第26章ー1 エジプト独立戦争への日本の介入
第26章の始まりになります。
さて、またも時間が相前後する。
1568年5月中旬に第一報を受け、更に6月上旬に村上武吉中佐が「石鎚」と共に帰国したことから、日本政府はエジプト独立戦争への介入を本格的に検討することになった。
そして、誰がもっともこの件でやる気になったか、というと。
「儂自身がオスマン帝国に赴き、この件をまとめて見せよう」
とエジプト独立戦争の一報を聞いて言い出した近衛前久太政大臣だった。
もっとも、この辺りは微妙に黒い部分があった。
この当時、日本は「皇軍来訪」により太政官制を行政、司法機構として日本を統治していた。
そして、太政大臣を天皇のすぐ下の行政、司法の長としており、外務省、大蔵省、内務省を重要省として考えており、それ以外の省はやや格下扱いされていた。
そのために太政大臣は一位の者が、外務省、大蔵省、内務省の長、外務大臣、大蔵大臣、内務大臣は二位の者が、それ以外の省の長である大臣と外務省、大蔵省、内務省の次官は三位が任ぜられるという取り扱いが慣例となっていたのだ。
そして、この時の外務大臣は二条晴良が務めていた。
だから、本来からすれば、このエジプト独立戦争への対処は二条晴良が行うのが筋で、半ば極論を言えば二条晴良がオスマン帝国に赴くべき案件だった。
だが、このことは微妙に近衛前久には気に食わなかった。
オスマン帝国との最初の外交交渉を行って日本との同盟締結にこぎつけたのは、それこそ約16年前の岩畔使節団の功績であり、その際に副使を務めていたのは近衛前久の母方叔父になる久我晴通だった。
そして、折に触れて久我晴通から近衛前久はその時の話を聞いてきたのだ。
今度は自分がオスマン帝国との交渉に当たろう、と近衛前久は考えたのだ。
更にもう一つの理由があった。
二条晴良は(いうまでも無い話だが)摂家の出身であり、年齢的にも近衛前久より年長で太政大臣を務めて当然と周囲も考えている存在だった。
だが、近衛前久の猛工作で太政大臣に就任できずに、二条晴良は外務大臣を務めている。
ここでオスマン帝国との外交交渉を二条晴良に任せて成功されては、周囲から二条晴良こそ太政大臣を務めるべきだ、との声が挙がりかねない、と近衛前久は懸念した。
(実際に二条晴良も、この太政大臣の件については内心では不満を抱いており、隙があれば自らが太政大臣になろうと画策しているのが現実だった)
こうしたことから、近衛前久は自分がオスマン帝国に赴いて今回の交渉をまとめることで、自分が太政大臣に相応しい、というのを示そうと考えたのだ。
だが、思わぬ障害が生じた。
「何、適切な官位を持つアラビア語やトルコ語の通訳がいないだと」
近衛前久は困惑した。
摂家出身で太政大臣である自分がオスマン帝国に赴く以上は通訳もそれなりの官位を持つ者を連れて行こう、と近衛前久は考えたのだが。
この1568年当時、アラビア語やトルコ語通訳ができる者は少なく、また、通訳の地位自体もそう高くなかったことから、アラビア語やトルコ語通訳は無位の者ばかりだったのだ。
かといって、自分が連れて行くに相応しい、それなりの位である従五位下より上の位に外務省の通訳を任命しようとすると、へそを曲げた外務大臣の二条晴良が私の意向を無視して、私の部下の通訳を急に抜擢するのか、と反対の姿勢を示した。
ただでさえ横車を押したのが自分でも分かっているので、近衛前久はこの通訳問題に頭を痛めることになった。
通訳として誰か適当な人物はいないのか、そう慌てて探す羽目になった近衛前久に、叔父の久我晴通が入れ知恵をした。
丁度良さそうな人物を儂は知っている。
その叔父の言葉に、文字通りに近衛前久は飛びつくことになった。
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