第29章ー7
この際に少なからず横道に逸れかねないが、序でにこの1568年当時の日本への外国からの移民問題をまとめて述べると。
この外国からの移民問題は、この1568年当時の日本本土では外国からの移民を排斥する方向に流れていたが、本土以外の日系植民地では真逆といってよい現象を引き起こしていることが厄介だった。
日系植民地では、日本本土とは逆に全面的な人手不足から年季奉公人名目等であっても外国からの移民を積極的に受け入れる方向に流れていたからである。
日系植民地では外国からの移民を歓迎しないと植民地開発が進まないという現実が起きていたからだ。
更に言えば、オーストラリア等ではアジア各地からの移民が向かっていたが、南北米大陸等では欧州やアフリカからの移民であっても積極的に歓迎する方向だった。
つまり、日本本土やオーストラリア等の日系植民地では、どうのこうの言っても黄色人種がほとんどと言っても間違いなかったが。
(細かく言えば、アジア各地の拠点で虜囚等の身になったポルトガル人らの異人種がオーストラリア等にいたが、どう多く見積もっても数千人単位であり、極少数としか言いようが無かった。
また、日本本土等の移民取締りがきつく、移民が異人種ではすぐにバレるというのもあった)
南北米大陸等の日系植民地では、それこそ様々な民族どころか異人種さえも受け入れる方向だった。
これは南北米大陸等の日系植民地では、日本人が大地主等、つまり経営者的立場になっている者が多いことから来るものであった。
そして、経営者的立場にある以上は安価で働く労働者ならば歓迎するという事態が起きた。
更に言えば、北米大陸西岸部ならともかく、北米大陸の東中部や南米大陸等となると、日本本土から人を呼ぶよりも、欧州やアフリカからの移民を招いた方がコストが安くつくという現実がある。
また、この当時の南北米大陸等はスペイン、ポルトガルが日本よりも先行して植民地化を図っており、そうしたことから白人や黒人がそれなりの数で併せれば十万人単位で、南北米大陸等には既に住んでいたという現実もある。
そして、そこそこ有力なスペイン人とかならば、例えばアルバ公とかは、自腹を切って祖国に帰る路を選ぶ者が多かったが、白人にしても一旗揚げるのに失敗していた者や元傭兵とかになると帰国費用に事欠く者が多く、そういった者は植民地化を進める日本人に雇われて糊口を凌ぎ、日系植民地の住民になるのが通例になった。
この点に関しては、黒人の方がもっと深刻で、スペイン人や(ブラジルでは)ポルトガル人の奴隷がほとんどであり、日本では奴隷制を認めていないから、ということで無償で解放されて自由になっても、他に食べる術が無いからということで、鉱山奴隷や農業奴隷から引き続き、鉱山労働者や農業労働者になっただけの者がほとんどを占めた。
(それに故郷に何とか帰っても、また、奴隷として売られるだけというのが、多くの元黒人奴隷には目に見えていたのもあった)
更にこういった現場を見て、南北米大陸等の日系植民地内では、引き続き白人や黒人を受け入れてもいいのでは、という意見が日本人の間では生じて、更に多数になっていった。
こうしたことから、ジブラルタル等を拠点として、南北米大陸等の日系植民地は欧州やアフリカからの移民を異人種であっても積極的に受け入れることになった。
だが、このことは日本本土と南北米大陸等の日系植民地の間に徐々に対立を産むことになる。
日本本土の移民排斥派にしてみれば、南北米大陸等の日系植民地は移民を積極的に受け入れて許せない、となり、南北米大陸等の日系植民地はこちらの事情があると猛反発したのだ。
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