第30章ー10
私は弁護士とか法学博士とかではありませんので、憲法上の規定の様々な描写について重箱の隅を楊枝でほじくるようなことをされてもお答えできませんので、その点はご寛恕下さい。
だが、小早川道平の説得は最終的には織田信長を納得させられなかった。
実際に道平の論理は、新大日本帝国憲法の施行を前にしては、人権感覚が鈍すぎると日本本土内では叩かれても仕方のない代物になっていた。
年季奉公人は、結局は有期の奴隷制度ではないか、大日本帝国憲法が厚く人権保障等を行うことを定めた以上、年季奉公人制度を少なくとも日本本土では禁止すべきだ、との信長の論理立ては当然の話と言えば当然の話で、道平も正論だけに完全に反駁することは不可能だったのだ。
結局、道平は議会が実際に開設された暁には、年季奉公人禁止法案を労農党は提出するという信長の説得を諦めて、異父姉夫婦の織田(三条)邸を辞去するしかなかった。
尚、この際に少なからず話がズレるが、(この世界の)大日本帝国憲法が国民に対して保障した人権について少し説明すると。
まず、身体的自由の保障がある。
例えば、現行犯以外であれば令状が無いと逮捕されないし、様々な捜索や差押といった刑事手続きにおいても令状が必要であるということが憲法上保障されていた。
また、鋸引き等の残虐な刑罰や拷問等も憲法で禁止されていた。
更に刑事手続きにおいては法定手続が保障され、罪刑法定主義も憲法で明記されていた。
精神的自由の保障もそれなりに充実していた。
思想・良心の自由が認められていた。
信教の自由も認められていた。
学問の自由や表現の自由、集会の自由も認められていた。
更に結社の自由(この中に労働三権の一つの団結権も含まれていて、更に団結権を根拠にして派生する形で法律上は残りの労働三権の団体交渉権、争議権に至るまで)が、この世界の大日本帝国憲法では憲法上は認められていた。
もっとも、公共の福祉に反しない限り等の制約が憲法の文言上に入っており、例えば、信教の自由に関しては、法律上は火葬が少なくとも日本人の間では強いられていたことから、キリスト教やイスラム教の布教に多大な制約が掛かってはいた。
(この当時、史実でもキリスト教やイスラム教において、信徒の遺体が火葬にされた場合、最後の審判で救済されないと説いていた、という現実がある。
こうしたことから、日本人というか、日本本土ではキリスト教やイスラム教の布教が進まないというのが現実として起こっていたのだ。
何しろ改宗したら救済されなくなる宗教に、誰が改宗したがるだろうか?)
経済的自由もそれなりに保障されていた。
財産権が保障されていた。
又、職業選択や居住移転の自由が憲法上に明記されており、更にそれらから導き出された解釈として、営業の自由も憲法上は保障されていると解されていたのだ。
社会権はどうなのだ?というツッコミが起きそうだが、既述のように憲法上で労働三権は事実上認められている。
そして、生存権に関しても憲法の明文で保障されていないが、その代わりに、国家は国民に対して生存させるための義務を負うという条文があるので、それで補いがつくようになっていた。
また、他にも法律上の制約が前提としてあったが憲法上は、請願権や参政権が国民の能動的な権利として認められていた。
更にそれを事実上は補完するモノとして、法の下の平等や生命、自由及び幸福追求権(特に後者は新たな人権の根拠規定にまでなり得る代物)が憲法上で明記されていた。
このように、この世界の1574年に発布、施行されることになった大日本帝国憲法は、十分に1941年の史実世界においても世界で通用する程、人権に関する規定を認めていた。
人権規定を幾ら作ってもそれを守れる統治機構が無いと意味がない、と言われそうだが。
それも君主主権の大枠があったが、史実を参考にして作成されていた。
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