第4章ー15
近衛植家は、自分自身でも情けないと感じながらも、帝、今上天皇陛下に、島津貴久から聞いた皇軍の考えをそのまま伝えざるを得なかった。
帝は、しばらく考え込まれた後、
「関白に伝える。皇軍の最上級の者と、朕が面談しよう。最上級の者には、適宜の官位を与え、昇殿の許可を与える。なお、面談の際には、そなたを始めとする公卿もできる限りが参内して、その場に立ち会うように」
と指示を与えた。
この指示に基づき、山下奉文陸軍中将には、急きょ、従五位下の官位が与えられ、更に昇殿の許可が与えられることになったが。
この指示に対して、海軍側が不満を示した(陸海対等の原則があり、陸軍と海軍が揃って参内すべきだという理屈を述べた)ことから、小沢治三郎海軍中将にも従五位下の官位が与えられ、更に昇殿の許可が与えられることになった。
だが、これに対し、陸軍側が今度は不満を示したことから。
(小沢中将は、この世界にいる海軍としては、近藤信竹中将、高橋伊望中将に次ぐ第三位に過ぎない。
だから、小沢中将の昇殿が認められるのなら、陸軍も最低3人は昇殿が認められるべきだと主張した)
あらためて、陸軍を宥めるのに、山下中将には、従五位上の官位が与えられるという事態になった。
(なお、この時、近藤中将も高橋中将もマニラにおり、更に燃料不足の問題も加わって、急には日本へ、京には向かえなかった、という裏の事情もある)
こういったやり取りがあったために、山下中将と小沢中将が揃って、帝、今上天皇陛下と宮中に参内し、面談が出来たのは、3月に入ってからのことになった。
だが、その前に。
京の街に入った山下中将と小沢中将は、京の街の状況に目を見張った。
長引く応仁の乱以来の日本国内の戦乱から、それなりの戦禍をずっと京の街は被っていたが、その中でも最大の戦災といえる、1536年(天文5年)の天文法華の乱によって被った戦禍からの復興が、京の街では完全には終わっていなかったのだ。
5年余り前の戦禍が如何に酷かったのか、それを想像するだけで、二人の気は重くなった。
此度の足利幕府軍との戦いで、京の街が戦乱に遭わずに本当に良かった、と二人は想った。
実際、この時の戦禍のために、御所の塀の一部は崩れかけたり、御所の建物の一部は焼け焦げたままになったり等していて、上洛を果たした近衛師団の将兵がそれに気づき、大工や左官等の腕の覚えのある兵が、余りの御所の御いたわしさに涙を零し、慌てて無償で積極的に修繕を行うような有様だったのだ。
(なお、このこともあって、帝は皇軍の司令官に逢うことを決めたという。
一切、報酬を受け取らず、そこまでのことをする皇軍とは何者なのか、興味を持つと共に、同じ言葉を話す者である以上、直に自らが逢って、話を聞こうと考えたという)
そして、山下中将と小沢中将は、帝、今上天皇陛下の御前に赴いた。
この時代の常として、一応は御簾越しで、山下中将と小沢中将は、帝と対面する。
なお、言うまでもなく、その場には関白の近衛植家らの公卿も列席している。
「朕である。そなたらが400年未来から来たというのは真か」
その帝の御言葉を聞いた瞬間、山下中将も、小沢中将も思わず平伏していた。
特に山下中将に至っては落涙してしまった。
ああ、このお方は帝、今上天皇陛下で間違いなくあられる。
そうお言葉を聞いた瞬間、二人共に察してしまったからだ。
何故に分かったのか、と他の人に問われても答えかねる程の威厳と衝撃だった。
そして。
「民は苦しんでおる。皇軍は民をどうするつもりなのか」
続けての帝の御言葉に、特に山下中将は雷撃に遭ったような想いがした。
この帝は、民のことを真に想っておられる。
帝、今上(後奈良)天皇陛下を持ち上げすぎ、と言われる方もおられるでしょうが。
実際。史実を調べる限り、この時の今上天皇陛下は、民のことを心から思われる素晴らしい方でした。
これで、第4章は終わり、次から第5章になります。
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