第32章ー9
だが、これはこれでインド国内の戦乱を免れて、インドから脱出しようという戦争難民から日本が頼られる一因にもなっていた。
(現代でも起こることは珍しくないが、この時代では尚更に)戦争において、戦場における住民からの略奪は当たり前だった。
そして、それを住民が避けようとすれば故郷を捨てて、遠く離れた場所に赴かざるを得ない。
日本の拠点に逃げ込めば取りあえずの身の安全は図れるとして、インド国内でムガール帝国とその周辺諸国との戦争が起こる度に、インドの住民が日本の拠点に逃げ込むことが多発していた。
更に、そこで食うに窮する者もいれば、この際に故郷を捨て去ろうという者もいる。
そういった日本の拠点に逃げ込んだ者、難民の多くが、半ば甘言に引っかかって、年季奉公人、移民としてインドから離れることもよくあることでは済まないレベルで起きるようになっていた。
だが、日本本国では外国人の年季奉公人によって仕事が奪われる、低賃金労働が横行するとして、外国人への反感が急激に広まってもいる。
こうしたことから、この当時はインドから脱出した難民の多くが、オーストラリア等を目指す事態が起きていたのだ。
この動きについて、足利義輝らは歓迎する態度を基本的に示した。
勿論、インドから脱出してきた難民がインドで行ってきたよろしくない慣習、特にカーストに基づく差別等をオーストラリア等に持ち込もうとしたなら大問題になるので話は別になるが。
そうでないならば、オーストラリア等では人手不足が深刻な状況だったので、基本的に移民は大歓迎だったのだ。
何故かといえば、オーストラリア等でゴールドラッシュが起こった際に、一時的に日本からの移民は増えたものの、それは結果的に一過性に終わり、この1574年頃になると日本からオーストラリア等への移民はほぼいなくなっているといっても過言ではない有様になっていたからだ。
その背景としてあるのが、日本国内で工業化、近代化が順調に進捗しており、それに伴い、都市が発展して、そこに集う住民の生活水準は順調に右肩上がりになっていたことだった。
「皇軍、来訪」から暫くの間、日本が植民地開発に勤しみだした1540年代後半から1560年代末頃までは、長男が家の跡を取って、それ以外の兄弟になる次男以下は日本国内に止まるよりも日本国外に出た方が稼げるとして、積極的に海外へ赴いて植民地開拓に夢を抱いていたのだが。
1560年代末以降になると、日本国内の工業化、近代化が順調に進捗していたことから、海外の植民地に赴くよりも、日本国内の都市部、具体的には京阪神や南関東、濃尾や筑豊といった工業地帯に赴いて働こうとする次男以下が増える一方になっていたのだ。
こうした事態が日本の植民地において、移民してくる日本人が増えない事態を引き起こしていたのだ。
その一方で、オーストラリア等ではゴールドラッシュが起こったことで、奥地には更に宝の山があるのではないか、という山師がこの当時には珍しくなく、現地では奥地の資源の探査を行おうとする山師が手を組んで探査隊を編成して、奥地に赴くことが多発していた。
実際に金の山が見つかることは稀だったが、鉄を始めとする様々な鉱山や炭田が見つかることはそれなりにあり、そこでの働き手が大量に求められる事態がオーストラリアでは起こっていた。
そういった鉱山、炭田においては、インドから脱出してきた難民等が年季奉公人として送り込まれて働く事態が、この当時は多発していたのだ。
何しろ鉱山や炭田の労働はそれこそキツイ、汚い、危険と三拍子そろった職場である。
そんな職場で働きたがる日本人は少なく、難民等が主に働いていた。
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