第33章ー2
こういった抜群の貢献を、日本の北米植民地は本国に対して行ってきているのに、日本本国政府の北米植民地に対する態度は冷淡なものだ、と北米の指導者の面々、松平元康や武田義信、更に武田(上里)和子らは考えざるを得なかった。
例えば、中南米植民地の開拓については、日本の正規の陸海軍が協力して行っているのだから、北米でもある程度は正規の陸海軍に協力をしてほしいとの北米植民地からの請願は今でも無視される有様だった。
だがその一方で、日本本国政府としては北米植民地からの請願を無視せざるを得なかったのだ。
それこそ既述のように日本の植民地は、日本本国の人口に比して余りにも広すぎる有様になっており、それこそ日本本国防衛や海上交易路の保護のために海軍を重視せねばならない以上、陸軍兵力の増強にもかなりの制限が掛かっていた。
更にそれによって整備された日本陸軍の兵力だが、その主力は対スペイン、ポルトガル戦にかつては傾注せざるを得なかった。
そして、対スペインやポルトガル戦争が休戦状態になったとはいえ、日本本国政府としては、今でもムガール帝国の侵出の状況からインド情勢を注視せねばならないし、中南米でも原住民やスペイン、ポルトガルの残党との紛争を警戒せねばならない。
僅か8万人の陸軍の常備兵力では、北米にまで割ける兵力は皆無に近かった。
更に言えば、日本本国政府にしてみれば、日本の北米植民地は現地の日本人が勝手に広げた植民地にも程がある、としか言いようがない植民地でもあった。
カリブ諸島やアゾレス諸島等への北米植民地からの攻撃、植民地化は本国政府の反対を押し切って、北米植民地が断行した代物だったのだ。
勝手に行動して広げておいて、更に尻拭いを押し付けておいて、自らの功績だと誇るようなことをされては、と日本本国政府等が北米植民地を見る目が冷ややかなものになるのは当然の話だったのだ。
だが、そういった日本本国政府の機微が、北米の植民地側には余り伝わっていなかった。
勿論、全く伝わっていないことはない。
例えば、武田(上里)和子の異父姉である織田(上里)美子は、(この当時は)それこそ今上(正親町天皇)陛下の尚侍という日本本国政府の最上層部の一角を務める存在である。
だから、美子は和子に対して、折に触れて日本本国の政府等の空気を伝え、北米植民地がやっていることはやりすぎだ、と諫めるような手紙を度々、送っている。
他にも織田信長から松平元康に、親友同士として、又、親戚としての手紙のやり取りがあったし。
又、本願寺門徒には本願寺顕如からの手紙が、法華宗不受不施派にも日本本国に残っていた本山からの手紙が、随時届く等のことがあった。
それ以外にも、この当時の北米植民地にいる日本人の多くには、日本本国にいる日本人の友人や親戚がいて、彼らとの手紙等のやり取りが為されていないことはなかった。
こういったことから、日本本国と北米植民地との間で意思の疎通は行われてはいた。
だが、問題は日本本国と北米植民地とそれぞれの指導者層が、お互いに相手が自分の言うことを理解してくれない、という相互不信を徐々に強めているのに、その仲介者が今はいないことだった。
それこそ以前に述べたが、例えば、美子と和子の実母の永賢尼が和子の傍に当時いて、和子から美子への手紙に口添えの手紙を書いたり、又、美子からの手紙を読んで和子を諫めたりという仲介者の役割を果たしていたら、こういった相互不信は和らいでいただろう。
だが、永賢尼は病没しており、現在の日本本国と北米植民地間に仲介者はおらず、お互いに手紙等で自分の言い分を相手に伝えてもムダという想いさえ漂いだしたのだ。
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