第32章ー2
実際、1574年頃の中南米は順調に発展していた。
既にスペイン人やポルトガル人の探査というか侵略行為が、中南米ではそれなりに行われた後に、日本とスペイン、ポルトガルとの戦争が中南米では始まった。
そうしたことから、中南米における日本人の入植活動は、最初はスペインやポルトガルの植民地を奪うことから始まったと言っても良かった。
中南米において、1562年に日本とスペインやポルトガルの戦争が始まった時、中南米のスペインやポルトガルの植民地化が始まってから100年どころか50年も経っていないところがほとんどと言ってよかった。
(アステカ帝国の滅亡は1521年であり、インカ帝国の滅亡は1533年である。
また、ブラジルにポルトガル人の永住的な植民地建設がはじまったのは、1532年のことである)
こうしたことから、まだまだ中南米においては、スペインやポルトガルが地元の原住民と連携した統治体制を確立していたとは言い難かった。
勿論、日本とスペイン、ポルトガルの戦争が始まった頃になると、地元の原住民によるスペインやポルトガルへの武装抵抗等はほぼ消滅と言ってよい状況にはなっていたが、だからといって、地元の原住民がスペインやポルトガルの統治に心服していたとはとても言えず、日本軍が進撃してきたら、地元の原住民が歓迎して日本軍を出迎えることが珍しくないどころか、多発する有様だった。
このためもあって、日本軍の圧倒的な質的優勢もあったが、1568年頃には中南米からはスペインやポルトガルの勢力は駆逐されたといってよい事態となり、日本はスペインやポルトガルとの休戦条約において、南北アメリカ大陸とその周辺(カリブ海諸島等)からスペインやポルトガルを駆逐することに成功したのだ。
そして、このことが中南米大陸における日本の植民地化を順調に進めることになった。
スペインやポルトガルが築いていた統治体制を、まずは日本流に換骨奪胎することが中南米の植民地においては基本となった。
それこそスペインやポルトガルの統治体制は、それこそ泣く者がいなくなるまでとことん原住民から搾り取れ、所詮、彼らは異教徒、原住民がいなくなればアフリカから奴隷を連れてくれば良い、というような統治体制だった。
だから、そこまでの収奪を原住民からはしない、スペイン人やポルトガル人の持っていた土地を没収して、日本人の土地にする、また、故郷に帰りたいスペイン人やポルトガル人は引き止めず、中南米に住み続けたいのならば、それは認める、という日本の新たな統治体制は、原住民からは好意的に受け取られた。
また、中南米に赴いていたスペイン人やポルトガル人の多くが、中南米での一攫千金を目論んで来た面々であり、今更、故郷に帰れない者が多かった。
そうした者の多くが、内心では渋々だったが中南米で日本の統治に服しつつ、生業を築こうとすることになった。
だが、その一方で中南米に入植した日本人は様々な物資を入手するとともに、大規模な開発を進めようとも目論むことにもなった。
中南米は様々な重要物資の原産地でもあったからだ。
例えば、天然ゴムの最大の産出原料となるパラゴムノキ、マラリアの特効薬のキニーネの原料となるキナノキ、(少し後になるが)世界各地の食糧事情に多大な影響を与えるジャガイモやサツマイモ、キャッサバ、嗜好品のタバコやカカオ等々。
こうした物資を入手した日本人は、それを世界各地に広めてそれで更に儲けようとも考えることになった。
1574年時点では世界中に十分に広まっているとは言い難かったが、それでもキニーネはマラリアの治療薬として人気が沸騰する等の事態が起きていたのだ。
ようやく登場人物がタバコを吸ったり、チョコレートを食べたりする描写ができるようになります。
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