第29章ー8
そういった日本国内(本土や日系植民地)の動きを踏まえた上で、日本への帰国の途上において、表向きは近衛前久太政大臣と織田(三条)美子尚侍との面談、実際は近衛太政大臣と織田信長の面談が何度も行われていた。
「ふむ。織田殿としては大日本帝国憲法制定に積極的に賛成ということでよろしいか」
「言うまでもありません。それこそ大日本帝国全労連結成準備会を作って以来、大日本帝国憲法を作れ、というのは何度も私自らも訴えてきました」
「確かにそうであったな」
「ですが、問題はその内容です。大日本帝国憲法が臣民の権利をキチンと守れる代物になるのか、そういった内容になることを私は望んでいます」
「ふむ」
近衛太政大臣と織田信長はそうやり取りをした。
近衛太政大臣とて、皇軍がもたらした様々な知識に触れてきた身である。
だから、大日本帝国憲法という名であっても、日本がかつて作った十七条憲法とはまるで異なる法律であることは重々分かっている。
また、それこそ小難しい定義になりかねないが。
大日本帝国憲法を制定するということは、形式的意味でいえば、「大日本帝国憲法」という名前で呼ばれている成文の法典を制定するということを意味し、実質的意味でいえば、「大日本帝国憲法」という成文の法典のみに関わらず、多くの成文法や不文法の内容として存在する国家の基礎法全体の制定を意味するということになる。
(実際に後で述べることになるが、この世界の日本においては、「大日本帝国憲法」だけが国家の基礎法とはならず、「皇室典範」も「大日本帝国憲法」と同格の国家の基礎法になる)
途中寄港地のアデンで購入した珈琲を飲みながら、二人は話を続けた。
「皇軍がもたらした大日本帝国憲法を、信長は読んだことがあるのか」
「半分、地下出版された代物で、一部の条文が欠けたモノでしたら。もっとも、それ以上のことは近衛太政大臣には言えません。何しろ大日本帝国憲法は表立って話すのは重すぎる話です」
「だろうな。そうでなくては、大日本帝国憲法を制定するような発想は生まれぬだろう。儂は太政大臣になる前、摂家の一員として、将来は太政大臣になる準備の一環として、全部の条文が入った文書に目を通したのが最初になるが、それを読んだときの衝撃は今でも忘れられぬ。そして、大日本帝国憲法については、皇軍の元法務士官や政府の法学の専門家等から講義も受けたが、今でも分からぬことが多い」
さて、皇軍がもたらした大日本帝国憲法という言葉が出てきた。
「皇軍来訪」によって、(史実の?)1941年当時の様々な法典がこの世界にもたらされていた。
何しろ10万人規模の軍隊がこの世界に赴いたのだ。
その中には当然のことながら、憲兵や法務官がそれなりの数でおり、そういった者達が六法やその解説書をこの世界に結果的にもたらすことになった。
そして、この世界に合わせた法典を作ることになったのだが、まずは必要な法律を作らねばならないということから、民法を作ろう、更に行政法や刑法、又、民刑の訴訟法を作ろうといった感じで憲法は後回しになった。
というか、この世界に相応しい憲法は何か、ということになると法律の専門家でもある法務官内部でもかなりの激論が交わされる有様となり、そういったことからも後回しになってしまった。
だが、これはこれで不満を持った一部の法務官から密かに大日本帝国憲法の条文や理念等が様々な経路でこの世界に流出することになった。
中にはその一部が地下出版される例までが起きてしまった。
信長は、そういった大日本帝国憲法に関する地下出版物を入手して読んだことがあり、それによって大日本帝国憲法を知ることになったのだ。
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