第42章ー32
さて、徳川家康が講和を決断し、織田信長首相も講和の決断を下したのは、結果的に1578年の8月、それもお盆を過ぎた頃になっていた。
とはいえ、それは講和を結ぶ方向に両方の首脳の考えが一致した、ということだけで、内容等はまだまだ詰めないといけないし、その具体的方策をどうするか、ということもある。
更にこうした講和の動きとは別に、日本の宮中まで絡んだ話まで出ていた。
こうしたことから、夫の織田首相の話もあって、妻の美子は陰働きをする羽目になった。
「アラビア語を覚えて、日常会話ができるようになれ、と言われても」
「夫のために働きたくはないの。それにこれは九条家や二条家全体のためでもあるのよ」
「分かってはいますよ。でも、夫が学んでも良いのでは」
「九条兼孝殿には、他に色々と勉強をしてもらわないといけないことが山のようにあります。語学まで手を広げる余裕はないのです」
義姉の美子の言葉に、半べそをかくような表情を浮かべながら、九条敬子は勉強する羽目になった。
敬子は内心で散々にぼやいた。
私は美子姉さんとは血がつながっていないの。
だから、語学の才能を美子姉さんのように求められても無理なの。
だが、20歳前に母語のシャム語に日本語、中国語、アラビア語の日常会話ができるようになった自分の勉強に比べれば軽い軽い、と美子は言い放ち、数か月でアラビア語の日常会話ができるようになれ、と敬子を鬼のようにしごいてくる。
一応、学習院でアラビア語教育は受けて、挨拶程度の簡単な会話はできるようになっていた敬子だが、半分忘れており、半べそをかく羽目になった。
さて、何故に敬子が半べそをかく羽目になったかと言うと。
北米植民地との講和が成れば、摂家の一つである鷹司家を復活させようという話が出たことだった。
この話の裏には、近衛前久内大臣を牽制しようという二条晴良の考えがあった。
現在、摂家は鷹司家の断絶によって四摂家となっており、更に九条兼孝は二条晴良の実子であることから、九条家と二条家の連合が成立し、それに対抗して近衛家と一条家が手を組む事態となっていた。
こうした状況を打破するために、鷹司家を復活させて五摂家とし、それで、摂家の過半数を抑えようと二条晴良は考えたのだ。
しかも、幸いなことに二条晴良には、それに相応しい三男の信房がいる。
鷹司家を復活させ、鷹司家の当主に信房を据えれば、五摂家の過半数を抑えることが、九条家と二条家には可能になる。
これ自体は、二条晴良の個人的な野望と言って良かったが。
実は貴族院の空気も、この二条晴良の考えにいつか寄り添うようになっていた。
何だかんだ言っても、貴族院内では公家の面々の発言力が強く、更に公家の面々は長年の伝統もあって、摂家の顔色をうかがうことが多い。
そして、摂家が二つに割れて対立し、ゴタゴタが続くのは、公家の面々の多くにとって、神経をすり減らす事態であり、五摂家にして多数派を形成してほしい、という空気が強まっていたのだ。
だが、このことは当然のことながら、近衛前久やそれに同心する一条内基らの猛反発を買った。
近衛前久や一条内基にしてみれば、鷹司家が復活して、その当主に信房が成ることは、自分達が少数派になることとと同義と言って良かったからである。
更に二条晴良の次男の二条昭実に織田信長首相の次女春子が嫁いでいることも、近衛前久らにとっては怒りを募らせることだった。
「織田首相は、自らの義妹や娘との縁を駆使して、貴族院まで自らの膝下に置こうとしている」
とまで、近衛前久らは言うようになっていた。
こういった状況を打破する方策として、九条兼孝には、ある仕事が与えられることになったのだ。
ちょっと補足説明を。
この世界では、中高における外国語教育ですが、一番多いのがアラビア語です。
何しろ明(中国)とは冷戦状態ですし、他に日本と友好関係のある国の言語で、使用者が多い言語となると、アラビア語が第一に出てきます。
そうしたことから、九条(上里)敬子は、今の日本の一般の高卒レベルの英語教育を、アラビア語については受けていたということでお願いします。
(尚、国語教育の一環として、漢文教育は行われてはいます)
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