第4章ー13
2月19日の朝、近衛師団の将兵は完全に上洛を果たすことに成功した。
最早、京の街中どころか、山城国内やその周辺において、皇軍に表面だって敵意を示し、抗戦しようとする者は誰一人としていないと言っても間違いない有様になっていた。
勿論、多くの国人衆等が、山崎の戦いで大損害を被ったとはいえ、完全に根絶やしにその時にされたわけではないし、例えば、京の近郊の比叡山延暦寺の僧兵は未だに健在である等、京の周辺に武装勢力が完全に皆無という訳では無かった。
しかし、京の周辺の武装勢力、国人や寺社等は、山崎の戦いの結果に完全に戦慄した、といってよい有様に陥っており、皇軍に敵対の意思を示すどころではない有様だったのだ。
近衛師団の将兵は、速やかに洛中、京の市街の治安維持活動に取り掛かる一方、更に、自らに降ってきた元足利軍の将兵を使者として、京の周辺、山城国中の国人や寺社に対して、恭順の意を示すように求めた。
その使者が来た国人や寺社は、それこそ比叡山延暦寺を筆頭に相次いで恭順の意をほぼ全てが示した。
何故かと言えば、足利義晴が皇軍の虜囚の身となっており、更に細川晴元、六角定頼、三好長慶、三好政長が山崎の戦いの結果、あの世へと旅立っていったのだ。
反皇軍として担ぐべき旗頭が、すぐには京周辺には誰もいないと言って間違いない惨状だった。
更に本願寺が事実上の無条件降伏を余儀なくされ、山崎の戦いにおいて、皇軍の戦力が懸絶していたことも山城国中に(噂により尾ひれが多大に着いてはいたが)、情報として流れている。
こうした中で、皇軍にそれでも刃を向ける覚悟がある者が、山城国中やその周辺にいるのか、といえば。
この時に残存している中で、山城国中やその周辺で、一番、強力な武装勢力と言える比叡山延暦寺が、今上天皇(史実で言う後奈良天皇)陛下の同母弟、尊鎮法親王殿下が天台座主であることを頼りに、皇軍に積極的に協力する、更に武装解除に基本的に応じることを言い出しては。
それでも、表だって皇軍に抗戦する意を示す者が、山城国中やその周辺にはいる筈も無かったのだ。
そうした中で、実務的な話し合いも進められつつあった。
「近衛殿には、ご機嫌麗しく」
「それは皮肉か。麗しい筈もあるまい」
近衛植家は、島津忠良、貴久父子と向き合っていた。
「全く、義弟が縄目の恥辱を受けていたのだ。しかも、足利将軍家の当主がだ。あやつらめ、奉公衆の誇りはどこに消え失せたのだ。皇軍の将兵に激怒の末に殺されて当然の振る舞いだ。それで、義晴殿はどうしておられるのか、分かっているのか」
植家は、口早に島津父子を半ば問い詰めた。
本来なら、植家は、五摂家筆頭の近衛家当主であり、前太政大臣にして、現役の関白だった。
はっきり言って、事実上の薩摩の国主になっているとはいえ、未だに無官の島津父子と、植家が直に話すのは異常事態もいいところで、本来なら直に島津父子と植家が会うことさえ、おこがましい事態と言える。
だが、皇軍と称する異形の軍隊が、京の都に駐屯しており、その事実上の窓口が、島津父子なのだ。
だから、植家自ら、島津父子と会い、皇軍との交渉を行おうとしている。
とはいえ、人情として、身内の消息をまずは知りたい。
そのために公私混同もいいところだが、植家は、義弟の義晴の消息を確認しようとした。
それに義晴の妻である、自分の妹を安心させる必要もある。
妹の慶子(史実で言う所の慶寿院)は、実は子どもらを連れて、近衛邸に匿われているのだ。
「義晴殿の身柄は、皇軍と称する者が監守しております。特に非道な扱いは受けておられぬとのことです」
島津貴久がそう答えると、植家は安どの表情を浮かべた。
作中に出てくる足利義晴の正室が、慶子という描写ですが。
私が調査した限りでは、実名が不明で、慶寿院という出家後の名前しか判明しませんでした。
それで、出家後の名前は、実名から一部を取ったのでは、と推測して、慶子としています。
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