第28章ー7
そして、その一方では、この1568年はオーストラリア等にいるポルトガル人らにも大きな知らせがもたらされた年でもあった。
(もっとも実際にオーストラリア等にその知らせが本格的に届くのは、1569年以降になったが)
1568年、日本とポルトガルは暫定的であったが無期限の休戦条約を結び、対マラッカ戦以降の日本対ポルトガル戦争の結果、日本の捕虜になっていたポルトガル人らの帰国が可能になったのだ。
(ポルトガル人らと書いているのは、日本対ポルトガル戦争で日本の捕虜になっていたのは、ポルトガルの傭兵となっていたポルトガル以外の出身であるヨーロッパ人もいたため)
日本の捕虜となっていたポルトガル人らのほとんどは逃亡を防ぐためもあって、オーストラリアとニュージーランドに送られていて、そこで長年に亘って捕虜として生活を送っていた。
(尚、8割程がオーストラリアであり、残り2割程がニュージーランドに送られている)
もっとも捕虜とはいえ、捕虜に同情した足利義輝らの方針もあって、自らのカトリック等の信仰を守ることが認められ、それに基づく生活習慣もかなり黙認されていた。
(例えば、本来であれば伝染病防止の観点等から遺体は火葬にすることになっていたが、ポルトガル人達はカトリック信仰から土葬にせざるを得ず、表向きは火葬にしたと届をして、実際には土葬にしていた。
そして、足利義輝らもそれを承知していたが、火葬にしたという届がある以上はそうしたのだ、という阿吽の呼吸でこの件を処理していた)
その一方で、足利義輝らにしてもそう余裕はなく、捕虜にしてもいつまで続くか分からない無為徒食の日々は辛いことから、捕虜が自活生活を送りたいと言い出したら、足利義輝らはそれを歓迎した。
こうしたことから、ポルトガル人の捕虜の多くが日本人が経営する農場で働いて日銭を稼ぎ、中には更に原住民の女性と結婚して子どもを持ってと事実上の家庭まで築く例が起きていた。
何しろ1548年のマラッカでの戦闘から1556年のゴアでの戦闘までが、事実上のアジアにおける日本対ポルトガル戦争であったと言える。
ゴアを日本が占領して以降は、ポルトガル艦隊はインド洋から完全に姿を消してしまっていた。
そして、ポルトガル本国はアジア経営を断念して、ブラジル経営に力を注ぐようになっていた。
このために1568年になる頃には、長い者では約20年、短い者でも12年程は、ポルトガル人らの捕虜はオーストラリア等に住んでいたのだ。
オーストラリア等にいるポルトガル人とて望郷の想いに駆られないことは無いが、それだけの長い期間をオーストラリア等で過ごせば、この地が第二の故郷のように思われてくる。
そして、捕虜である以上は、この地から離れる自由は無いが、それなりの生活ができ、事実上の家庭まで築けていては、この地から離れがたい想いをしているポルトガル人らが、1568年の今ではほとんどを占めるようになっていた。
そうしたところに日本とポルトガルが休戦条約を結んだ。
帰国したい捕虜は帰国できる、という連絡が彼らの下に届いたのだ。
オーストラリア等にいるポルトガル人らは歓声を一時は挙げたが。
余りにも長い歳月が彼らの帰国を困難にしている現実に徐々に気付いた。
試しに本国に手紙を送ってみると、文面上は還ってこいとは書いてあるが、土地財産は自分の子や弟らが我が物にしていることが分かる例が多発した。
子や弟らにしても理屈がある。
父や兄から連絡が途絶えて10年以上、土地財産を自分達が管理してどこが悪いという理屈が。
こうしたことから、多くのポルトガル人らは結局は帰国することを諦めて、この地に住み続けた。
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