第29章ー2
ともかく、そういった行き違いまでが起きた以上、織田(三条)美子としては、1568年から1569年の年末年始に日本本土に自分がいない、というのは年末年始の宮中祭祀問題に自分は関わらなくともよいということで有難い話に却ってなっていたのだ。
もっとも、宮中祭祀の一件はそれで済んだとしても、織田美子にしてみれば、頭の痛い問題は他にも幾重にもあり、更に言えば近衛前久太政大臣らにしてみれば、それ以外の頭の痛い問題の方が遥かに重要なのが現実という代物だった。
例えば、織田美子にしてみれば、宮中祭祀の一件以外については、異父妹の武田(上里)和子らが主導して北米大陸の面々が行ったジブラルタル攻撃の後始末が、もっとも頭の痛い問題だったが。
近衛太政大臣にしてみれば、ジブラルタル攻撃の一件については、それこそ北米大陸にいる面々の武田和子らを、自分が日本本土に帰国次第、叱りつけるだけで当面は終わりにするつもりだった。
(もっとも、その後は北米大陸にいる面々には官位の沙汰等は決して行わず、逆にオーストラリア等や中南米大陸等にいる面々に対して、積極的に叙位等を行うことで、自分達のやったことの重大さを暗黙裡に示そう、と近衛太政大臣はこの当時、考えていた。
だが、この近衛太政大臣の措置は、却って北米大陸の面々に、これまで対スペイン戦争で様々な功績を上げてきた自分達を軽視するにも程があるという激怒を後で引き起こすことになり、結果的には逆効果になったとしか言いようが無かった)
そして、近衛太政大臣にとって、今、一番に頭が痛い問題は日本の国内に関する憲法制定を始めとする様々な問題であり、次に頭が痛い問題が、スペインとポルトガル(及びバルバリ海賊)との休戦条約締結問題だった。
話が相前後してしまうが、まず先に休戦条約締結問題について語ると。
本来から言えば、近衛太政大臣のスペインとポルトガル(及びバルバリ海賊)との休戦条約締結は越権行為にも程がある話だった。
何しろ、日本からオスマン帝国に赴く際に、今上(正親町天皇)陛下から近衛太政大臣にエジプト独立問題に関する全権が与えられてはいたが、スペイン等との交渉権は与えられていなかったのだ。
だが、北米の日本勢力(具体的に言えば松平元康ら)が勝手にジブラルタルを攻略し、更にバルバリ海賊とも交戦したことから、緊急措置として近衛太政大臣らは動かざるを得なくなり、これ以上の北米の日本勢力の活動を抑止する必要もあったことから、半ば勝手働きでスペイン等との休戦条約締結を行わざるを得ない状況になったのだ。
そして、その弁明をスペイン等からもさせる必要があったことから、艦内での行動に監視を付けた上でスペインやポルトガル、バルバリ海賊の使者(代表)を合計で10名程、「三笠」に乗り込ませて、日本へと連れて行っている。
(尚、この件で今上(正親町天皇)陛下の了解が得られ次第、この使者(代表)達は、日本政府が仕立てた蒸気船で帰国する予定にもなっている)
近衛太政大臣としては、この件は越権行為として今上(正親町天皇)陛下から叱り飛ばされる事態になることは半ば覚悟しているが、緊急事態としてるる説明すれば、何とかなると思いたい事案だった。
何しろ事情を知らないスペイン等の国々からすれば、それこそ日本本国が欧州やアフリカに積極的にカチコミを掛けた、大戦を仕掛けに来たと思われて当然の事態だったのだ。
そういった緊急事態から戦争の危機を回避するのに成功できたことを、今上(正親町天皇)陛下に説明して納得していただこう、と近衛太政大臣は考えており、その周囲の面々も近衛太政大臣に賛同する事態が起きていた。
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