第42章ー9
そうした日本本国海軍にとって最大の悲劇となったのが、戦艦「金剛」の喪失だった。
尚、これはフランシス・ドレーク大尉(当時)にとって生涯最大の戦果となり、この独立戦争後にドレーク大尉がイングランドに帰国した際には、時の女王エリザベス1世に拝謁して、更にナイト(騎士)に叙せられるという栄誉を賜った。
その際の女王の言葉として伝わるのが、
「貴方は正にドラゴン(竜)を殺すのに等しい偉業を成し遂げたのです。これまで欧州の民は誰一人、日本人の操る鉄の船を沈めることが能わなかったのに、それを貴方は日本の巨大な軍艦を相手に成し遂げたのです。イングランドのみならず欧州全ての民が、貴方を誇りに想い称えるでしょう」
という言葉であり、この言葉が欧州に広まったことから、多くの欧州の民からフランシス・ドレークは、「ドラゴン殺しのドレイク」という異名で称えられるようになった。
尚、この「金剛」喪失が起きたのは、1578年6月のことだった。
この頃、カリブ諸島の要所に対して、日本本国陸軍は上陸作戦を展開しており、それを日本本国海軍は様々な手段を駆使して支援していた。
そして、戦艦「金剛」は同型艦の「榛名」と共に支援作戦に投入されていたのだ。
そこをドレーク大尉が艦長を務める8号潜水艦が狙ったという次第になる。
ドレーク大尉は、この時に夜間襲撃を決断しており、敢えて昼間に水上航行を行って充電をほぼ完全に行っていた。
一方、日本本国海軍は、夜間で視界が低下する中での襲撃可能性は低い、と考えていたのだ。
実際、電探どころかまともな探信儀や聴音機の無いこの時代に、潜水艦が夜間襲撃を行うのは極めて困難な話であり、更に念のために日本本国海軍の艦隊は之字運動まで行っていたのだから、潜水艦の襲撃が成功する可能性は極めて低かったのだ。
だが、ドレーク大尉は、この当時の日本本国海軍が行っていた之字運動の規則性に気づいていた。
潜水艦からの雷撃を回避するのに之字運動は極めて有効だが、規則性が分かってしまえば、却って狙う潜水艦にしてみれば、好餌にすることが可能になる。
尚、この欠点については日本本国海軍も分かっており、之字運動を不規則に行うことが推奨されてはいたが、ある程度以上の大艦隊となると不規則な艦隊運動を行っては、却って衝突事故等の危険が高まることから、規則的な之字運動を行わねばならないというのが現実だったのだ。
そして、大胆不敵に1カイリ以内に接近した上で、ドレーク大尉が艦長を務める第8号潜水艦は艦首から4本、更に追い打ちとして艦尾から2本の魚雷を発射し、その内4本が「金剛」に命中した。
また、この世界の金剛型戦艦は被雷による損傷を余り考慮せず、バルジが無かったのも禍した。
(もっとも、それはある意味では当然で、この世界で魚雷や機雷を開発、装備しているのは日本だけであり、それこそ内戦や独立戦争でも起きない限り、被雷することは考えられない事態だった。
そのためにこの世界の金剛型戦艦は、バルジを装備していなかったのだ)
このために右舷側に4本も被雷した「金剛」は急速に右舷に傾くことになった。
更に思わぬ事態に、多くの乗組員が混乱したことから、応急対策も困難を極めた。
結果的に被雷から約1時間後に艦長の小早川隆景大佐は総員退艦を命令し、自らは艦と運命を共にすると言ったが、縁者の上里丈二少尉(実は初陣だった)まで加わった乗組員ほぼ総出の説得により、結局は退艦に同意して、自らも退艦した。
この被雷から沈没の際、被雷時の浸水等により金剛の乗組員の内約1割が戦死し、約2割が負傷した。
この損害は日本本国海軍にとって、余りにも痛い損害となった。
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