したのはコンスタンティノープルでの戦功等から堀秀政が先になったので、いざという際の統一指揮は堀秀政がとることになっていたからだ。
(更に言えば、急激にローマ帝国軍を拡大させねばならなかったことから、本来ならば福島正則や加藤清正にしても、日本軍ならば中隊長を務めている年代なのに大隊長を務めざるを得なかった)
表向き仙石秀久は、
「堀殿が先に将官になった以上、儂が下に付くのは当然だ」
と公言していたが、内心では、
「何で年下のあいつに、儂が従わねばならんのだ」
と考えており、シチリア島侵攻作戦の現場ではその考えが噴き出すことになった。
ともかく、そうした指揮官同士の内紛の火種を抱えつつ、1590年3月20日、ローマ帝国のシチリア島侵攻作戦は発動されることになった。
幾ら地中海沿岸の南欧地方に属するとはいえ、ある程度は春の温もりを肌で感じるようにならねば、軍隊の機動に支障を生じるのは当然のことだったからだ。
そして、それ以前にシチリア島に展開していたスペイン軍の精鋭の多くは、密やかにスペイン本土へと向かっていた。
更にこの動きを見て、千載一遇の好機と動き出した者達もいた。
それはシチリアの一部の住民達だった。
彼らはスペイン人という外国人の王に統治されている現状に内心で憤懣を抱えていた。
更には、ローマ帝国軍の侵攻が間近いという噂も流れていた。
だが、この一部の住民達にしてみれば、彼らはローマ帝国と名乗っているとはいえ、所詮はイタリア人ではない存在に過ぎなかった。
そうした現状から、彼らはスペイン軍の減少を好機と見て、武装蜂起を計画した。
彼らの合言葉となったのが、
「シチリアの晩祷を再現せよ」
という言葉だった。
シチリアの晩祷、それは元はフランス人であるシチリア国王シャルル・ダンジューの専横に対して、イタリア系住民が1282年3月30日を期して起こした反乱事件のことである。
この反乱は、アラゴン王国の介入等もあって、最終的にはアラゴン国王ペドロ3世がシチリア国王に即位し、それまでは一体だった(ナポリ)シチリア王国がシャルル・ダンジューが治めるナポリ王国とペドロ3世が治めるシチリア王国に事実上分裂するという事態を最終的にはもたらすことになった。
尚、この1590年の時にシチリア島の反乱を主導した面々は、この時に誰をシチリア国王に推載するつもりだったのかは、後世に残された記録では、意外とはっきりしていない。
実際に反乱に参加した者が遺した記録にしても、この点はまちまちであり、現代ではそれこそ反乱参加者がお互いに都合の良いように考えていたのではないか、というのが通説化している。
更に難儀なことに、スペイン軍の急な減少という外来的な要因から、今こそ好機と考えて多くの参加者が急激に集められた代物であったので、統一的な指揮官が当初から不在で、お互いに我こそが総指揮官と自称する者が複数出る、ある意味では酷い武装蜂起だったのだ。
こうした裏事情が加わって、ローマ帝国軍のシチリア侵攻作戦は結果的に混迷を来すことになる。
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